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コリントの信徒への手紙Ⅱ  2章5~17節 [コリントの信徒への手紙Ⅱ]

<救いの道を辿る者にとっても、滅びの道を辿る者にとっても、私たちはキリストによって神に献げられる良い香りです。(15節)>

「詳細は語られませんが、教会を混乱に陥らせた人物の存在とその人物に対する教会の具体的な対応があった事がうかがえます。」と、阿部牧師は書きだされる。

教会を混乱に貶めた者は厳正に処罰しなければならない。それなしには悔い改めは生じないからである。しかし、悔い改めれば許さなければならない。罪を憎むのであって、人を憎むものではないのだから。「むしろ、あなたがたはその人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して力づけるべきです。そこで、ぜひともその人を愛するようにして下さい。(7.8節)」とパウロは述べる

パウロは彼に反感をもつ人々から距離を置く事にした。そして、彼らを赦して慰めるようにというパウロの教えに信徒たちが「万事について従順であるかどうかを試すために」以前手紙を記し、その和解の使者として手紙をテトスに託し、コリント教会に派遣した。

パウロは福音宣教のためトロアス(マケドニアの主要な港町)に行った時、コリントに派遣したテトスに会えず、コリント教会の様子を聞く事が出来なかった。その不安を抱いたままマケドニア州に出発した。

「マケドニアに着いた時、私たちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです。しかし、気落ちした者を力づけて下さる神は、テトスの到着によって私たちを慰めて下さいます。(7章5.6節)」 テトスからコリント教会が「パウロに申し訳なかった」と語っている事を告げられ、パウロは喜びに満たされた。

パウロはコリント教会との和解が与えられたと、キリストの勝利の行進を賛歌する。ローマの凱旋行軍では、最初に戦争捕虜、次に香炉を振りまく祭司が続き、最後に将軍と兵士が続く。香炉から漂う香りは勝者に対しては命の香りであったが、処刑が待っている捕虜にとっては死の香りであった。

「滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。…私たちは多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。(16.17節)」

「主イエスに生きる時、自ずとキリストの香りを放つのです。」と阿部牧師は結ばれる。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「ひとつ部屋に呆けたる妻と暮らす日々哀しいような楽しいような 前田典昭」



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コリントの信徒への手紙Ⅱ  1章15節~2章4節 [コリントの信徒への手紙Ⅱ]

<わたしたちはあなたがたの信仰を支配するつもりはなく、むしろ、あなた方の喜びのために協力するものです。あなた方は信仰に基づいてしっかり立っているからです。(24節)>

「使徒パウロは、自身が建てた教会に複数年滞在することはまれで、複数の教会を巡回しながら福音宣教に励みました。それゆえに、課題はパウロが去った後の教会形成にありました。実際にコリント教会はパウロが去った後にいくつもの深刻な問題が生じました。」と、阿部牧師は書きだされる。

コリント書Ⅰ16章でパウロは、コリント教会への再訪問を計画していたが、それが適わなくなった。それはコリント教会内に彼に対する反感が募り、彼の来訪を喜ばなくなった事。それと、パウロがエフェソで投獄されるという出来事が起こったためであった。その時の複数の手紙がコリントⅡとして編集された。

パウロは50年頃、ガラテヤ教会を立て、その後マケドニアで伝道、さらにコリントに教会を立てた。その後、エフェソで開拓伝道を始める。コリントⅠを記したのはその頃で、そこに、エルサレム教会への献金を募るため、近々コリント教会を訪問したいと記している。その事によってパウロへの誤解が生まれた。それを受けて書かれたのが今日読む「和解の手紙」である。

「私はあなたがたがもう一度恵みを受けるようにと、まずあなたがたのところへ行く計画をたてました。」と記し、そしてコリントを経由してマケドニアに赴き、それからコリントに戻り、エルサレムへ送り出してもらおうと計画していた。しかしこれは軽率な計画だったのか、私が計画するのは人間的な考えによる事なのか、と記し「私にとって『然り、然り』が同時に『否、否』となるのでしょうか」と問いかけた。

