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イザヤ書 52章1~10節 [イザヤ書]

<いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王となられた。と、シオンに向かって呼ばわる。(7節) >

「私、この私があなたを慰める(51章12節)」と語られた主が、ここでもその民を慰めて下さる。主は様々な言葉で彼らを励まし慰め、主に贖われた者の受ける恵みがどれほど大きいものなのかを伝えようとされる。

「奮い立て、奮い立て、力をまとえ、シオンよ。輝く衣をまとえ、聖なる都、エルサレムよ。無割礼の汚れた者が、あなたの中に攻め込むことは再び起こらない。(1節)」 神はイスラエルに、もう救われたのだ、目を覚まして自分自身を見るようにと語る。バビロンは完全に滅ぼされ、イスラエルは捕囚から解放された。失われたものは回復し、縄目は解かれ、いつまでも捕囚の姿に甘んじていてはならないと。

BC2000年頃、アブラハム、約束の地カナンに入る。1800年頃、カナンが飢饉になりヤコブの子孫はエジプトに入り奴隷となる。1250年頃、モーセに率いられて出エジプトを果たしイスラエルはカナンに定着した。イザヤ書はユダの王アハズヤ(736~716年在位)の時代の物とされる。ユダ王国崩壊は586年。

イスラエルの歴史は苦難の歴史である。主は「あなたは私の民だ」とイスラエルに言われ、彼らは神のもの、神の民であるが、度々神から離れその罰を受けている。しかし、それはイスラエルを神がアッシリアやバビロンに売り渡されたわけではない。イスラエルに危害を加える彼らは、主の名を常に侮った。「それゆえその日には、私が神であることを『見よ、ここにいる』という名である事を知る」とイザヤは述べる。

「イスラエルは主の名を知る事になります。ここで明らかな事はこのように神が動かれるのは、イスラエルのためではないという事です。それはあくまで神ご自身のみ名のためであり、神ご自身が侮られる事がないためです。すなわちアッシリアやバビロンが壊滅し、彼らが救われたのは、神の一方的な恵みによるものであったという事です。」と、O牧師は話された。

私たちが何かをしたからではなく、何もしなくても、できなくても、神は一方的に救って下さるという「良い知らせ(福音)」を、人々に伝える者の足は山の上にあって、なんと美しいことかとイザヤは謳う。

「歓声を上げ、共に喜び・・・」私たちの教会は宣教しているだろうか。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「片仮名は常に新しい万葉の昔もデジタル化の今も 毛利さち子」
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イザヤ書  44章1~8節 [イザヤ書]

<わたしは乾いている地に水を注ぎ、乾いた土地に流れを与える。あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ、あなたの末にわたしの祝福を与える。(3節)>

「イスラエルは、彼らを選ばれた主なる神に背き、逆らい、異教の神々を拝むようになりました。それゆえイスラエルは滅び、民はバビロンへと連れて行かれました。」と、鍋谷牧師は書きだされる。

43章の最後は「あなたの始祖は罪を犯し、あなたを導く者らもわたしに背いた。それゆえ、わたしは聖所の司らを汚し、ヤコブを絶滅に、イスラエルを汚辱にまかせた。」と結ばれる。神の民イスラエルが置かれた困難な立場は、歴史的な罪の堆積による結果であり、厳しい現実を神の裁きとして受け止めなければならない事が告げられる。

しかし、神はイスラエルを全く見捨てられたのではない。44章では「そして今、わたしの僕ヤコブよ。わたしの選んだイスラエルよ、聞け」と呼びかけて下さり、「わたしは乾いている地に水を注ぎ、乾いた土地に流れを与える。あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ、あなたの末にわたしの祝福を与える。」と、告げられる。

O牧師は「エシェルというのはイスラエルの別名で、イスラエルは神から与えられたヤコブの名であります。ヤコブは、神の前に誇りとするものは何も持ちませんでした。彼は懸命に生きましたが利己的で彼の通った後には、修復しがたい問題が残されていました。けれど、不思議な事に神はヤコブを目にとめられ彼の後始末をし続けられました。その上、イスラエルという名を与えられたのです。」と話された。

「ヤコブ」という名は、「押しのける者、ずる賢い者」と言う意味を持つ。「エシュルン」は「真っ直ぐな者、正しい者、心の直ぐな者」という意味を持ち、神がヤコブにそして彼の子孫に与えられた「イスラエル」は「神に支配された者」という意味を持つ。何度も神に背き神の御心に歩まなかった彼らは「イスラエル」という名に相応しくなかったが、神が彼らを選び、贖い続けて下さり「エシュルン」と呼びかけられる。

