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マタイによる福音書 27章27~56節 [マタイによる福音書]

<三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(46節)>

「主イエス・キリストが十字架につけられた時、人々は『今すぐ十字架から降りて来い。そうすれば信じてやろう』と主イエスを侮辱しました。この人々の嘲りは『荒れ野の誘惑』の悪魔の問いかけに似ています。悪魔が人々の中に入って、主イエスを誘惑しているのです。」と、横井牧師は書きだされる。

「パウロが『私は福音を恥としない』と言った福音とは、十字架につけられた主イエス、三日目に蘇られた主イエスの事です。十字架刑というのは激しい苦痛と卑しめを与える事が目的でした。公然と人々の前で恥辱を与え、その自尊心を踏みにじる事が目的でした。私たちが恥としない福音とは公然と辱めを受けたキリストについての福音であります」とS牧師はイースターを前に話された。

「お前がユダヤ人の王なのか」と問う総督ピラトに、「それは、あなたが言っている事です」とお答えになり、ローマ皇帝が「王」なのに自分が王であると言ったとして主イエスは罪に定められた。囚人バラバとの「二人のうちどちらを釈放するか」とピラトが群衆に問うと「バラバを」と人々は叫んだ。「そこでピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した(26節)」

兵士達は主イエスを総督官邸に連行したうえ、主イエスの着ている物をはぎ取り、緋色のマントを着せ、頭に茨の冠をのせ、右手に葦の棒を持たせ「ユダヤ人の王万歳」と言って侮蔑し、唾をはき、葦の棒で叩き続けた。「絵画で見る十字架の主から想像できない惨めなお姿です。主はゲッセマネの森で、父なる神に全てを委ねられました。その信頼が主を支えています。」とS牧師は話された。

それから、主イエスは十字架を担いで城壁の外にある処刑場ゴルゴダに向かわれた。ゴルゴダに着くと兵士が、麻酔の働きをするものを主イエスに飲ませようとしたが主はそれを拒まれた。「私たちの罪の対価を支払うために、その痛みを味わわれるのです」と牧師が説かれた。そして両手両足を十字架に釘付けされた。ここを読む者にその痛みが伝わってくる。

通りかかった人々が「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。(40節)」と罵った。主はご自分の事を神殿と言われ、三日目に復活される事を言われていた。ユダヤ人が使う「救い」と、神が御心としておられる「救い」の間には大きな乖離がある。今を生きる者も神に「救い」を祈るが、それは神の御心なのかと自問する事が求められる。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「ホワホワと気泡ふくらむやさしさに白梅咲けり馴染みの路地の 豊島ゆきこ」


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ヨハネによる福音書 17章20~26節 [ヨハネによる福音書]

<また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によって私を信じる人々のためにも、お願いします。(20節)>

「主イエスは、弟子たちだけでなく、弟子たちにより福音が伝えられて、主イエスを信じる者となった者のためにも祈られました。つまり、私たちのためにも祈って下さったのです。」と、横井牧師は書きだされる。

主イエスは「父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、全ての人を一つにして下さい。彼らも私の内にいるように・・(21節)」と、祈られる。「一つに」とは、霊的に、内面的に一つになる事であり、一つの目標を掲げ、それに向かって一致団結せよという事ではない。共にクリスチャンではあるが、出自、年齢、職業などの違いがありつつも、信仰的な一致を神に求められる。

信仰による一致、一人一人が主の十字架の贖いによってその罪を赦されたという体験を持つ。S牧師は「そこから生まれて来る一体性です。それがなかったら一致は生まれません。主イエスが愚かな罪深い私を愛し、そのために命を捨てて下さった事を知り、この方を信じるなら私たちの内に神の愛が生まれ、互いに考え方は違っても必ず一つになる事が出来るのです。」と話された。

教会の一致を見た時「そうすれば、世は、あなたが私をお遣わしになったことを信じるようになります。あなたが下さった栄光を、私は彼らに与えました。私たちが一つであるように、彼らも一つとなるためです。」と祈りを続けられる。 教会の人々の温かい愛の交わりを見る時、この世の人々はその中に主がおられる事を知るのですとS牧師は説かれた。

