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サムエル記下 24章1~25節 [サムエル記]

<ダビデはガドに言った。「大変な苦しみだ。主のみ手にかかって倒れよう。主の慈悲は大きい。人間の手にはかかりたくない。」(14節)>

「なぜ、主の怒りがイスラエルに対してかきたてられたのか。歴代誌21章によく似た個所があります。そこでは、ダビデがサタンの誘惑により人口調査を行ったと記されています。民の数を調べることは、軍の数を調べる事でした。人口調査の目的は増税と軍備増強です。」と、本竜牧師は書き出される。

サムエル記の最終章は、穏やかに結ばれると思っていたら、ダビデの罪とその裁きが記される。「主の怒りが再びイスラエルに対して燃え上がった。主は『イスラエルとユダの人口を数えよ』とダビデを誘われた」と、1節が始まる。主がダビデをそそのかされたという事だろうか。歴代誌上20章は「サタンがイスラエルに対して立ち、イスラエルの人口を数えるようにダビデを誘った」と始まる。

「神とダビデとサタン」これをどう考えたらいいのだろうか。「人が誘惑に会うのは、それぞれ自分の欲に引かれ、誘われるからです。(ヤコブ書1章13節)」とある通り、人間の欲がサタンの誘惑を生むのかもしれない。ダビデはそれに気づき「民を数えたことはダビデの呵責となった。ダビデは主に言った『私は重い罪を犯しました』(10節)」と告白する。

O牧師は「サタンがダビデの欲に働きかけ、罪の行いへと駆り立てたのです。けれど大事なことは、主が全ての事柄の背後におられます。主の赦しなしには何事も起こらないのです。だからこの出来事も主が『良し』とされた事なのです。主は、人が罪の道を歩むのをそのままにされることがあります。それによって人の罪が明らかに現れるようにされる事があるのです。」と、話された。

王がヨアブに人口調査を命じると、ヨアブは「王はなぜこのような事をなされるのですか。(3節)」と、人口調査にこだわる王に疑問を持つ。ダビデ王の言葉の中に彼は、王の高慢、人間的なプライド、あるいは自己満足を感じ取ったのかもしれない。

人口調査の結果報告を受けたダビデは、自分の内に正しくない思いがあった事、それは大きな罪であることを知った。彼は自分の罪を隠すことなく、即座にそれを認め、主に告白し赦しを願った。ダビデの素晴らしさ、誰もが認める偉大さはここなんだと思う。

しかし、裁きは下され、イスラエルの民7万人が疫病で死んでしまう。「そこに、主のための祭壇を築き、焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげた。主はこの国のために祈りにこたえられ、イスラエルに下った疫病はやんだ(25節)」と、サムエル記は終わる。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「かあちゃん見て、と指差す空に何もなくあ、でも空があるかと思う 魚谷真梨子」



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サムエル記下 18章19節~19章1節 [サムエル記]

<ダビデは身を震わせ、城門の上の部屋に上って泣いた。彼は上りながらこう言った。「私の息子アブサロムよ、私の息子よ。私の息子アブサロムよ、私がお前に代わって死ねばよかった。アブサロム、私の息子よ、私の息子よ。」(9章1節)>

「ダビデ軍の勝利とアブサロムの死の報告が、ダビデにもたらされました。使者は、喜びをもってダビデに報告します。ダビデはその知らせを聞くと、身を震わせ城門の上の部屋で嘆き悲しみました。確かに反逆者アウサロムの死はイスラエルの王国にとっては良い知らせです。しかし、アブサロムはダビデの息子でもあるのです。」と、本竜牧師は書き出される。

祭司ツァドクの子アヒマアツは将軍ヨアブに、主が敵の手から王を救われ正しい裁きをされた事を自分が王に報告したいと申し出た。ヨアブはアブサロムの死を王に知らせるのは過酷であることを知っていたので、時をおいて伝えるようにと命じた。代わりに異邦人であるクシュ(エチオピア)人に自分が見たことを王に伝えるようにと命じた。外国人ならダビデの怒りをかうことはないと判断したからだ。

しかし、アヒマアツは更に懇願しヨアブはそれを許した。彼は途中クシュ人を追い越し、ダビデのもとへと急いだ。伝令が来たという見張りの知らせを受けてダビデは、それがアヒマアツであることを知ると、良い知らせであると確信した。彼はダビデに会うと「王に平和」と叫び地にひれ伏した。彼はアブサロムの死には触れず、戦勝を報告した。ダビデからアブサロムの安否を問われると、あいまいな返事をした。