心頑なな者に、忍耐強く繰り返し神は呼び掛けて下さる。「わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない。(6節)」 このみ言葉は繰り返されるが、黙示録では際立った引用がされている。「恐れるな、おびえるな。既にわたしはあなたに聞かせ、告げて来たではないか。(8節)」

身の回りの事で心晴れない今、6.8節の御言葉は励みとなる。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「もたれてもどこかに力が入ってる生きていくことおしえてくれる木  落合優子」


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イザヤ書 65章1~16節 [イザヤ書]

<この地で祝福される人は、真実の神によって祝福され、この地で誓う人は真実の神によって誓う。初めからの苦しみは忘れられる。わたしの目から隠されるからである。(16節)>

「主なる神は『反逆の民』にも、諦めることなく『わたしはここにいる』と、ご自身を現し、『良くない道』にいかないよう『手を差し伸べてきた』と言われます。それでもなお異教の礼拝が、神を嘲りながら行われ続けたとの告発がなされ、神は偶像礼拝を行う者たちに報いられると宣言されます。」と、浅野牧師は書きだされる。

65章で預言者は、神に従う敬虔な者に向かっては救いの告知、神に逆らう者には災いの告知が夫々に語られる。1~7節は、神に背く者だけに向けて語られる「審判告知」、8~16節では「救済告知」が語られる。バビロン捕囚となる以前は、民全体に審判の告知がなされたが、捕囚からの解放後である今日の個所では、神への背信を「連帯責任」として民全体に問われることはなかった。

1.2節には、神は背信者にたいしても心を砕き、彼らが求めないうちから「手を差し伸べてきた」と語られる。神のかぎりない愛を、イザヤは捕囚の民に繰り返し語り、捕囚からの解放後に改めて語る。捕囚から解放されてもイスラエルの民の苦難は続き、その嘆きは繰り返し神に叫ばれた。その祈りに「私はここにいる。ここにいると言った(1節)」と、神は答えられる。

けれど、反逆する民は自分の思いのみを追求し「思いのままに良くない道」偶像礼拝を続けた。彼らは「山の上で香をたき、丘の上で私を嘲った」、捕囚中もしくは捕囚後、高い場所で供養礼拝を守っていたのだろう。長いバビロンでの暮らしの中で異教的な偶像礼拝が常態になっていた。

8節の、ぶどうの汁を損なうな「そこには祝福があるから」というのは、祝福は神に由来するものだから、これを破壊する(損なう)者は神を冒涜する者とされるが、「私はわが僕らのために、全てをそこなうことはしない」と、主は告げられる。

11.12節では背信者が呼びかけられ、彼らに絶滅が告げられる。「私の聖なる山(シオン)」での礼拝を放棄し侮蔑する者が、禍福の神に食卓を整え、運命の神に酒を注ぐと告訴される。13~16節には、神に従う「私の僕ら」と、神に逆らう「お前たち」とに対する「祝福と呪い」が対比して語られる。

イスラエルの民にとって「捕囚をどう受け止めるか」は、捕囚後における重要な問題であった。「それは、なぜ国は滅ぶことになったのか、その原因を律法との関連で突き止めようとする信仰が、イザヤ書から見えてきます」とO牧師は話された。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「年の瀬の岡ビル市場たのしかり壁が膨らむほどににぎわい 岡部かずみ」


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イザヤ書 64章5~11節 [イザヤ書]

<しかし、主よ、あなたは我らの父。わたしたちは粘土、あなたは陶工、わたしたちは皆、あなたのみての業。(7節)>

「民の困窮と『荒廃』の現実から、神の『慈しみ・愛』と約束の回復のため、預言者イザヤは民と共に罪の告白をします。」と、浅野牧師は書きだされる。

64章は、イスラエルが滅ぼされた紀元前587年前後の状況が背景となっている。イザヤ書は三つに分けられ、第一イザヤのバビロン捕囚前後、そこから第二イザヤの捕囚から解放される時期へと受け継がれて来た。

