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コリントの信徒への手紙Ⅱ ブログトップ
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コリントの信徒への手紙Ⅱ  12章1~21節 [コリントの信徒への手紙Ⅱ]

<それゆえ、わたしは弱さ、侮蔑、窮乏、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。(10節)>

「私たちは説教や祈祷において、『すぐに罪を犯してしまう』『すぐ躓いてしまう弱い者』と、弱さを強調して語られたり祈られたりするのを耳にした事があるのではないでしょうか。」と、中道牧師は書きだされる。

パウロはコリントの信徒たちに自分が通った困難を列挙し、いかに自分が弱かったのかを誇った。そして12章に入り、この弱さについて述べてゆく。けれども、その前に自分が受けた幻と啓示について話す。「キリストに結ばれていた人」と記されるのはパウロ自身である。そして「14年前」とは、ルステラでユダヤ人たちが群衆を抱き込んで、パウロを石打ちにして、町の外に引きずり出したときの事だろうか。

この後、パウロは立ち上がって「また、ルステラに戻って、福音を語ろう」と言った。この、死んだようになっていた時「第三の天まで引き上げられた」のだろうか。聖書によると、第一の天は私たちが見上げる事のできる天であり、第二の天は私たちが天体と呼ぶ天、そして第三の天がパラダイス、主の御座があるところだとある。パウロはそこに引き上げられたというのだろうか。

「このような人のことを私は誇りましょう。しかし、私自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません(5節)」 パウロはコリントの人々に「私の事を見たり、私から話を聞いたりする以上に、私を過大評価する人がいるかもしれないし、また、あの啓示された事があまりにも素晴らしいからです。(7節)」それで、そのために思い上がる事がないように、私に一つの棘が与えられていると言った。

この棘に苦しめられパウロは三度も主に願ったが聞き入れられる事は無く、主は「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ、十分に発揮されるのだ」とこたえられた。だからパウロは、「キリストの力が、私の内に宿るように、むしろ喜んで自分の弱さを誇りましょう(9節)」と記す。

O牧師は「これは、クリスチャンが試金石とすべき真理です。私たちの力は弱さの中に現れるのです。私たちは神によって、下へ下へと押し込まれる人生を歩むようにされています。聖書の中の『忍耐』には、荷物を負い、腰を曲げてじっとしているという意味があります。私たちの夢、野心、期待がそがれ、低くされた時、『私の恵みはあなたに十分である』の御言葉を聞くのです。」と説かれた。

そして弱さの中ではじめて見える神の恵みに促され、苦しむ人々の隣人になりましょうと話された。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「今さえがもう思い出の中のよう雪が静かに降っているなり 岩屋美和子」


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コリントの信徒への手紙Ⅱ  11章16~33節 [コリントの信徒への手紙Ⅱ]

<多くの者が肉に従って誇っているので、わたしも誇る事にしよう。(18節)>

「偽使徒たちは自分たちの優位性を示すために、自分の信仰を誇っていました。けれども、パウロは誇る者を『愚か者』と呼びました。なぜなら、彼らが主によらない信仰・信念を持ち、主ではなく、自身を誇り、主や人のために歩んでいなかったからです。」と、中道牧師は書きだされる。

「もう一度言います。誰も私を愚か者と思わないでほしい。(16節)」と書き出され、パウロは新しい宣教者たちに影響され、彼の事を疑い始めたコリント教会の一部の信徒たちに警告する。それは、パウロが絶えず苦難に遭っているのは、危険を回避する知恵に欠けているというものであった。

しかし、パウロは自らが受けた苦難に積極的な意味を見出していた。それは主イエスの生き方に倣う事「キリストの死をこの身に帯び」であり、誇るべき事であった。パウロは続けて「私を愚か者と思うなら、私を愚か者とみなすがよい」という。パウロがここで言う「愚か者」とは、宣教師たちの事を指す。彼らが愚かにも、自分の出自、実績を誇るなら、自分も愚か者になろうと言った。

パウロは、これから話す事は、主によって話すのではなく、愚か者の自慢話だと前置きする。「多くの者が肉に従って誇る」とあるのは、彼ら宣教師の事で、「肉によって」は、悪い意味合いがあり「世の中の基準に従って」とか「この世的な」という意味になる。19節から21節までパウロは痛烈な皮肉でコリントの信徒たちを叱責する。

