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ネヘミヤ記  8章13~18節 [ネヘミヤ記]

<こうして捕囚の地から帰った人々からなる会衆は、皆で仮庵を作り、そこで過ごした。」(17節)>

「『仮庵(カリイホ)』を作って1週間そこで過ごし、家々で喜び祝うこの祭りは、主なる神がイスラエルの民をエジプトから導き出し、荒れ野において、仮庵に住まわせられたことを記念するために祝われました。(レビ記23章) 」と高多牧師は書きだされる。

およそ百年ぶりに律法の書がエズラによって朗読され、さらにレビ人が神の言葉を民に解き明かした。み言葉に耳と心を開かれて、イスラエルの民は「主を喜び祝う」恵みを深く味わった。神殿が再建し、崩壊した城壁修復も終わった。こうして、イスラエルの民は神殿再建という建物によっての再建だけでなく、神の言葉に聞き従い養われることによって神の民として再び立ち上がるのであった。

その中で、彼らは「第七の月の祭りの期間を」荒れ野で仮庵で過ごした祭りを再現する事にした。仮庵とはテント、幕屋のことで、主が出エジプトを導き出され、彼らが荒野をさまよい歩いた40年のテント生活を思い起こす祭りであった。イスラエルは荒野の旅を終わり、約束の地に何百年を過ごし、バビロン捕囚も終わりを告げ、ダビデの都エルサレムに帰って来ることができた。

出エジプトの恵みを、荒野の40年を思い起こすために、仮庵祭は第七の月に仮庵を町の広場に作って、7日間を過ごすのであった。しかし「けれど、荒野の40年を終え約束の地に入ったヨシュアの時代からこの日まで、イスラエルの人々がこのような祝いを行ったことはなかった。(17節)」

しかし、エズラの朗読する律法の書には「仮庵で過ごさなければならず」とあった。律法の言葉を深く悟った人々によって、それに沿った布告が出された。「山に行き、オリーブの枝、ミルトスの枝、ナツメヤシの枝、その他の葉の多い木の枝をとって来て、書き記されている通りに仮庵を作りなさい」と。「それは、まことに大きな喜びの祝いであった。(17節)」

今までのことを責めるのではなく神は「大きな喜び」を彼らに与えられた。O牧師は「仮庵祭をないがしろにしていたことは当然悔い改めが必要です。しかし、そのためにまず神は、喜びの祝いを私達に与えられます。忘れ去っていた神の恵みを思い起こせ、救われた感謝を全身全霊をもって神に表し、賛美するようにと、神への感謝の礼拝も精一杯喜びをもって献げましょう。」と話された。

過越祭の50日後に仮庵祭がもたれる。それはちょうど教会誕生のペンテコステに重なる。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「惨劇の跡であるらし樹の下に花のごとくに白き羽根散る 加茂直樹」


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ネヘミヤ記  7章8節~8章12節 [ネヘミヤ記]

<彼らは更に言った。「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝う事こそ、あなたたちの力の源である。」(10節)>

「長い間祈り願っていたエルサレムの城壁の再建がついに完成しました。その城壁の『水の門の前にある広場』にイスラエルの民は集まって、主を礼拝しました。この時イスラエルの民は『一人の人のようになった』とあります。これはやがて現れる新しい主の民、キリストの体なる教会の姿を予見させます。」と高多牧師は書きだされる。

昨日の水曜日は教会祈祷会であったが、いつもは7人前後でもたれるのに、出席者は牧師と自分だけとなった。8月15日は韓国では「光復節」として祝日、「強占期時代」と呼ばれる日本国占領から解放された日である。私の町では市長が戦争で失った多くの人を偲んで12時に黙祷をと、有線放送が流れた。民主主義の世で戦争は、民に責がある。愚かな者に権威をあずけてはならない事だ。

「城壁が築かれたので、わたしは扉を取りつけさせた。そして門番と詠唱者とレビ人を任務に就けた」と7章は始まる。最後の扉を取り付け、城壁は完成した。S先生によると「門衛とは見張り、つまり祈りであり、詠唱者は主を賛美し、レビ人はみ言葉を教え、城壁に囲まれた中には、執り成しの祈りの場が築かれ、御言葉と祈りと賛美によって、民が聖所とされてゆくのです。」と言われた。

7章の残りは帰還した捕囚の民の部族、またその名や、人数が列記される。韓国人の若いK牧師とマンツーマンの祈祷会なので気楽になり「こんな個所は読み飛ばしているんです」と本音を吐いた。ついでに、それに幻とか、ダニエルが獅子の檻から生還したとか、よく理解できないので、ネットでどういうふうに説教されているのか検索しながら読んでいますと言った。

すると、K牧師は即座に「いけません」と、にらまれた。「祈りをもって聖書は読むものです。すぐに回答を求め、あちこち読んで自分の気に入った答えで満足している姿勢は改めて下さい」と。

書記官エズラは律法を会衆の前に持ってきた。皆が見守る中でその書を開いた。彼が書を開くと民は皆立ち上がった。彼が大いなる神、主を称えると民は皆、両手を挙げて「アーメン、アーメン」を唱和し、ひざまずき、顔を地に伏せて、主を礼拝した。

「アーメン、アーメン」、それは真実です。私はそれに同意します。自分は理屈や根拠に捉われて聖書を読んでいたことを悔い改めなければと思った。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「平和だね 同僚(トモ)がふと言う機密文書溶解業者を待つ日盛りに 福西直美」
キリスト教 イエス・キリスト 短歌 塔 教会 聖書