第三イザヤは、イスラエルの人々が捕囚から解放されてパレスチナに戻り、エルサレムを再建する時期であり、第一、第二イザヤ書を経て受け継がれていた預言をもとに、過去の過ちを人々の心に刻むため詩編を背景に記されたとされている。旧約聖書が編纂される以前、イスラエルの人々は自らが過ちを犯した歴史を、罪を嘆く詩編によって歌い継いでいた。

「しかし、主よ、あなたは我らの父。(7節)」「あなたの民である私たちすべてに、目を留めて下さるように。(8節)」と、罪の告白を経て神の御許に立ち返る悔い改めの祈りが献げられる。バビロン捕囚から解放され、エルサレムに帰還した人々は、三世代にわたるイザヤの戒めの預言によって、罪の自覚から告白へ、また希望の預言によって悔い改めの歩みへと導かれていった。

けれど、イスラエルの人々はこのような罪の歴史が伝えられながら、同じ過ちを重ねていった。その結果、神殿は祭司の腐敗にまみれるようになり、旧約聖書を教え説き明かすラビたちは、律法主義的な教えを説くことが中心になってしまった。このため、70年に神殿が破壊された出来事は、同じ罪の歴史が原因であると考えられている。

「私たちの輝き、私たちの聖所、先祖があなたを賛美した所は、火に焼かれ、私たちの慕うものは廃墟となった。それでもなお、主よ、あなたはご自分を抑え、黙して、私たちを苦しめられるのですか。(10.11節)」

イスラエルの人々、いや彼らだけでなく、今を生き、繰り返し礼拝で聖書の説き明かしを聞く、この自分も罪まみれ、いびつに発展してゆくこの世に流されたまま。神はこのような罪の繰り返しのただ中に、御子イエスを地上に遣わされ、全ての人々を救いへと招いて下さっている。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「ストーブの熾火に薪をくべるごと無沙汰の人に賀状したたむ 水越和恵」


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イザヤ書 63章15節~64章4節 [イザヤ書]

<喜んで正しいことを行い、あなたの道に従って、あなたを心に留める者を、あなたは迎えて下さいます。あなたは憤られました。わたしたちが罪を犯したからです。しかし、あなたの御業によって、わたしたちはとこしえに救われます。(4節)>

「失望の内にある民の嘆きをあえて預言者イザヤは取り上げて、神に問うています。『どこにあるのですか、あなたの熱情と力強い御業は。あなたのたぎる思いと憐れみは、抑えられていて、わたしに示されません』強いうめきです。」と、信徒の友2023年1月号「日毎の糧」執筆担当、京都室町教会浅野献一牧師は書きだされる。

預言者は神に「民はあなたの熱情と力強い御業は、あなたのたぎる思いと憐れみは、抑えられていて、わたしに示されません。あなたは私たちの父です。アブラハムが私たちを見知らず、イスラエルが私たちを認めなくても、主よ、あなたは私たちの父です。『私たちの贖い主』これは永遠の昔からあなたのみ名です。」と、と祈った。

そして、どうして私たちをあなたの道から迷いださせ、私たちの心を頑なにして、私たちがあなたを畏れない者とされるのですか。「主よ、立ち帰って下さい。あなたの僕たちのために、あなたの嗣業である部族のために(17節)」と、祈りを続ける。

「バビロン捕囚から解放されたイスラエルの民は、神殿の立て直しを夢見て帰還しました。しかし都エルサレムは荒廃しきっており、神殿再建の望みさえ失ってしまう絶望に民は捕らわれていました。その困窮する民に、預言者イザヤは「勝利を告げ、救いをもたらす」神の到来を告知したのです。『報復の年』『贖いの年』とは、主の恵みの年にほかなりません。」と、浅野牧師は1月2日に書きだされた。

主よ、私たちは苦しい年月を過ごしてきました。敵はあなたの聖所を踏みにじり、私たちは異邦人の支配を受けています。どうか主よ、今こそ天を裂いて降ってきてくださいとイザヤは祈り続ける。

自分の祈りもなかなか聞き入れられず、もどかしい、祈りが貧しいからなのか、自分の祈りなど神は聞いて下さらないのかと思う時がある。それが、神から離れている時ですとK牧師から注意された。神の沈黙ほど信仰者にとって恐ろしいものはない。

主イエスの時代も多くの人が救い主を待望していた。それなのに、そのお方を目の前にしながら人々は拒み、ついには十字架に架けてしまう。自分に都合よく働く者を神と呼んではならない。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「スクリーンに牛の黒目は映されて涙のごときものを垂らしぬ  大森静佳」

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