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ヨハネの黙示録  11章1~13節 [ヨハネの黙示録]

<彼らの死体は、たとえてソドムとかエジプトとか呼ばれる大きな都の大通りに取り残される。この二人の証人の主も、その都で十字架につけられたのである。(8節)>

「『四十二か月の間』、つまり3年半にわたり、エルサレムの都が異邦人によって踏みにじられるのをヨハネは見ました。そのただ中にイエス様を証し続ける2人もついにイエス様と同じように殺されてしまいます。でも、イエス様が蘇られたように、彼らもまた命の息を吹き込まれて立ち上がるのです。」と、清藤牧師は書きだされる。

1世紀末ローマ帝国領の全ての者は、神であることを公言していたローマ皇帝に祈りや犠牲を献げるように命じられた。それを拒否した者はローマ帝国に対する反逆者とみなされ死に追いやられる事もあった。キリスト者たちは教会が滅ぼされる、神が世界を統治するという希望に対して何が起こるのだろうかという不安の中にあった。黙示録の著者ヨハネは、その人々に答える神の言葉を受け取った。

ヨハネは「神殿と祭壇とを測り、またそこで礼拝している者たちを数えよ(1節)」と命じられる。ダニエル書9章によると、彼が捕囚の地バビロンで祈りを献げていた時、「あなたの民とあなたの聖なる都については70週が定められている」という御告げを受けた。1週が7年なので490年。主イエスはエルサレム神殿再建から後に来られ、十字架刑を受けられた。その70年後、神殿は崩壊された。

エルサレムの町は破壊されて、主を信じる人々は世界中に離散し、異邦人によって踏み荒らされる町となった。主イエスは「人々は剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる。異邦人の時代が完了するまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされる。(ルカ書21章)」と預言されている。

ダニエル書7~9章の預言通り艱難は続いた。「誰にも、どのようにも、騙されないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、・・・彼は全て神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座をもうけ、自分こそ神であると宣言します。(テサロニケⅡ3章)」と、パウロは預言した。

ゼカリヤ書の2本のオリーブの木、2つの燭台が証人として登場する。捕囚を解かれた人々が神殿再建を行うが、異邦人の阻害にあい難航していた。しかし、預言者ハガイとゼカリヤはイエス・キリストが再臨された後のエルサレムの事を預言して人々を鼓舞した。

正直言って、頭にイメージする事も出来ず、注解書も理解できない。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「白い部屋白いテーブルの向こうからカウンセラーはのっぺり笑う 両角美貴子」


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ヨハネの黙示録  6章1~17節 [ヨハネの黙示録]

<小羊が第五の封印を開いた時、神の言葉と自分たちの証のために殺された人々の魂を、私は祭壇の下に見た。(9節)>

「ヨハネは子羊なるイエス様によって巻物の封印が開かれるのを見ました。封印が一つまた一つと開かれるごとに、平和を奪う殺し合いや飢饉が広がり、また疫病が蔓延したり、地震が起こったりしたのです。その時にはどんな高い地位にある者も逃れる事はできず、耐えうる者はありませんでした。」と、清藤牧師は書きだされる。

小羊、すなわち主イエスが七つの封印を一つずつ解いて行かれる。最初の封印を解かれた時、四つの生き物のうちの一つが、雷のような声を出して「出て来い」と叫んだ。出て来たのは「白い馬」。騎乗する者は弓を持ち、冠が与えられ、勝利を得ようと出て行った。

第二の封印は「赤い馬」。騎乗する者には、地上から平和を奪い取って、殺し合いをさせる力が与えられた。そして大きな剣も与えられた。第三は「黒い馬」。騎乗する者は、手に秤をもっていた。第四は「青白い馬」。騎乗する者の名は「死」、これに「陰府」が従っていた。彼らには地上の1/4を支配し、剣と飢饉と死をもって、更に地上の野獣で人を滅ぼす権威が与えられた。

ファンタジーとして楽しく読み進みなさいと勧められたものの、孫のゲームに登場するような場面である。最初の「白い馬」は、再臨されたイエス・キリストだろうか。それにしても弓を持たれる事は無い。主は御言葉という鋭い剣で対峙される。また、権威の象徴である冠を主イエスは冠られない。さらに「勝利を得ようと」はされない。主イエスはすでに勝利して、神の右の座についておられる。