初めて教会に来られた方は、説教の内容は良く分からなくても、その場の雰囲気から、この世にはない何かを感じてほしいと祈っている。それだけの力が教会員にはない。先日は少し心を病んだ方が来られ教会員は夫々声をかけ、喜ばれたのだがもう来られなくなった。Rさんは自分が使った言葉が悪かったのかと反省していたが、この先は神さまが考えられますと牧師が言われた。

教会は主イエスを頭(カシラ)とする群れである、だからこの世の人々は教会を見るときこの世にないものをそこに見る事が出来る。教会には、命を捨てて私たちを愛して下さった愛と命が溢れている。教会は自分の利益を求めず、苦しめられても隣人の益になる事を求める群れである。一人ではできないが、その道を進まれた主イエスに従って、聖霊の恵みを頂きながら歩む群れである。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「自転車でパンかいにゆく春だって言われれば春みたいな野を抜け 高野岬」


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ヨハネによる福音書 17章1~19節 [ヨハネによる福音書]

<わたしはもはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えて下さった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。(11節)>

「主イエス・キリストは、弟子たちのために祈られます。『永遠の命とは、唯一の真の神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知る事です』と、言われています。『永遠の命』とは、『永遠なる神さまとの交わり』を意味します。」と、横井牧師は書きだされる。

「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすようになるために、子に栄光を与えて下さい(1節)」 この17章は「大祭司の祈り」と呼ばれている主イエスの執り成しの祈りですとS牧師は話し始められた。祈りの5節まではご自身のために祈り、6節からは地上に残していかなければならない弟子たちのために祈られる。

「子の栄光を…」と祈られるが、十字架はもっとも思い残酷な刑罰であった。それに掛けられる者にとっては苦悩、恥辱、敗北をあらわした。およそ「栄光」からはほど遠いものである。しかし主イエスの十字架による贖いの死は、人々に『永遠の命』をもたらすために不可欠なものであった。

次に弟子たちについては「彼らはあなたのものでしたが、あなたは私に与えて下さいました。(6節)」と祈られ、主は御子イエスを世に遣わされたように、弟子たちは主ご自身によって彼らを世に遣わされた者としてみられる。主は彼らのために「あなたのみ名によって彼らをお守りください。・・・悪いものから守ってくださるように」と祈られる。迫害が避けられない事を予告されながら。

「真理によって、彼らを聖なる者として下さい。あなたの御言葉は真理です。(17節)」と祈られる。主はご自身を十字架の死へと献げられる。弟子たちをこの世に派遣される主にとって彼らがその使命をどのように果たすかという事が大きな関心事であった。それで、御言葉(聖書)によって、彼らが良き働き人として霊的に整えられるようにと祈られた。

先日の礼拝に、20代の若者がふらりと顔を見せられた。YouTubeで学んだ事を次々と牧師に披露し質問をする彼に、K牧師は「聖書にその答えはあります。読んでごらんなさい」と、聖書を渡し、必ず最初の創世記から読んでくださいと、勧められていた。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「私の美容代よりトリミング高きワンコをお迎えに行く 高山葉月」


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ヨハネによる福音書 16章1~15節 [ヨハネによる福音書]

<しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせる。その方は自分から語るのではなく、聞いた事を語り、またこれから起こる事をあなた方に告げるからである。(13節)>

「主イエス・キリストは、弟子たちに対する訣別説教の中で、ご自身が弟子たちのもとを去って、父なる神様のみもとに帰られる事を語られました。主イエスが弟子たちのもとを離れることは、実は『あなたがたのためになる』ということです。」と、横井牧師は書きだされる。

この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知らされた主イエスは、愛する弟子を集めて、最後のメッセージをされる。この翌日、十字架に架けられて殺される。「人々が私を迫害したのであれば、あなたがたをも迫害する。」と迫害予告をされた主イエスは、弟子たちにこれらの事を話したのは、その時が来た時に、私のこの話をあなた方に思い出させるためであると話された。

