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マルコによる福音書 12章35~40節  [マルコによる福音書]

<「・・・このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた。(37節)>

「自分が見たいものしか見ない、聞きたいものしか聞かない。私たちは主イエスの教えをどこまで受け入れているでしょうか。ファリサイ派の人々は主イエスの言質をとるためか執拗なまでに主イエスのお傍にいました。」と、K牧師は話し出された。

この時代の宗教学者たちは一様に神の国の実現を待望していた。それはダビデ王国の再興であり、目には見えないが神の支配や復活の命に与るというものであった。しかしその時、主を愛する者には「祝福」が与えられ、罪人には「呪い」が与えられると。彼らはそれを都合よく、自分たちのように信仰が深い者は祝福を受け、不信仰な者たちはその報いを受けると教えていた。

彼らは無知な民衆を正しい信仰に導き、神の国を再興するという熱い熱情を持っていた。また、民衆もギリシャやローマの風習に染まらないユダヤ人の慣習の模範を示す律法学者を必要としていた。

今日の個所は十字架に架けられる三日前である。主イエスは「どうして神学者たちは『メシア(救い主)はダビデの子だ』と、いうのか。」と目の前にいる人々に問いかけられる。それは彼らが自分たちを異邦人の支配から解放してくれるのは「ダビデの子」としての「メシア(救い主、ギリシャ語ではキリスト)」であると待ち望んでいたからである。

その人々に、詩篇110篇を引用され「このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」と主イエスは言われる。神が主イエスを十字架に架け、これから成し遂げられる「救い」は、誰もの思いを遥かに超えるものである。

主イエスは続いて「律法学者に気を付けなさい」と言われる。彼らは律法の解釈に日夜励む自分たちが尊敬を受けることは「聖書の教えの権威を守ること」と不可分であると信じていた。しかし彼らが誇る名誉や栄誉は地上的な財宝でしかないのであった。それなのに、それを守るため、聖書を自分に都合よく理解し、長い衣や、上席にこだわり、貧しいものを顧みず、長い祈りをした。

聖書を熟読し、研究し尽くしている彼らこそ「人一倍厳しい裁きを受ける事になる(40節)」と、主は言われる。

さっきNHKの「百分で名著」で、福音書が取り上げられていた。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「エロイ・エロイ・サバクタニ地の上に流れし血潮を蟻が避けゆく 安藤純代」


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