主の再臨によって平和が地上を支配するが、4節以降をみると地上は戦争と死である。S牧師は「つまり、この人物は偽キリストです。主に似たような特徴を持ちながら、実は反対の事を行う人物、テサロニケⅡ2章に記される『不法の人』です。彼は全て神と呼ばれる者、また礼拝される者に反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮に座をもうけ、自分こそ神であると宣言します。」と、話された。

第二の「火のように赤い馬」とは、戦火、または血の色なのか。反キリストが強大な軍事力を持つことが表される。次の「黒い馬」、小麦の値が記されるが、これは不況、飢饉、飢餓をあらわす。しかし、オリーブ油とぶどう酒は値が上がる事は無く、裕福な人々への影響はなかった。

傲慢な為政者、戦争、不況、飢餓に続いては「青ざめた馬」、1/4が「死」を迎えると。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「曇天に始業のチャイム 病床に聞けば澄むなりどんな音でも 染川ゆり」


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ヨハネの黙示録  5章1~14節 [ヨハネの黙示録]

<すると、長老の一人が私に言った。「泣くな、見よ。ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、その巻物を開く事が出来る。(5節)>

「ヨハネは神さまの手に封印で閉じられた巻物があるのを見ました。でもこの巻物を開くにも、見るにも、相応しいものは見つかりませんでした。巻物に記された神さまの御心が分からない。その巻物を開く事が出来るのは、ダビデのひこばえなるイエス様でした。」と、清藤牧師は書きだされる。

囚人として獄中にあったヨハネは、礼拝を一人で献げていたある日曜日「ここに上って来い」という主イエスの言葉を聞いた。5章に入ってもこの礼拝は続けられていた。そこでヨハネは「玉座に座っておられる方の右の手に巻物があるのを見た。表にも裏にも字が書いてあり、七つの封印で閉じられていた(1節)」。そして天使が、この巻物の封印を解く者が誰かと大声で叫んでいた。

ヨハネはローマ帝国の激しい迫害の中でも信徒たちに「神を信頼し、信仰を守り抜くように」と絶えずみ言葉を語って来たリーダーの一人であった。しかし、迫害は治まることなく彼は囚人となり、信徒たちの中には殉教した者もでた。これから教会は、兄弟姉妹はどうなるのか、彼らに問われてもヨハネ自身も分からなくなっていた。彼は巻物の中身を知りたいと痛感したが、誰も開く事は出来なかった。

この巻物を開くにも、見るにも、相応しい者は見つからずヨハネは激しく泣いた。「すると、長老の一人が私に言った。『泣くな、見よ。ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、その巻物を開く事が出来る。』」と。

「ユダ族から出た獅子」とは、創世記49章で、ヤコブの息子の一人であるユダの家系から勝利をもたらす王が輩出すると預言されている。「ダビデのひこばえ」とは、ダビデの家系は一度絶えてしまったように見えるが、その家系から新たにある人物が現れるという。旧約が預言したユダ族に属するダビデの家系に「約束の救い主(メシア)」が現れて、この封印を開く事が出来ると長老の一人が告げた。

「私はまた、玉座と四つの生き物の間、長老たちの間に、屠られたような小羊が立っているのを見た。(6節)」 ヨハネが見たそれは、神殿にいけにえとして献げられ死んでしまった小羊ではなく、一度は確かに死なれたが、そこから復活された主イエス・キリストを指し示していた。

「七つの角(力)」「七つの目(全地に遣わされる神の霊)」、聖書で「七」は完全数とされる。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「わけありの林檎も剥いてみせましょうひとしく春の裸身となりぬ 春野あおい」


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ヨハネの黙示録  4章1~11節 [ヨハネの黙示録]

<「主よ、私たちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れとを受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、御心によって万物は存在し、また創造されたからです。(11節)>

「『ここへ上って来い。この後必ず起こる事をあなたに示そう。』ヨハネはそういって天上の礼拝を見ています。24人の長老たちが『玉座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝し』、被っていた金の冠を玉座の前に投げ出しました。」と、清藤牧師は書きだされる。

O牧師は「黙示録は文学的類型から言えば『ファンタジー』であると思います。ファンタジーはギリシャ語で『見えるようになる』という意味を持ちます。象徴的な事物を多用して、終末のヴィジョンを語るという幻想的な様式を持っています。黙示録の記された背景には、キリスト者への迫害、虐殺という苦難がありました。人々は、その現実に埋没し、逃れ口や抜け道、対処の方法を見失っていました。そこで、信号のようなものが必要なのです。混雑した交通状態が、色の点滅によってその流れが制御されていくのです。」と話された。