「今、私は、私をお遣わしになった方のもとに行こうとしている(5節)」その言葉に、弟子たちはもう何も言えなかった。それは彼らにとって耳を塞ぎたい出来事であり、悲しみと絶望にただ俯いていたのだろう。しかし主イエスは「私が去って行くのは、あなた方のためになる。私が去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである(7節)」と言われる。

「弁護者」とは「聖霊」の事である。日本基督教団の信仰告白には「・・・父と子とともに崇められ礼拝せらるる聖霊は、信じる者を聖化し御心を行はしむ、この三位一体なる神の恩恵によるにあらざれば、罪に死にたる人、神の国に入る事を得ず。新旧約聖書は神の言にして、そのうちに語りたまう聖霊は主イエス・キリストを顕示し、信仰と生活との誤りなき審判者なり。・・・」とある。

主イエスの後に来られる聖霊は、罪について、義について、裁きについて世にその過ちを明らかにされる。最大の罪は、神を信じない事にあるとK牧師は説かれた。そして「本来、人間は神の形に創られ、神の栄光を現す者として造られたのに、その神から離れ、自分本位に生きるようになってしまうのです。聖書はそれを罪と言います。」と話された。

しかし、その方が来ると自分の罪が明らかになる。自分がいかに自分勝手であったか、またそのために神に反逆していたかがわかり、自分の罪を認めないわけにはいかないのです続けられた。

「ちち、みこ、みたまのひとりの主よ~♪」礼拝の最後はこの三位一体の頌栄を和す。頭で理解しようとするとわからないが、自分は聖霊の導きを頂いている事を今は確かに信じている。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「節分の鬼にも寂しき鬼のいて駅で傘持ち人を待つ鬼 真間梅子」

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マルコによる福音書 14節66~72節 [マルコによる福音書]

<すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう。」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣き出した。(71.72節)>

「最後の晩餐の席で、主イエスはペトロがご自身のことを三度否認することを予告されました。ペトロは『自分はそんなことを絶対にしない』と確信していました。」と、横井牧師は書きだされる。

「大祭司の家で、夜の闇に乗じるように主イエスに対する裁判が行われていた。不正な裁判が進むなか、ペトロという一人の人間の罪も明らかにされていきます。」とK牧師は話される。大祭司の家の中庭で焚かれた火にあたっていたペトロを、女中の一人がじっと見て「あなたもあのナザレのイエスと一緒にいた」と言った。ペトロはそれを打ち消し「何を言っているのか分からない」と言った。

知らない、関係ないと言って出口に向かうペトロに鶏が鳴いた。女中は周りの人々に「この人は、あの人たちの仲間です」と言った。再び打ち消すペトロに人々は「確かにお前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから」と言った。隠す事のできないガリラヤなまりで、必死に打ち消すペトロに鶏が再び鳴いた。この時、ペトロの裏切りを予告された主の言葉が実現した。

K牧師は「ペトロは自分の罪を知りました。それは裏切ったとか卑怯者であった、弱い人間であったとかいうものではありません。自分は主イエスと関係がない、つまり神とは関係のない、神を知らない人間だとペトロは言いました。それが彼の罪です。しかし、その姿は私たちの姿です。私たちの教会の礼拝は戦中厳しい検閲を受け、記録を見ると出席者は牧師の家族だけでした。」と話された。

そして続けて「仮にペトロがこの場で『自分は確かに主イエスの仲間だ』と言って逮捕され、殉教したとします。それは勇敢な行為であるかもしれませんが、そこにあるのは人間の強さ、思いだけなのです。神はそのようなことを人間に望んでおられません。神は憐れみをもってペトロに罪の本質を知らされるのです。」と話された。

「鶏が鳴く」それは夜明けに近い、あなたは今あなたの罪を知った。それは絶望することではない。もうすぐ夜が明ける、肩ひじ張って強く生きる事は無い。あなたは本当のあなたの姿で生きたらいいのだと。鶏の鳴き声がペトロに伝える。自分の不甲斐なさに大泣きする彼を神は愛で包まれる。

