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ヨハネの黙示録  21章22節~22章5節 [ヨハネの黙示録]

<しかし、汚れた者、忌まわしいことと偽りを行う者はだれ一人、決して都に入れない。小羊の命の書に名が書いてある者だけが入れる。(27節)>

「イエスさまを信じているか否か、最後に決定的な違いをもたらします。小羊の命の書に名が記されている事は、今は分からなくても、終わりの日に決定的な差となります。」と、服部牧師は書きだされる。

最終章22章は「天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川を私に見せた。」と始まる。天のエルサレムにおいて主が実現して下さるのは「エデンの園」である。「エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分かれて、四つの川となっていた。(創世記2章)」 主は命の木を園の中央に置き、その木になる実によって永遠に生きるようにされた。

主の御座は混じりけのない聖さが保たれ、水晶のように輝く命の水は都の大通りを流れ、川の両岸には命の木が立ち、その葉は薬となり諸国の民を癒した。K牧師は「私たちが主イエスの御名を信じ、このお方を受け入れた時、キリストが聖よい方であるように、私たちも聖よくされます。主イエスが山上の垂訓で『心の清い者は幸いです。その人たちは神を見るからです』」と話された。

また川については「海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも。大河とその流れは、神の都に喜びを与える。いと高き神のいます聖所に。神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる。(詩編46篇)」とうたわれる。

K牧師は「永遠の命は、たとえ、どのようなことが起ころうとも、神が御座におられると言う確信を持つところから来るのです。平安、豊かさ、備え、恵み、助けがその御座から川のように尽きず与えられる。その事を信じるのが『永遠の命』なのでしょう。主イエスはサマリアの女性に「私が与える水を飲む者は誰でも、決して渇く事がない。(ヨハネ4章)」と言われています。」と、説かれた。

創世記に始まる聖書物語は、内側からの混乱や争いの連続である。しかし、もう悪魔は火の池に投げ込まれた。ヨハネが見る天はエデンの園の回復以上の回復を神は成し遂げられる。今日の個所はこの都で仕えている者たち、すなわちキリスト者や贖われた聖徒たちの姿で締めくくられる。

死んだら天国にという仲良しのRさんに「ほんとに行くつもりなの?」と、からかってしまった。死んでからの事はどうでもよい、「今、自分は天の国にいるのかどうか、生きているのに死んでいないか。」と自問して、神の御業の中に置かれている事を喜ぶのが、天国に生きると思うのだが・・・。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「パトカーの玩具のぞかせ隣席の女性(ヒト)は新大阪で降りたり 月下香」



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ヨハネの黙示録  21章9~21節 [ヨハネの黙示録]

<都は神の栄光に輝いていた。その輝きは、最高の宝石のようであり、透き通った碧玉のようであった。(11節)>

「神様の栄光はどの輝きにもまさっています。しかし、神様の栄光は神様を信じ、崇めている人には何ものにも代えがたい輝きですが、信仰のない人にはその価値はわかりません。だから神様の栄光より他の栄光、輝きを慕い求め、神様の栄光を知らずにいます。」と、服部牧師は書きだされる。

ローマ・バチカンの「サン・ピエトロ寺院」は、ペトロの殉教地でありその墓の上に、4世紀に建てられたとされている。しかし、大都市ローマも時代の浮沈の中に翻弄され、1377年当時の人口は7000人と推定され、衰退した1都市に過ぎなかった。サン・ピエトロ寺院も老朽化し、屋根も壁もボロボロになっていた。その結果、現在目にする大聖堂の建設は、1505年改築決定がされ工事に取り掛かった。

そして、この建築資金を賄うために発行されたのが、マルティン・ルターの「95箇条の論理」でのテーマ「贖罪符」である。サン・ピエトロ大聖堂の建築が、宗教改革の波を生み出したことになる。

70年、ユダヤ戦争によって、ヘロデ大王が巨財を費やしたエルサレム神殿は崩壊した。大理石の切り石が輝きその荘厳さは近隣諸国の評判であったが根元から覆された。そして、ユダヤ人は離散の(ディアスポラ)の民となり、「神殿」の宗教から「書物」の宗教へと歩みを変えざるを得なかった。神殿が消滅し人々は問う。「神殿とは何か、見えない神の住まいに、どんな意義があるのか。」と。