「はい」が同時に「いいえ」となる。パウロの言葉は矛盾だらけ、信用ならないとパウロに反感を持つ人々は中傷し、他の人々に同意を求めていた。パウロはこれを放置したままコリントの人々に会うことは出来なかった。それは、パウロが宣べ伝えたイエス・キリストの福音に及ぶものであったからだ。

「私たちが、あなた方の間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、『然り』と同時に『否』となったようなお方ではありません。この方においては『然り』だけが実現したのです。神の、約束は、ことごとくこの方において『然り』となったからです。・・・私たちとあなた方とをキリストに固く結びつけ、私たちに油を注いで下さったのは、神です。(15~21節」と記した。

O牧師は「それで、私たちは御言葉にヘブライ語ではその通りですとなります『アーメン』を唱えるのです。私たちがそう神様に応える事が出来るのは『聖霊』が与えられているからです。」と話された。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「自慢話ばかりの人と別れ来てセロリときゅうりをピクルスにする 縣敦子」


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ローマの信徒への手紙  5章12~21節 [ローマの信徒への手紙]

<こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、私たちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。(21節)>

「大地震によって被災された、多くの人の状況が知らされます。そのような中、私たちはパウロによって『信仰によって義とされた私たちは、神との平和を保つことができる』と、このローマ書から、励ましを頂いています。そればかりではなく、艱難さえも喜ぶ事が出来るというのです。どういう事でしょうか。」と、K牧師は話し始められた。

「アダムとキリスト」と題された今日の個所は「このようなわけで」と始まる。全ての人は罪を持っており、その罪のために神の怒りを受け滅びるしかない者であったが、神は独り子を通して救われる道を用意して下さった。その神の恵みがどれほど大きいものなのかをパウロは語る。

「食べてはならない」と命じられていた実を食べたアダムによって、罪が世界に入り、罪によって死が入り、死が全人類に広がった。アダムは全人類の代表であり、彼が罪を犯したという事は、「全人類が罪を犯したことになる」。これが「原罪」である。15~19節には5回、「一人の罪によって・・・」という表現が記される。アダムの罪が、私たち一人一人の罪に繋がっていたのだとパウロは記す。

「しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。(15節)」 人類の全てに広がった罪に怯える人々を神はそのままになさらず憐まれた。アダムにあって全人類が罪に陥ったのと同じように、父なる神を主と仰ぐ人々が、救いに至るように独り子イエス・キリストを世に送られた。

「この賜物は、罪を犯した一人(アダム)によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みと賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。(15節)」

光が差し込んでくれば、闇が追放されるように、どんな死に支配されようが、神の救いを信じ、その独り子イエス・キリストの十字架を見上げれば闇は消え去る。なぜなら、キリストは三日目に死人の中から蘇り、今も生きておられるのだと、パウロは救いの素晴らしさを説く。しかし、家族を突然失った被災者の人に自分はこの言葉で慰める力なく、共に涙を流すしかない。

アダムが犯した罪で、全人類が罪に定められたが、主イエスが十字架で成し遂げられた救いの御業は、アダムの犯した罪ばかりでなく、私たちが知らずに犯し続ける罪からも、救い出して下さる「恵みはなお一層満ち溢れる」とパウロは説く。過去の罪、今の罪、未来に犯す罪さえも帳消しにされると。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「十五夜の月のまわりのむらくものちょうどよきなりきみのあいづち 星亜衣子」


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ルカによる福音書 9章18~27節 [ルカによる福音書]

<イエスは言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」(20節)>

「イエス様の問いに、ペトロは『神からのメシアです』と答えます。『イエス・キリスト』は姓と名を表すものでなく、『イエスこそキリスト(メシア)』との信仰を表すものです。ペトロたちの信仰告白を受けてイエス様は死と復活を予告します。主の死と復活は、信仰なしに受け止められるものではないからです」と、阿部牧師は書き出される。