22節で、パウロは自分は、ヘブル人でありイスラエル人だというが、ヘブル人とは、ヘブライ語が話せる人、イスラエル人とは神の契約の民であることを彼は強調したのである。とK牧師は話されたけれど、じゃあユダヤ人はどうなの。現代のイスラエル国民はどうなの。と聞きたかったけれど、複雑そうで止めた。

「キリストに仕える者なのか、気が変になったように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。(23節)」 そして、その証として労苦は彼らより多くと続ける。宣教実績を上げるのではなく、パウロは自分の苦難を綴り、その事を誇る。それは、主イエスの生き方に倣う事であり、主イエスのように生きている事の証であり、大いに誇ることであった。しかし、酷い目に遭っていたんだと改めて思う。

主イエスがユダヤ当局とローマ帝国によって犯罪者として処刑された事から、パウロがその人物を王として宣教するのはユダヤ人にとっては冒涜であり、ローマにとっては社会の安定を乱す騒乱罪だとみなされていた。パウロが異邦人伝道をしていた事もユダヤやローマにとっては看過できなかった。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「行間を埋め行くように降り止まぬ雨音聞こゆ味噌を溶きつつ 石橋泰奈」


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コリントの信徒への手紙Ⅱ  11章1~15節 [コリントの信徒への手紙Ⅱ]

<だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装う事など、たいしたことではありません。彼らは、自分たちの業に応じた最後を遂げるでしょう。 (15節)>

「『悪』と聞くと私たちは不安を感じる事があります。そこには強い力があるからです。悪の力によって多くの人が困難に見舞われ、苦しみを味わう事があります。そして、その力の前でなすすべがないとまで思わせるものです。けれども、そんな悪ですら、神の義を装わなければ人を欺く事が出来ないのです。」と、中道牧師は書きだされる。

パウロは、自分のことを花嫁の父になぞらえる。花嫁はコリント教会の信徒たち、花婿とはイエス・キリストの事。当時のユダヤ社会では、父親は嫁ぐ前の娘の純潔を守る義務があり、彼女を汚れた者より守らなければならなかった。ここでパウロにとって汚れた者とは、コリントに教会に来た指導者の事である。「エバが蛇の悪だくみで・・・」と、彼らをアダムとエバをだました蛇にたとえる。

それは彼らが別のイエス、異なる福音を宣べ伝えても、「あなた方が、我慢して受け入れているからだ」と強く訴えた。彼らがキリスト教カルトのように、異端的な教えを述べていたら、パウロもその事を具体的に指摘するだろうし、またコリントの人々も彼らの話に耳を傾ける事は無かったろうと思うが。

S牧師は「彼らは教理的に曲がったことを教えたわけではなく、むしろパウロが問題にしたのは彼らの行動が主イエスの歩みを反映していなかったことにあります。彼らは主イエスのように柔和で謙虚で真っ直ぐな歩みをしていませんでした。自分の優秀さを喧伝するものではないと指摘します。彼らの教える内容ではなく、彼らの生き方そのものをパウロは見ているのです。」と話された。

「あの大使徒たちと比べて、私は少しも引けは取らないと思う(5節)」 12使徒の代表格はペトロ。パウロ自身は生前の主イエスに会った事がないが、しかし、パウロは「自分は復活のキリストから直々に宣教のために召されたのだから間違いなく使徒なのだ」と主張していた。指導者たちもそれならと自分を使徒だとしていたのだろう、パウロはそれを皮肉って彼らを「あの大使徒たち」と呼んだ。

7節以降は、パウロが無報酬で福音宣教をしている事が問題とされた事について記される。主イエスは福音を宣べ伝える者はその宣教の働きから生活の糧を得るべきだと命じられておられた。けれども、パウロはその権利を「主の働き人として用いない。経済的負担をかけない。それが誇りであり、誰もそれを奪うことは出来ない」と語った。どうして、それほど固辞したのだろうかわからない。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「生牡蠣に檸檬をしぼるときの眼でねじり切る記憶というものを 大森静佳」


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コリントの信徒への手紙Ⅱ  8章16節~9章5節 [コリントの信徒への手紙Ⅱ]

<だから、あなた方の愛の証と、あなた方の事で私たちが抱いている誇りの証しとを、諸教会の前で彼らに見せて下さい。(8章24節)>

「私たちが神から頂いている恵みや祝福の数々は、心の奥底に秘めておいて一人で楽しむものではありません。『自分たちの熱意を現わす』とは、内から自然とあふれ出て来るものです。」と、中道牧師は書きだされる。