神殿崩壊を経験したヨハネもまた「神殿」とは何かを考え、天使によって見せられるエルサレムを色彩豊かに表現する。エルサレムの町は大祭司の胸飾りの形となり、大祭司である主は神殿という小さな場におられるのではなく、その働きは全地におよび、人である祭司の働きを必要としなくなる。なぜならキリストが大祭司であり、神の国こそが神殿なのだとヨハネは幻を通してみた。

「私は都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである。この都にはそれを照らす太陽も月も、必要ではない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の灯りだからである。(22、23節)」

しかし、水も食料もないガザの人々、爆撃に怯えるウクライナの人々に、このヨハネの「光」を私たちはどう伝える事が出来るのだろう。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「微動する春の浅蜊は生き物で食べ物になるまで加熱する 丸山恵子」


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ヨハネの黙示録  21章1~8節 [ヨハネの黙示録]

<「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや苦しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(4節)>

「神様は『泣くな』とは言われません。むしろ私たちが泣く存在であることを(心の中の涙も含めて)神様はよくご存じです。私たちが打たれ弱い存在であることも神様は全て知っています。だから『泣くな』とは言われず『涙をぬぐい取る』と約束してくださいます。」と、服部牧師は書きだされる。

ある教会は多くの殉教者を出し壊滅した。また別の教会は迫害を避けるために世と妥協し皇帝礼拝を始めた。またある教会は、世の動きに目をつむり自分たちの救いだけを願っている。十字架につかれたキリストが復活されたのに、この教会の無力さは・・・。神は本当におられるのかこのような煩悶の中、ヨハネに幻が示された。21章には「新しい天と新しい地」とタイトルが゙つく。

「最初の天、最初の地は、去って行き、もはや海もなくなった。(1節)」とは古い世界、現実の世界が去るのである。迫害の中で教会は消え去ろうとしているが、神が創造された世界はいつまでもこの堕落した状態ではない。古い世界は去り、混沌の象徴であった海も消えた。

そして「聖なる都エルサレムが夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た(2節)」 平安の都エルサレムは歴史の中で、争いや流血の場となり、アッシリヤ、バビロン、ローマなど諸国はエルサレムは繰り返し占領、破壊した。その流血の町が新しくされる。

「その時。ヨハネは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや苦しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。』」 父なる神は私たちの暮らしの中にいて、その悲しみ苦しみを全てご存知である。

BC587年、エルサレム神殿共々町は破壊された。人々はバビロンへ強制連行され捕囚とされ「自分たちが信じて来た神よりも、バビロンの神々の方が頼りになるのではないか」と疑い、動揺と絶望が広まっていった。そんな中、エゼキエルは捕囚となって25年目に主によって非常に高い山に連れていかれ、そこから都エルサレムを、神殿を、幻を通して見せられ「主は共におられる」と人々に語り続けた。

S牧師は1963年銃弾に倒れたマルティン・ルーサー・キンク牧師の最後の説教「私には夢がある」の一節を紹介された。エゼキエルもヨハネもその場にいたかもしれない。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「右の眼の視力を失くした父といて片目を閉じて見上げる桜 宮脇泉」


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ヨハネの黙示録  20章1~15節 [ヨハネの黙示録]

<死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。(14節)>

「死がもはや死の意味を失い、陰府がもはや陰府の体をなさなくなるとしたら、死と陰府に捉われている私たちにはもはや恐れるものはなくなります。」と、服部牧師は書きだされる。

ローマ帝国の支配下にある中、ヨハネはパトモス島の牢獄にいた。何年間この島にいていつこの島から出られるのか、教会の兄弟姉妹といつ会えるのかそんなことが皆目分からないまま不安な生活の中でヨハネはこのような幻を神から与えられていた。黙示録の2.3章に登場する7つの教会はヨハネにとって懐かしい教会ばかりで、彼の魂が夫々の教会から離れた事は無かった。

彼は神から与えられたこの幻を、ただ自分の寂しさや悲しさをかこつだけでなく、そのことにとどまる続ける事は出来なかった。「私はまた、イエスの証と神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂を見た。(4節)」当時の教会には殉教者を出さなければならないような厳しい状況下にあった。殉教者たちは偶像礼拝を拒み、皇帝礼拝を拒んだために無残な死を迎えた。

