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エフェソの信徒への手紙  6章1~9節 [エフェソの信徒への手紙]

<奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。(5節)>

「奴隷と聞くと、鎖に繋がれ自由もなく、苛酷な労働を強いられている姿を思い浮かべるかもしれません。一方で、この時代の『奴隷』の語が意味するのは、贖われ、主人のものとされたという事です。」と、清藤牧師は書きだされる。

5章では、妻に「夫に仕えよ」と命じ、夫には「キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をお与えになったように、妻を愛しなさい」と命じていた。そこにあるのは、従属関係ではなく「与えられた関係の中で、互いに仕え合いなさい。」と命じられる。そして6章は「子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しい事です。」で始まる。

無条件の服従である。その関係性は主人と奴隷の関係にも適用される。この時代、敗戦となると、領土と共に人々も労働力として敵に取り上げられた。奴隷とされた人々の中には、主人より優秀な人々もいたが、全て主人の所有物であった。「ギリシャやローマは、執事や書記、経済まで奴隷に任せ、主人たちは広場で哲学議論に耽っていたのでついには国が衰退したのよ」という声もある。

「奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。(5.6.7節)」

パウロは「自由を求めよ」とは言わず、神が奴隷という身分を与えられたのであれば、与えられた身分のままに、何を主が望まれるのかを求めて生きなさい。それが諦めではない「積極的従属」なのだと話す。でも傍若無人な主人にも、やはり「主に仕えるように」なのかと思っていたら、K牧師は「主人が悪を命じた時には、『主に従う』という言葉を判断基準とするのです。」と、話された。

そしてパウロは「主人たち、同じように奴隷を扱いなさい。彼らを脅すのは止めなさい。あなた方も知っている通り、彼らにもあなた方にも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです。(9節)」と話す。

この世の道徳は、目下の者にのみ服従を迫るが、聖書はそうでなく、奴隷も主人も「神の支配下にある者」として共に服従の命令下にある。キリストにあっては主人も奴隷もないのである。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「夕闇が庭のすみまで降りてきてはよ飯作れとわたしを急かす 伊東文」


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エフェソの信徒への手紙  5章1~14節 [エフェソの信徒への手紙]

<キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい (21節)>

「神様への感謝に生きる事は一人ではできません。一緒に神様に祈り、願い、喜ぶ者を必要としていることをパウロは知っています。かつて自分だけが神様に従っていると思っていた時には、周りの者を見下す者であったし、孤独でした。でも、主イエスを信じた時、互いに愛し合い、赦し合い、仕え合う喜びを知らされたパウロです。」と、清藤牧師は書きだされる。

「パウロは結婚を信仰の問題として捉えている。」「この箇所は夫と妻の従属関係を規定するのではない」と、S牧師は話される。しかし「妻たちよ、主イエスに仕えるように、自分の夫に仕えなさい(2節)」などを読むと、どうしてもひっかかってしまう。

けれども、これは2千年前の、女性を人の数には入れなかった時代の言葉だと理解しなければならない。「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のためご自分をお与えになったように、妻を愛しなさい(25節)」という言葉などはその時代に合って斬新だったのかもしれない。女性は無条件に夫に仕え、夫の庇護のもとにあってこその存在だとされていたのだから。

しかし、パウロは夫に、妻に「教会が神に仕えるように、愛しなさい」と勧める。主イエス・キリストが教会の頭であり、教会はその体であるように、夫は教会の頭である。妻はその体であり、信仰の行為として夫に仕えなさいとパウロは勧める。そして夫には自分の存在の一部として、妻を愛するようにと。その昔「夫に従う」という教えはあったが、夫が隷属物である「妻を愛せ」という教えはなかった。

妻が仕事との両立に悩んだ結果、夫に二人の子供を託して離婚した。知人は父子家庭となって右往左往の状態が続いていたが、幸い、スーパーにはあらゆるものがあり、やっと軌道に乗って来たと言っていた。2千年前は男女の役割分担があり、自然に主従状態になったのだろうが。現代は夫でも子育てするし、妻も収入を得ている。その中でこの箇所を男子牧師が話すと割り切れない。