パウロが8.9章で繰り返し使う言葉が「恵み」で、与えるところに神の豊かな恵みが溢れるとコリントの人々に話す。でも、ささげる者がその献金を教会の運営費のように見なし、教会の会員費のようにみなしたら、それは神の御心にはそぐわない。「私は神の恵みによって信仰を通して救われました。」その恵みの豊かさが、献げること、与えるところに溢れるのだと説いていく。

この時、パウロが滞在していたマケドニアの諸教会では、コリントの教会の献金に対する熱心さをパウロから知らされた人々は、それに感動し献金に励んだ。パウロがテトスたちをコリントに派遣したのは、「あなた方の事で私たちが抱いていた誇りが、無意味なものにならないためです。」と言った。もし、マケドニアの人々と一緒にコリントを訪問し、献金の準備が出来ていなければ、恥をかいてしまうと。

今日は駅前でこの度の能登地震のためにと募金箱を持つ婦人たちがいた。米国の映画などでは、ホームレスらしき人にポケットのコインを彼の帽子に投げ入れたりする場面がある。スマートだなぁと感心するが、おいそれと真似できない。この団体は何と繋がっているのかとか、便乗しているのではないかと疑ってしまう。

「そこで、この兄弟たちに頼んで一足先にそちらに行って、以前あなた方が約束した通り贈り物の用意をしてもらう事が必要だと思いました。渋りながらではなく、惜しまず差し出したものとして用意してもらうためです。(5節)」

「『贈り物』神は祝福の神であります。神の一方的な行為、恵みに与って献げるのです。それに、対照的なのが『惜しみながらする』、直訳すると『貪欲。このお金は私のものなのに、どうして与えないといけないの』と思ったり、その報いを求めたりすることです。」と、O牧師は話された。

自分は神の子、だから手にした報酬も、財産も全て神のもの。それは分かるが難しい。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「白菜をざくざく笊に盛り上げて満足そうな妻の横顔 千名民時」


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コリントの信徒への手紙Ⅱ  8章1~15節 [コリントの信徒への手紙Ⅱ]

<あなた方は、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなた方のために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなた方が豊かになるためだったのです。(9節)>

「マケドニアの教会における極度の貧しさは経済的な問題を意味しているのではなく、人的迫害による困窮を意味しています。」と、中道牧師は書きだされる。

コリントⅡ書は1章から6章までは、パウロ自身に与えられた使徒職の崇高さと偉大さをパウロは体験を通して語った。そして、7章ではコリントの教会の悔い改めを「私は、全ての点であなた方を信頼できることを喜んでいます。」と記す。彼らとの信頼関係を確認したパウロは、エルサレム教会で困窮する信徒に対する募金を呼び掛け、それに先立ちマケドニア諸教会の実情を伝える。

「兄弟たち、マケドニア州の諸教会(フィリピ、テサロニケ、ベレア)に与えられた神の恵みについて知らせましょう、彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさが溢れでて、人に惜しまず施す豊かさとなったという事です」と、8章は始まる。

迫害もないのに、今も教会の財政は厳しい。彼らの豊かな献金の力がどこから生まれるのだろうか。それは彼らが「神の御心に沿って私たちにも自分自身を献げたので」信仰から来ているのだとパウロは語る。彼らが自分自身を主に献げる信仰から、豊かな献金を献げる力が与えられるのであると。神に対する信仰者の個人的な献身からなされた事をパウロは語る。

パウロはマケドニアの信徒自身が成し遂げた事よりも、彼らのために神が成して下さったのだと強調する。そして、霊的な富を豊かに持っているコリントの人々も、その愛の純真さを実際に表してほしいと募金を求めた。そして、主イエスはあらゆる点で豊かであられたが、人となられた時は全てを失ってしまわれた。と、驚くべき犠牲を払って下さった主イエスについて語った。

主の貧しさによって、与えられた豊かさとは、罪からの解放、サタンに勝利する力、永遠の命、神との新しい関係を結んだ豊かさも与えられた。さらに、主を信じる者に与えられている命、健康、家族、自然も社会も全てのものが神の恵みである。献金は「進んで行う気持ちがあれば、持たないものではなくて、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。(12節)」その事を信じて献げる。

程度に応じて、進んで献金する。真の献げ物は、決して規則に従って献げられるものではない。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「ホワホワと気泡ふくらむやさしさに白梅咲けり馴染みの路地の 豊島ゆき子」


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