続いて到着したクシュ人はダビテからアブサロムの安否を問われると「主君、王の敵、あなたに危害を加えようと逆らって立った者はことごとく、あの若者のようになりますように。」と答えた。

その知らせにダビデは「身を震わせ」て、体を激しく揺れ動かして泣いた。そして「私がお前に代わって死ねばよかった」とまで嘆いた。O牧師は「ここに愛する父の悲しみが描かれています。アブサロムは反逆児であり、滅ぼされて当然の息子でした。その息子のために悲嘆にくれ、自分が身代わりになってやりたかったと嘆くのです。これが私たちの父なる神の姿であります」と話された。

ダビデがアブサロムを悼んで泣いているとの知らせは、ヨアブに届き全ての兵士たちも知る事となり、その日の勝利は喪に変わった。ヨアブは王のもとに行き、王のために命をかけて戦ってくれた兵士たちの労に報いるという使命が王にはあると説いた。そして「この日アブサロムが生きていて、我々全員が死んでいたら、あなたの目に正しいと映ったのでしょうか」と言った。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「ぎしぎしと缶切りに缶ひらくとき国境線を越える軍隊 千葉優作」


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サムエル記下 12章15~25節 [サムエル記]

<ダビデは妻バト・シェバを慰め、彼女の所に行って床を共にした。バト・シェバは男の子を産み、ダビデはその子をソロモンと名付けた。主はその子を愛され、預言者ナタンを通してその事を示されたので、主のゆえにその子をエディドヤ(主に愛された者)とも名付けた。 (24.25節)>

「ダビデは弱ってゆく子供に対して、断食と祈りをもって命を願いました。しかし祈りは届かず、子供は死にました。このことは、ダビデ王家が永遠に続くという神との約束が絶たれてもおかしくない出来事でした。」と、本竜牧師は書き出される。

「主はウリヤの妻が産んだダビデの子を打たれ、その子は弱っていった。(15節)」 ダビデはみ言葉通りの事が現実となったとすぐに分かった。ダビデは断食して引きこもり、一晩中地にひれ伏して夜を過ごした。子どもは自分の罪のせいで苦しみ、その母もまた苦しんでいる。ダビデは自分を責めた。ひれ伏したまま主に祈り続けるダビデ、彼を起き上がらせようとしても、彼自身がそれを拒んだ。

七日目にその子は死んだ。その事を知ると王はどうなる事かと思うと、家臣たちは伝えることが恐ろしくて言えなかった。家臣たちが囁き合っている様子にダビデが「あの子は死んだのか」と言うと彼らは「お亡くなりになりました」と、答えた。するとダビデは「起き上がり、身を洗って香油を塗り、衣を替え、主の家に行って礼拝した。王宮に戻ると、命じて食べ物を用意させ、食事した。(20節)」

家臣たちが「どうされたのですか」と問うと、「彼は言った。『子がまだ生きている間は、主が私を憐れみ、子を生かして下さるかもしれないと思ったからこそ、断食して泣いたのだ。だが死んでしまった。断食した所で何になろう。あの子を呼び寄せようか。私はいずれあの子の所に行く。しかし、あの子が私のもとに帰って来ることはない』(22.23節)」

S牧師は「ダビデは子供を救ってほしくて、もしかしたら主は罪深い自分を憐れんでわが子を助けて下さるかもしれないと、涙を流し断食し、地に伏して必死に祈りました。 しかし、これは自分が蒔いた種であって、報いを受けるのが当然だとも思っていたのです。彼は『神を侮る罪』を犯してこの報いを受けていますので、同じ間違いを犯してはならないのです。

ですから神を侮り軽んじることなく、神のなさる事を信じ抜こうと決めていたのではないでしょうか。この子の生死は神のご判断に委ねようと。神が命の主権者です。ダビデも必死に祈りながらも『あなたの御心ならば』と祈っていたのだと思います。」と話された。

Jさんは次女が大学に合格し「やっぱり、祈り続けて良かったわ」と話していた。彼女は祈りを取り違えている。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「これでいいと思ひ切るときバスを待つわたしにバスは正しく来たり  小林真代」