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ネヘミヤ記  4章9~17節 [ネヘミヤ記]

<角笛の音を聞いたら、わたしたちのもとに集まれ。わたしたちの神はわたしたちのために戦って下さる。(14節)>

「敵(9節)」からの攻撃に備えて、ネヘミヤは鉄壁の防御を築きたかったに違いありません。けれども、防御と城壁の修復、この両方を同時に進めていくためには、いかんせん人員が足りませんでした。」と高多牧師は書きだされる。

神殿再建工事が進展するに従い、敵の妨害も具体化してきた。サマリア人、アンモン人、ペリシテ人たちは共同してエルサレムに攻め込む構えを見せた。エルサレム城壁強化は彼らの既得権益を失わせるからであった。ネヘミヤたちはそれに対して神に祈り、彼らから身を守り警戒した。しかし「もっこを担ぐ力は弱り、土くれの山はまだ大きい、城壁の再建など、私達には出来ません」と言う声も出た。

ネヘミヤは敵の情報を探り、有効な防御策を立てた。彼らは防御態勢が強化されたことを知って攻撃を取りやめたが、またいつ襲ってくるかわからなかった。そこでネヘミヤは人員の半数を工事に、残りの半数を防備に回した。もっこを担ぐ者は一方の手で作業し、もう片方の手は投げ槍を取った。建築作業をする者は、各自腰に剣を帯びて作業した。ネヘミヤの傍には角笛を吹く者がついた。

彼らは妨害があっても工事を止めなかった。それは「城壁再建工事は神の命じた業であり、妨害は神の計画への挑戦である」と固い信念があったからだ。その信念がイスラエルを一丸にした。

今日は第二次世界大戦の敗戦を覚える記念日である。私達の国では「私達の神は私達のために戦って下さる。」と、真の神を知らず多くの若者が神社参拝し戦地に送られた。56.57年頃、パウロはローマの信徒への手紙13章で「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威は全て神に依って立てられたものだからです。(1節)」と、記す。

初代教会は「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5章)」という御言葉を基礎に、キリスト者が兵士になるのを禁じた。しかし、コンスタンスチヌス帝(324~337年在位、初代全ローマ皇帝)後の教会は、先のローマ13章をもとに、キリスト者も国家の命じる戦争に従うべしとした。ローマ13章はその後も宗教改革において、1930年代のドイツにおいて、キリスト教、教派の間で論争となった。

教会と国家の在り方、傍若無人に侵攻して来た国と戦わなければならないウクライナのクリスチャンを思う。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「ふーと息の音する八月まひるまに炭酸水が喉からまつすぐ 松原あけみ」


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ネヘミヤ記  1章1~11節 [ネヘミヤ記]

<どうか、あなたの僕モーセにこう戒められたことを思い起して下さい。(8節)>

「ペルシャの王アルタクセルクセスの献酌官であったネヘミヤは、兄弟ハナニからエルサレムの現状を聞きました。初代王キュロスによって神殿再建が命じられてから数十年が経過していたにも関わらず「エルサレムの城壁は打ち破られ、城門は焼け落ちたまま」という有様でした。」と高多牧師は書きだされる。

王の献酌官ネヘミヤも、捕囚となってバビロンに連れて来られたイスラエルの民の子孫であった。彼は父祖から語り継げられている故郷のこと、都エルサレムのことは片時も忘れたことはなかった。「献酌官」とは、王の毒見役であることから、彼は王からの信頼の厚い人物であったことが分かる。そのネヘミヤのもとに兄弟ハナニが来て、ユダの人々についてまたエルサレムについてネヘミヤに語った。

彼らは「捕囚の生き残りで、この州に残っている人々は、大きな不幸の中にあって、恥辱を受けています。エルサレムの城壁は打ち破られ、城門は焼け落ちたままです。(3節)」と話した。

これを聞いたネヘミヤは、座り込んで泣き、幾日も嘆き、食を断ち、天にいます神に祈りを献げた。「あなたの僕の祈りをお聞き下さい。あなたの僕であるイスラエルの人々のために、今私は昼も夜も祈り、イスラエルの人々の罪を告白します。私達は罪を犯しました。私も私の父の家も罪を犯しました。あなたに反抗し、あなたの僕モーセにお与えになった戒めと掟と法を守りませんでした。」と祈った。

故郷の乱れ、エルサレムの荒れ放題の状態こそ、イスラエルの人々の中にある問題であった。イスラエルの神との交わりが疎かになっていることから、引き起こされた事ですと祈った。乱れが故郷の人々の群れの中から、また群れの外からも忍び込んできて、この壊滅的な状態になってしまったのですと。

彼は居場所こそ遠く離れているが、イスラエルの人々共に、悲しみや苦しみを共にするために祈った。嘆いたままでなく、祈りによって人々の神との交わりの回復を真直ぐに神に願い求めた。「おお、天にいます神、主よ、偉大にして畏るべき神よ、主を愛し、主の戒めを守る者に対しては、契約を守り、慈しみを注いで下さる神よ。耳を傾け、目を開き、あなたの僕の祈りをお聞き下さい。」と。

しかし、あなたは主に背を向け、戒めを守らない者を、諸国の民の中に散らすお方です。けれども、あなたに立ち帰り、その戒めを守り、行うならば、天の果てまで追いやられている者であっても、「主は彼らを集めて、ご自身が選んだ場所に再び連れ戻して下さいます。」と祈った。

神の約束の確かさは揺らぐことがない。それは数千年を経た今も変わる事がない。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「くものしたを雲が流れてゆくさまを赤信号のあひだ見ており 白石瑞紀」



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