「『それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。』この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。(31.32.33節)」

S牧師は「離婚や不貞は、自分の信仰をも否定する行為だと思いますが、私たちはそれを知っていても、パートナーを裏切り離婚を選択してしまうのです。それでも、結婚とは信仰の決断であることを知らなければならないのです。」と話された。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「軽トラの荷台のへりに腰かけて植木屋は春のべんとうを食む 垣野俊一郎」

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エフェソの信徒への手紙  5章1~14節 [エフェソの信徒への手紙]

<だから、彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい。あなたがたは以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。(7.8節)>

「パウロは自分で神様の栄光を輝かせようと努力した人でした。主の教会を迫害するほどまでに熱心でした。でもイエス様と出会って知りました。私が神様の栄光を輝かせるのではない。イエス様が神様の栄光で私を照らして下さると。」と、清藤牧師は書きだされる。

この世でキリスト者として生きるには、キリスト者としての召命をいつも確認しなければならない。「あなた方は神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。(1節)」 神に倣うとは、罪人のために独り子イエスを献げて下さったようにという事である。自分を献げる、すなわち自分を捨てる。その時、他者に対する貪欲な言葉や、卑猥な言葉が出るはずはないのだとパウロは語る。

そして、「空しい言葉に惑わされてはなりません。これらの行いの、神の怒りは不従順な者たちに下るのです。(6節)」 また「光の子として歩みなさい。」と勧める。それは、右に行くのか左に行くのか迷った時、「キリストならどうされるか」を、生活の指針にすることである。

「全てのものは光にさらされて、明らかにされます。明らかにされる者は皆、光となるのです(13.14節)」とパウロは語り、イザヤ書を紹介する。この言葉は初代教会の讃美歌、あるいは洗礼式で用いられたとされている。

「栄光と救いの到来」とタイトルが゙つけられる。「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出て、主の栄光があなたの上に現われる。(1.2節)」 ウクライナやガザの戦禍、揺るぎ止まない地震、不実な為政者たち、明るい話題はどこにもない今、それでも光が現れるとパウロは説く。

今日の祈祷会、教会の桜が満開になりみんなウキウキしていたら、M牧師が詩を紹介された。 <ラインホルド・ニーバの祈り> 「神が置いて下さった所で咲きなさい。仕方ないとあきらめてではなく、咲くのです。咲くということは、自分が幸せに生き、他人も幸せにすることです。咲くということは、周囲の人々に、あなたの笑顔が、私は幸せなのだということを示して生きる事なのです。神がここに置いて下さった。それは素晴らしい事であり、ありがたい事だと、あなたのすべてが、語っている事なのです。置かれている所で精一杯咲くとそれがいつしか花を美しくするのです。神が置いて下さった所で咲きなさい」。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「同じ日に生まれた孫のおかげなり子らはついでに我を祝いぬ 村崎京」


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エフェソの信徒への手紙  4章17~32節 [エフェソの信徒への手紙]

<キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にある通りに学んだはずです。(21節)>

「パウロはこの世の模範になる立派な人になりなさいと勧めたわけではありません。放縦な生活をすること、ふしだらな行いにふけること、盗みを犯す事、悪口を言うのはやめようなど道徳を教えているのではありません。それよりもイエスに結ばれて、イエスの命の内にあるあなたであることを生きてほしいと願いました。」と、清藤牧師は書きだされる。

トルコには、今もローマ帝国のエフェソ遺跡がある。そこから、海は地殻変動により今はやや遠くなってしまっているが、昔は港町として繁栄した豊かな都市であった事がうかがえる。そのためか、エフェソの教会にはギリシャ・ローマ的な考え方を持つ異邦人が多くいた。彼らの中には自分を神とし、その利益のために教会を利用する者がいた。そのため、エフェソの教会は常に争いが絶えなかった。