私たちが自分の罪の全てを差し出す時、主はその全てを取り除いて下さる。そこから、私たちは朝の歩みを始めていくのだと励まされる。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「ふた口目も臓器にすっとしみこんで白湯というもの人見知りせず 太田愛葉」

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マルコによる福音書 14節53~65節 [マルコによる福音書]

<しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった。そこで、重ねて大祭司は尋ね、「お前はほむべき方の子、メシアなのか。」と言った。(61節)>

「主イエスは真夜中に、人間の公的な裁きの場に引き出されます。この裁判は、主イエスを有罪とする証拠を見出すための結論ありきの裁判でした。偽りの証人たちが立てられましたが、その証言は一致しません。彼らが主イエスについて証言をしている間も、主イエスは沈黙を貫かれました。」と、横井牧師は書きだされる。

深夜に非常招集された最高法院。ユダを買収し、闇に乗じて主イエスを捕らえたユダヤ教の指導者たちは急遽大祭司の館に集まった。最高法院は、ユダヤ人の自治機関。この時代には、大祭司を議長とする71人の議員で構成され行政と司法の権限を持つ。ユダヤ教の律法に関する最高法院として死刑の判決さえ下す権限を持つが、最終的にはローマの裁断を仰がなければならなかった。

「ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで入って、下役たちと一緒に座って、火にあたっていた。(54節)」 剣や棒をもって捕らえに来た人々に連行される主イエスを見て「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった(50節)」、しかしペトロだけは、秘かに後に従っていた。

大祭司を初めとする最高法院の全員は「死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めたが、得られなかった。(55節)」 多くの者が次々と証言したが、偽証であるためその証言はすべて食い違っていた。そこで、大祭司は立ち上がり真ん中に進み出て、主イエスに尋ねた。「何も答えないのか。この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか(60節)」

それでも、沈黙を続けられる主イエスに苛立った大祭司は「お前はほむべき方の子、メシアなのか。」と、からかうように言った。その時、彼らの前に立つ主イエスの姿は栄光と賛美が献げられるには程遠かったからである。「イエスは言われた。『そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る』(62節)」

「主イエスは『そうです』と答えられます。この言葉は、旧約では『わたしはある』という神がご自身を示す時に用いられる言葉です。主イエスがご自身を神であることを示された時、人間は主に死刑の判決を下しました。罪が頂点に達しようとしています。」と横井牧師は結ばれる。

昨日ふらりと祈祷会に来た若者が牧師に「イースターって何ですか」と尋ねていた。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「『鍬の柄が緩まぬように漬けておけ』畑打ち前夜母は言いたり 別府紘」


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マルコによる福音書 14節12~31節 [マルコによる福音書]

<そしてイエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」(24節)>

「最初の聖餐式は、弟子たちの裏切りが告げられる中で行われました。主イエスはパンを取りそれを裂いて『取りなさい。これはわたしの体である。』と言われ、弟子たちにお渡しになりました。そして続いて杯を弟子たちにお渡しになりました。主はご自身を裏切り見捨てていく者のためにも、この食事を用意されたのです。」と、横井牧師は書きだされる。

一同はパンとぶどう酒による聖餐式を終え「賛美の歌をうたってから、オリーブ山へでかけた。(26節)」 一同はエルサレムの市街を出て、谷を越えた向こう側にあるオリーブ山に向かわれた。そこには彼らがいつも夜を過ごしていたゲッセマネの森があった。足元の暗くなった夜道を歩きながら主は「あなたがたは皆わたしにつまずく(27節)」と、注意を促された。

聖書によく出て来る「つまずく」は、主イエスに従っていくことができなくなること、信仰を失ってしまう事、信仰における挫折を意味する。12人の弟子全員が主イエスに従っていくことができなくなる、彼らが信仰を失ってしまうとあらかじめ告げられた。それは神のご計画であった。「万軍の主は言われる。羊飼い(主イエス)を撃て、羊の群れ(弟子たち)は散らされるがよい(ゼカリヤ書13章)」

弟子たちの躓きの背後には、父なる神が主イエスを撃つという神の御業があることを主イエスは示される。弟子たちの躓きをも包み込んで進む神のご計画が、ここを読む者にも知らされる。