奇妙で読み進めるのが出来なくなる、こんなことが本当に起こるのだろうかと思ってしまう。O牧師は「こういう風変わりな文学表現を読み、自分の心に描いてみて、面白いと楽しむのです。現実を見る目と、それとは違うもう一つの世界を見る目を持ち、楽しめるなら、困難にただ飲み込まれずに済むのです。黙示録の作者はそれを目論んでいるのです。」と、楽しそうに話された。

「四つの生き物」が登場する。エゼキエル書1章。それは彼が見た神の幻である。エゼキエルは、バビロン捕囚期の預言者で、捕囚となりバビロンに連行された人々に語り、彼らを慰め、精神的に支えた人であった。彼は祖国の崩壊、滅亡を目にし、捕囚を体験し、突然に妻を失うというなか、預言者として神に仕えた。耐えがたい苦難の中の彼を支え続けたのは、神からのイマジネーションであった。

エゼキエル書では、一つとされた四つの生き物を、ヨハネは分解して一つの独立した存在として描き出す。第一の生き物は「獅子」、第二は「雄牛」、第三は「人間」、第四は「鷲」の4つの生き物が、キリストの玉座を取り囲んで、賛美すると記される。

「四つ」というのは四福音書。福音書こそ真のイスラエルの源であるイエス・キリストを証言し賛美するものである。無数の眼を持ち、四福音書に語られる主イエスをしっかり見るように、厳しい現実に捉われていないで、この世に生き、現実に向き合われた主を見るようにと黙示録は励ます。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「特大の広島カキは輝けり選りすぐられて上京したり 栗栖優子」


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ヨハネの黙示録  3章14~22節 [ヨハネの黙示録]

<見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。誰かわたしの声を聞いて戸を開けるならば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまたわたしと共に食事をするであろう。(20節)>

「ラオディキアの教会は、熱くもなく冷たくもなく、なまぬるい信仰だと言われます。富や名誉などこの世的な幸せや満足で、自分の本当の惨めな姿も神様の憐れみも解らなくなっていると言われてしまいました。でもそれはダメなものと烙印を押されたのではありません。イエス様は彼らの戸口に立って、戸をたたき続けておられます。」と、清藤牧師は書きだされる。

ラオディキアの町は金融業、絨毯、羊毛などの産業が盛んであった。また、ローマ帝国で使われる目薬を作っていた。AD60年大地震に遭遇したが、住民はローマからの援助なしで再建した。「アーメンである方」というのは、主イエスそのもの、その通りであると同意できる存在である方だと言う事である。

その方が次のように言われる。「私はあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、生ぬるいので、私はあなたを口から吐き出そうとしている。(15.16節)」

ラオディキアの町は非常に繁栄した町であり、配水管が通っていた。しかし、源泉から10k近く離れていたので、水は生ぬるくなって、不味いとされていた。この水のように町も同様の状態だと指摘される。ラオディキアの教会への文書には褒められる言葉がない、その理由は、伝道の接点であるみ言葉に対して教会から何の反応も帰って来ない「生ぬるさ」にあった。

K牧師は「主によって罪が示される時、自らを責めますが、それを主にあって悲しめばいいのです。罪の自覚が大事なのです。ところが、心がするりとみ言葉を受け流し、何の反応もせず罪を自覚していない時がないでしょうか。ラオディキアの教会はそのような状態だったのでしょう」と話された。

ラオディキアの教会を「自分が富んでいる。乏しいものはない。自分が惨めで、憐れで、貧しくて、盲目で裸である事を知らない。」と主は指摘される。自分の生活の豊かさを主にあって感謝し大事にすることは大切だが、ここでは神がいなくとも、キリストがいなくとも、別に支障はないとする心が指摘される。富んでいる者だとする私を、主は「惨めで憐れな者」だと評価を下される。

人と比べて「自分はそんなに悪くない」と思っているが、「私たちが比較すべき対象は神さまです。そこに映し出される自分の姿が本当の私の姿なのです。」とK牧師は話された。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「連弾でぼくらの肘があたるとき譜面にはない音楽になる 姉川司」


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