主の死と復活によって、私たちの罪が赦され、新しい命が与えられ、もう以前のように放縦に生きる事はできない者とされている。神が私たちを救われたのは私たちを通して神の恵みを伝えるためであり、個人の幸福や救いを越えた出来事として神に召されているとパウロは強く説いてゆく。

K牧師は「キリスト者は罪を赦された罪人で、罪人である現実は変わらないのです。けれども、私たちがキリストを心の中に迎え入れ、キリストの愛に触れる事を通して、私たちは次第に聖化されていきます。キリストを知った者の生き方の基本は隣人と共にある生活です。『だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。私たちは互いに体の一部なのです(25節)』」と話された。

ヤコブ書で「誰でも、聞くのに早く、話すのに遅く、怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しない」と警告されている。怒りいら立ちが人を罪に導く。「怒るのに遅い生活を私たちがすれば、他者との不和が生じてもやがて解消するのです。それでも不和があるとすれば、それは私たちがみ言葉を真剣に生きていないからではないでしょうか。」とK牧師は戒められる。

「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神があなた方を赦して下さったように、赦しあいなさい。(32節)」 この世から遠ざかるのではなく、世の中で「地の塩」として生きていくことが求められる。世において「見ざる、聞かざる、言わざる」が知恵とされているが、「不正や悪を見逃さず、それで損をするのであれば、損を受けよ。神は見ておられる。」とパウロは言葉を続けてゆく。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「しろしろと絵本の中のやうな蕪両手にささげられ隣より来る 今井早苗」


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エフェソの信徒への手紙  4章1~16節 [エフェソの信徒への手紙]

<そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。(11節)>

「パウロは教会が誰か一人によって形作られるとは言いませんでした。そこに集う人それぞれに賜物があり、役割があることを述べています。皆さんが教会にあって様々な奉仕を行うようにです。」と、清藤牧師は書きだされる。

「主に結ばれて囚人となっている私はあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きに相応しく歩み(1節)」と4章は始まる。この時パウロはローマ皇帝の法廷で裁かれるため牢獄の身であった。しかし、彼はそれを主イエス・キリストによって縛られているとしていた。そして、エフェソの信徒たちも、神の招き、神に呼び出された者として、神の祝福を感謝して歩むようにと勧める。

繰り返し罪を重ね死ぬしかなかった私たちが、主の復活と共に蘇った。私たちの罪を主が担って下さり新しい命に歩むことが許され、キリストに結ばれる平安が与えられている。K牧師は「神様が与えて下さった恵みに対する応答は、私たち自身がその恵みの深さと愛を他者に対して分かち合う事によって可能となります。神の恵みを受けながら、他者を拒むのは間違いです』と話された。

「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和の絆で結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。(2節)」 一致団結して進んで行こうというものではなく、もう神の恵みによって一致団結されている。問題は、私たちの側でその一致を取り壊す事もできるという事です。神の愛ではなく自分愛を優先して壊してしまうのです。とK牧師は説かれる。

「柔和」とは、人を裁かず、神の裁きに任せるという事で、「寛容」は愛をもって忍耐する。それは悪を是認する事ではなく、私たちの内にキリストがおられる事を思って愛をもって忍ぶという事である。頭では分かっていても、なかなか実行出来ない事の一つだ。

K牧師は「霊的な成長」に三つの段階があると話された。一つは「自分」、自分が気になり、いろいろ悩んでしまう。その次には「神」を仰ぐ、神が何を行い、言われているのかと。最後に「他者」、神が自分を通して他者にどのように働かれるのか、絶えず意識する。自分が頂いている神の恵みが、他者へ働きかける恵みへと流れていく。そして、神にあって互いに繋がっている事を知る。

「一つ」と言う言葉が続く。イエスを神の子キリストと信じた者は皆「一つ」の体の中にいる。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「少しづつ水の入りゆく田のすみの種漬け花に降るほそき雨 村上春枝」

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