ゼカリヤ書の続きは「私は、また手を返して小さいものを撃つ。この地のどこでもこうなる。と主は言われる。三分の二は死に絶え、三分の一が残る。この三分の一を私は火に入れ、銀を精錬するように精錬し、金を試すように試す。彼がわが名を呼べば、私は彼に答え『彼こそ私の民』と言い、彼は『主こそ私の神』と答えるであろう。」 神は真の神の民の再結集をご計画されている。

皆がつまずく、と言われる主にペトロは二度、「たとえご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」と、力を込めて言い張った。皆も同じように言った。イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう(30節)」と、ペトロの裏切りの時間まで特定して言われた。

ペトロは自分ならできると自分の力や精神にこだわり、躓いてしまう。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「『国境にロ軍十九万人』梅を包みし去年の新聞 鈴木和子」


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ルカによる福音書 19節1~10節 [ルカによる福音書]

<イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われた者を捜して救うために来たのである。」(9節)>

「主イエスは私たちの罪を負って十字架につけられるために、エルサレムに向かわれます。エリコの近くで盲人を癒され、そのまま長い坂を下りエリコの町にはいられます。その噂を聞いて大勢の人々が主イエスを一目見ようと集まります。その中に徴税人ザアカイもいました。」と、K牧師は受難節第五主日礼拝の説教を始められる。

ローマ帝国は属国に徴税の権利書を発行し、ユダヤでは裕福な異邦人に与え、彼らに雇われた地元の者が税を徴収していた。徴税人は税金を水増しし、それを着服し私腹を肥やしていた。その事から、同胞からは蔑まれ、汚れた者と差別され、ユダヤ人社会からはつまはじきされていた。

大勢の群衆が主イエスの周りを取り囲んでいた。噂通り、なされる事を、語られる言葉をと、好奇心から駆け付けた者もいただろう。ザアカイもその群衆の一人であった。しかし彼が出かけて行った時には、既に群衆は大きく膨らみ、背が低いザアカイは主イエスを見る事が出来なかった。だけでなく、徴税人のために道を開ける人はいなかった。

そこで、主イエスをどうしても見てみたいザアカイは、木登りは子どもの遊びとされていたのに、いちじく桑の木に登った。「イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日はぜひあなたの家に泊まりたい。』ザアカイは急いで降りてきて、喜んでイエスを迎えた。(5.6節)」 

それを見た人々は、主イエスが厳しい取り立てをして人々を苦しめている罪深いザアカイのところに入り、宿をとった。彼の家に入り、彼の友人となるなら主イエスも穢れた身になると口々につぶやいた。主イエスは人々のそのような思いを知りながら「あなたの家に泊まりたい」と言われる。

O牧師は「それが神の愛です。ザアカイが敵意を向けられているその所で、主はザアカイの家に入り、友人になると言われるのです。ザアカイを敵意の中で独りにはしておかれません。そのせいで、人々の称賛が、敵意に変わっても、それでも神は彼に高価な愛を差し出されるのです。」と話された。

無条件に与えられた高価な愛にザアカイは立ち上がり、財産の半分を貧しい人々に施し、誰かから何かを搾取していたなら、それを4倍にして返しますと答えた。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「冬の駅に見上げる路線図まだ固い花のつぼみを数えるように 岡部かずみ」


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マルコによる福音書 13節14~27節 [マルコによる福音書]

<「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」(26.27節)>

「神殿はユダヤ人にとって誇りです。だから神殿を守ろうとする思いもあります。しかし主イエスは『ユダヤにいる人々は山に逃げなさい』と言われました。『逃げて良い』と主イエスは言われます。『自分の命を守りなさい』と。何も持って行かなくても、神さまが必要なものをすべて満たして下さるのです。」と、横井牧師は書きだされる。

「彼は一週の間、多くの者と同盟を固め、半週でいけにえと献げ物を廃止する。憎むべきものの翼の上に荒廃をもたらすものが座す。そしてついに、定められた破滅が荒廃の上に注がれる。(ダニエル書9章)」 ダニエル書はBC500年頃の著書