人々に神の国を語られ、奇跡の業を示され、主イエスは一人で祈りの時を持たれた。その後弟子たちに「群衆は私の事を何者だと言っているのか」と尋ねられた。彼らは、人々は、洗礼者ヨハネとかエリア、生き返った昔の預言者だと言っていますと答えた。イエスは言われた。「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」

S牧師は「神は過去の延長線上にはおられません。全く新しい出来事を起されます。神のもとから離れてしまう私たちを赦して、救い出して下さり、取り戻すという救いの出来事を起されるのです。神はその独り子を救い主として遣わされます。主イエスは十字架に架けられ、三日目に『復活』という信じられない出来事によって『救い』の業を起されるのです。」と、説かれた。

そして「主イエスはこの神の御心に従って、私たちと同じ地上の生涯を送られたのです。そして、この時主イエスは神からエルサレムに行くことを命じられているのです。エルサレムに行けば何が起こるか主イエスはご存知でした。けれど、ご自身がこれから辿られる道を通ってしか、神から遠く離れてしまった人々を救う道はないのです。その主イエスにペトロは『あなたはメシアです』とはっきり信仰告白し、主イエスを勇気づけたのです。」と、続けられた。

旧約聖書の中で、メシアについて「救い主は、僕の形をとって、人となってこの世に来る。人の罪を背負って、その罪の身代わりとなって死ぬ」と、預言されている。それで主イエスは「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活する事になっている。(22節)」と、弟子たちに話される。

考えられない事に唖然とする弟子たちに「私について来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。(23節)」と主イエスは言われる。私は従っているだろうか。自省する。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「独り居のデメリット思ひ知る日々を生きつつあああ独りはええわあ 王藤内雅子」


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ルカによる福音書 9章10~17節 [ルカによる福音書]

<すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡して群衆に配らせた。(16節)>

「イエス様は弟子たちに、『あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい』と群衆の食事を整えるよう命じられます。しかし、食料は五つのパンと二匹の魚だけです。」と、阿部牧師は書き出される。

12人の使徒は村々町々を巡り、主イエスと同じように人々に教え、病を癒した。その彼らの噂が広まり、ついにヘロデ王の耳に届いた。使徒たちの働きが支配者ヘロデに「イエスとは、一体誰なのか。」という思いを持たせる事になった。

12人の使徒の報告を受けられると、彼らを連れベトサイダという小さな町に退かれた。彼らに休息を与えるためだったのかもしれないが、大勢の群衆はなおも膨れ上がり主イエスの後を追った。主イエスはこの人々を迎え、彼らに神の国を語られ、病を癒された。しかし、「イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしている(ヨハネ書6章)」事を、群衆の真意をご存知だった。

K牧師は「私たちは、病気や大きな問題に直面すると、主イエスが大きな力になります。けれど、神を信じる者の信仰は、ただ神から何かを求める事ではなく、神の教えに従い、自分自身を神に献げていく事が大切です。主は忍耐をもって人々に神の真理を教え続けられます。」と、話された。

主イエスが神の国について教え、人々の病を癒されている間に夕方になった。人里離れた所だったので、弟子たちは人々の食事や宿について心配になって来た。そこで主イエスに、彼らを解散させ、宿を取り、食事ができるようにして下さいと言った。彼らは、神の偉大な力を幾度も目の当たりにして来たのに、主イエスの力を信じ通す事が出来なかった。

主は彼らに、あなた方が調達するようにと言われた。群衆は男性だけで5000人、弟子のもとには五つのパンと二匹の魚しかない 「彼らのために買いに行かない限り無理です」 と答えるしかなかった。すると、主は人々を50人ぐらいずつ組にして座らせるように命じられた。

「人々が座ると、主は五つのパンと二匹の魚を手に取られ、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。」 それは誰も理解出来ない事だが、全知全能の神、何もない所から全てのものを造り出される、創造主の神の業なのである。

今日の短歌 短歌誌 塔」より

「久々に姉と炬燵で長ばなし昔むかしを引っ張り出して 竹内多美子」


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