しかし、「彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した」という言葉が、4.6節に繰り返される。注解書によると「おそらくここでの殉教者の復活はローマ時代の迫害後の平和な教会の事」とあった。K牧師は「ローマによって荒らされてしまったこの世のために、教会は『神とキリストの祭司』としてキリストの福音を伝えるのです。教会は慰めを告げ、執り成しの祈りに生きるのです。」と説かれた。

厳しい弾圧の中でキリスト者は各地に離散を余儀なくされた。そこで彼らはキリストの福音を宣べ伝えていった。弾圧されても弾圧されてもはじけるようにキリスト者は増していった。ついにはローマ帝国の足もとにもじわじわ広がり、キリスト教はローマ帝国の国教になってしまった。ヨーロッパ全土に、また人々の移動によってアメリカ全土にも広がった。ヨハネは幻を通して神の偉大な業を見せられていた。

しかし、その千年が終わると、それまで取り押さえられていたサタンが解放されて諸国の民を惑わすと告げられる。それでも結局サタンはなすすべもなく焼き尽くされると。なぜサタンが解放されるのか、千年とはどういう意味か、何時から何時までをいうのか。教会の歴史もサタンの暗躍によって様々な汚点を持つ。千年は終わっているのか、ロシア正教を教会と呼ぶのかと考えてしまう。

「実際の歩みには労苦があります。しかし死を終わらせ、陰府に終止符を打たれるお方に守られ支えられて歩むなら、私たちは死に向かってではなく、生に向かって生きていると感謝をもって告白する事が出来るのです。」と服部牧師は結ばれる。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「引っ越しの子の持ちきたるカーテンの丈ことごとく我が家に合わぬ ばいんぐりん」


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ヨハネの黙示録  19章1~10節 [ヨハネの黙示録]

<それから天使はわたしに「書き記せ。小羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ」と言い、また「これは神の真実の言葉である」とも言った。(9節)>

「婚宴は出席するまではどの様なものかわかりません。小羊の婚宴はどれほどの喜びに満ちているのでしょうか。この婚宴は小羊である復活のイエス様の婚宴です。」と、服部牧師は書きだされる。

大淫婦バビロン(ローマ帝国)の滅亡を見て、天では讃美の声があがる。伝承によると、BC753年ローマが建国。AD395年ローマ帝国は東西に分裂。476年西ローマ帝国滅亡、1453年、コンスタンティノーブルが陥落、ローマ帝国は完全に滅亡する。神の僕たちの流した血に対する報復が成される。ヨハネは天上で先取りされる神の裁きを「血の復讐」と呼ぶ。

バビロン(ローマ帝国)滅亡は権力を持つ者には終わりの時、しかし迫害された者にとっては解放の時である。8月15日を日本では「終戦記念日」と呼び悔い改めの時とされているが、韓国では「光復節」と呼び、日本に占領された「強占期」からの解放を喜ぶ日である。天上では、ローマを焼く煙が漂う中で礼拝が行われる。

ローマは「淫らな行いで地上を堕落させた大淫婦」と呼ばれる、ここでいう「淫らな」とは、自分より権力のある者、利益を与えてくれる者を拝み、皇帝にすがり、皇帝を主と呼ぶ偶像礼拝を指す。ローマ帝国が滅び、天上では小羊に婚礼の祝宴が開かれ、キリストが王になられた喜びの讃美が続く。

黙示録が書かれたのはAD95年頃、ヨハネにとって目に見える現実は、キリスト者が殺され、沈黙させられていた。それはキリスト教がローマ帝国の国教となるまで続く。その中でヨハネは見えないキリストの支配を見ていた。

小羊の婚礼の日は、キリストと神の民(花嫁)が結ばれる祝いの日である。また、神がサタンを完全に打ち負かす事を示唆する。イスラエルの預言者たちは婚姻を神とイスラエルの民との密接な関係を表現して使っている。新約聖書では、キリストは教会の夫だとエフェソ書5章に記される。

ヨハネは「神の言葉」を通してローマと戦う。彼が迫害の中にある教会に送ったのは武器でなく、神の啓示を記した書簡であった。その幻を通して「ローマと戦え、体は殺しても、魂を殺す事のできない者どもを恐れるな。魂も体も滅ぼすことのできるお方を恐れよ(マタイ書10章)」と諸教会に呼び掛ける。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「桜より田んぼが見たいという君を助手席に乗せ郊外へ向く 白澤真史」


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