神殿の聖所に、神の代りに偶像を立てて礼拝させる者が起こると言う預言である。BC168年 シリアの統治者アンティオコス四世が起こした行為である。主イエスは同様の憎むべき破壊者が神殿に現れたら、神殿の崩壊は近いと告げられる。この後のユダヤ戦争で、神殿は何度も流血事件を起こし惨劇による血で汚され、さらに戦いは内ゲバの様相を呈し、神殿の聖性は汚されていった。

「憎むべき破壊者が立ってはならないところに立つのを見たら」と主イエスが言われるのは、聖なる神殿を暴漢どもが占拠したのを見たならばという意味である。ユダヤ戦争の最中にエルサレムにいたキリスト教徒たちやエルサレム教会の人々は、戦争が始まってユダヤ社会が混沌としてくると、主イエスの命通り、エルサレムから逃亡して生き残る事が出来た。

S牧師は「主イエスがここでユダヤから逃げなさいと命じられたことは、ここで言われる終わりが世界の終わりではない事の証明になります。全世界が本当に終わるならどこに逃げても同じことだからです。エルサレムに残った人々を待ち受ける苦難は『神が天地を造られた創造の初めから、今までになく、今後も決してないほどの苦難が来る』と主イエスは言われます。」と説かれた。

主イエスは誰一人救われないと断言されるが、しかし、神はご自分のものとして選ばれた人たちのために、その期間を縮めて下さると言う約束を与えられていると言われた。実際、ユダヤ戦争で悲惨な状況になる前に、エルサレム教会の人々に脱出の機会が与えられた。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「陳列の夫婦茶碗に女生徒ら『これって差別』声高に言う  久保田和子」


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マルコによる福音書 13節1~13節 [マルコによる福音書]

<「また、私の名のために、あなたがたは全ての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(13節)>

「弟子たちは主イエスに、神殿の崩壊と世の終わりがいつ来るのか尋ねました。主は偽メシアの出現、戦争や飢饉などさまざまな苦難が起こるが、それは『産みの苦しみの始まり』だと言われます。」と、横井牧師は書きだされる。

神殿の境内を出て行かれる時、弟子の一人が、「先生、ご覧ください」と壮大な神殿を指した。すると「イエスは言われた。『これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残る事は無い』(2節)」

イスラエルの礼拝、祭儀の場として初めてエルサレムに神殿を建造したのはソロモン王で、この時の神殿はバビロンによって破壊された。その後、バビロンから帰還した人々が再建した神殿に、BC20年ごろヘロデ大王によって大規模な修理拡張工事が行われた。この時、主イエスが見られた神殿は、周囲に回廊を巡らした広い境内と、白い大理石の美しい本殿を持つ、立派な建造物であった。

主イエスと弟子たちはその後オリーブ山に登られた。神殿の方を向いて座られる主イエスに4人の弟子がきて密かに尋ねた。神殿の崩壊「そのことはいつ起こるのですか、また、その事が実現する時には、どんな徴があるのですか(4節)」と。主イエスは彼らの問いにたいして、神殿崩壊に先立つ様々な前兆について語られる。

「人に惑わされないように気をつけなさい。私の名を名乗る者が大勢現れ『私がそれだ』と言って多くの人を惑わすだろう。戦争の噂を聞いても、慌ててはいけない。そういう事は起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。あなた方は自分のことに気をつけなさい。」と、主イエスは弟子たちに語られた。

歴史を見ると、神殿崩壊以前、ネロ皇帝のキリスト教迫害があり、彼の治世に不満を持つ者が反乱を起こす中、ネロに変わって皇帝を名乗る者が次々と現れた。そのローマの混乱にユダヤ人が反乱を起こしたが、ユダヤは徹底的に破れ、エルサレムと神殿がローマによって破壊された。

「引き渡され、連行される。しかし、取り越し苦労をする事は無い。教えられる事を話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。(11節)」と主イエスは弟子たちに話された。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「福豆のふたつかみほどを庭に撒く幼き子どものもうおらぬ家 ぱいんぐりん」


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