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エレミヤ書 31章1~14節 [エレミヤ書]

<遠くから、主はわたしに現れた。わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し、変わることなく慈しみを注ぐ。おとめイスラエルよ、再び、わたしはあなたを固く建てる。ふたたび、あなたは太鼓をかかえ、楽を奏する人々と共に踊り出る。(3.4節)>

「神様に愛されていながら、繰り返し背きを重ねるイスラエルの民は、とうとう王国を滅ぼされ、人々はバビロンへ捕囚されることになります。ところが、神様は思いがけない救いの道を示されました。エレミヤを通して、捕囚の民を帰還させ、イスラエルを再建するという希望を示されるのです。」と宮本牧師は書きだされる。

預言者エレミヤはその活動の初期(620~609年)、北イスラエルに悔い改めを促し、救済を約束する預言を人々に語っていた。しかし、人々はその言葉に耳を傾けずそれは実現しなかった。ここでは、その事実を見定めながら、全イスラエルに対する救済の約束として聞くように求め、預言者エレミヤが語る。

バビロン捕囚となったイスラエルに残された希望は、エレミヤの言葉に聞き、神に立ち帰る以外なかった。主の言葉は「わたしはイスラエルの全ての部族の神となり、彼らはわたしの民となる。」で始まる。神は再び全イスラエルを「わが民」として、彼らを招かれる。主の恵みを受けて約束の地カナンを目指しての旅出エジプト、バビロンからの救いは第二の出エジプトの出来事として起こることが示される。

バビロンから解放されても、彼らは神殿を破壊され、約束の地から遠く離れ、主の救いから遠ざけられてしまったのだと、自らを理解していた。その人々に主は「遠くから、わたしに現れて」下さった。主のもとに招かれるという実感、その喜び、主は遠くでなく、このバビロンにおいても主は「近くに」いてくださるのだ。

バビロン捕囚は、主の審判としてエレミヤの預言通りに実現した事柄である。捕囚を通して新しいイスラエルの創造を始めることが主の御心であることが示される。そしてその救いは「とこしえの愛、変わることのない慈しみによって」成し遂げてくださると。

「『愛』と『慈しみ』の契約は、一方的に与えられるものです。人間の努力ではありません。神様の『とこしえの愛』は、そのお約束のとおり、主イエスの救いを私たちにお与えくださいました。」と、宮本牧師は結ばれる。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「里山の小道に傍(そひ)て六地蔵いびつな柚子がそれぞれにあり 唐木よし子」

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エレミヤ書 11章18~20節 [エレミヤ書]

<わたしは、飼いならされた小羊が、屠り場に引かれて行くように、何も知らなかった。彼らはわたしに対して悪だくみをしていた。「木はその実の盛りに滅ぼし、生ける者の地から絶とう。彼の名が再び口にされることはない。」(19節)>

「アナトト出身の預言者エレミヤは、故郷の人々による自分の殺害計画を知らされます。彼が支持したヨシア王の宗教改革により地方聖所が廃止される事になって、同郷の祭司たちから裏切り者扱いされ、その上『北からの災い』の預言が一向に実現せず嘲笑された挙句、命を狙われたのです。」と、4月の「日毎の糧」担当、岡山久世教会宮本裕子牧師は書き出される。

「彼らが何をしているのか見せて下さった。(18節)」 彼らはエレミヤの故郷アナトトの人たちの事である。そこにはエレミヤの親族や幼馴染もいたかもしれない。エレミヤは彼らの事を全く警戒することなく、むしろ自分の味方だと思っていたのかもしれない。それは、飼い主を信じ切っていた小羊が屠り場に引かれてゆくようなものだった。

アナトトは祭司たちが住む村だった。祭司はイスラエル12部族のレビ人だけがなれるので、彼らはレビ人であった。エレミヤは大祭司エリに遡る出自を持っていたが、エリ一族はサウルとダビデの争いに巻き込まれ、その地位を失い、寒村であるアナトトに追放されたが、一族はそこで神殿を建て、祭司として仕えた。しかし、宗教改革によって地方の神殿に廃止が命じられ、エルサレムに一本化されることになった。

地方の神殿が異教の神々との混交宗教に陥っていた。主はエレミヤに「私の家で私の愛する者はどうなったのか。多くの者が悪だくみを行い、献げ物の肉を彼女から取り上げている。(15節)」「イスラエルの家とユダの家が悪を行い、バアルに香をたいて私を怒らせた。(17節)」 と嘆かれ、彼らへの裁きを告げられる。しかし、神殿廃止は多くの祭司が住むアナトトでは大きな打撃となった。

アナトトの人々の怒りは、同郷者エレミヤが神の裁きを声高に上げる事にあった。彼は我々を失業させようとするのかと命を狙うまでになっていた。それはエレミヤには思ってもみない事であった。ただ神が示された事、正しい事をしていただけであった。驚いたエレミヤが神に復讐を求めると「私はアナトトの人々に災いを下す。(23節)」と神はエレミヤの求めに応じられた。

しかし、実際には裁きは起きなかったらしい。12章でエレミヤは神に不平を述べている。神のお考えは人の思いを遥かに超えているのだと、自分もたびたび知らされる。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「梅古木に梅は咲きおり村の古老のほつほつ零るる話のような 森川たみ子」

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