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サムエル記下 12章1~15節 [サムエル記]

<ダビデはナタンに言った。「わたしは主に罪を犯した。」 ナタンはダビデに言った。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。しかし、このようなことをして主が甚だしく軽んじたのだから、生まれてくる子は必ず死ぬ。(13節)>

「誰も気づかないとダビデは思っていました。主が見ている事を忘れ、預言者ナタンが語る、豊かな男が貧しい男から小羊を奪い客に振舞う「たとえ話」も他人事としてしか聞かず、豊かな男の行為を怒ります。」と、本竜牧師は書き出される。

11章の最後は「ダビデのした事は主の御心に適わなかった」と結ばれ、12章は「主はナタンをダビデのもとに遣わされた。」と始まる。7章で預言者ナタンは神の永遠の契約をダビデに告げ、祝福に満ちた言葉を語り伝えていた。しかし、今度は厳しい諭しと裁きの言葉を語る。語るべき言葉が与えられた時、臆せずに真実を語るのは預言者の大切な役割である。

ナタンは王ダビデを前にして、神に立ち返るようにと罪を自覚させようとした。そのために語ったのはたとえ話「豊かな男と貧しい男」の話であった。O牧師は「たとえ話の効能は、語り手と聞き手が、事実をみ言葉によって一緒に照らされながら、罪に気付いていくところに信仰を共にする働きがあると思います。ナタンの厳しい言葉の背後には、立ち返りを待つ神の愛が知らされます。」と話された。

ダビデはナタンのたとえ話から「豊かな男はあなただ」と決定的に指摘され「わたしは主に罪を犯した」と告白する。

O牧師は「このたとえ話が示すダビデの罪とはどれほどの罪だったのでしょうか。『貧しい男』は誰でしょうか。もちろんダビデのバト・シェバへの歪んだ欲望ですが、それだけではないようです。貧しい男がどれほどこの小羊を愛していたかが語られます。『小羊を養い』という語は、普通は家畜に用いられる言葉ではありません。けれど、豊かな男は『持っていた』つまり、所有物としてしかみていません。豊かな男は貧しい男が大切にしていた『愛』を、物同然に扱ったのでした。」と、話された。

貧しい男ウリヤは、バト・シェバを奪われ、自分の命も奪われた。将軍ヨアブはダビデの企みの片棒を担がされ罪に加担した。バト・シェバは王に抗えず、従いウリヤとの結婚生活は破綻する。豊かな男ダビデが、関わる人々の愛を物のように扱った結果であった。たとえ話を通してその事が告げられる。

「その事に気付いたダビデは罪の赦しを神に乞います。王の権力による驕りから、主への信仰に立ち返った事、それこそが悔い改めなのです。」と本竜牧師は結ばれる。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「バス停に待ちゐるバスはこの街の顔してのっそり定刻に出る  三好くに子」


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サムエル記下 11章1~17節 [サムエル記]

<ダビデはウリヤに言った。「今日もここにとどまるがよい。明日お前を送り出すとしよう」ウリヤはその日と次の日、エルサレムにとどまった。(12節)>

「アンモン討伐の時、ダビデは自ら戦場には行かずエルサレムにとどまっていました。そしてウリヤの妻バト・シェバに目を留め、王の権力を用いて出征中の部下の妻と姦淫を犯したのです。」と、本竜牧師は書き出される。

8.9.10章と戦闘に明け暮れ、絶対的な勝利を成して行くダビデ王が記される。そして11章に入ると、ダビデはアンモン人との戦いをヨアブに任せ、王宮にとどまっていた。ある日の夕暮れ、午睡から起きて屋上を散歩していた時、1人の女性が、水を浴びているのを目に止めた。彼は人をやって彼女がヘト人ウリアの妻であることを知った。その上で、彼女を召しいれた。

その後、彼女は妊娠し、ダビデにその事実を知らせた。その事を知るとダビデはヨアブにウリヤを戦場から送り返すように命じた。水浴するバト・シェバを見て自分を抑えられず王の権威をかさに彼女を召しいれた罪、その罪の行為を覆い隠そうと、ダビデは罪を重ねてしまう。彼は策略によって、ウリヤが生まれた子の父親に見えるようにしようとした。

帰って来たウリヤから戦況報告を受けると、ダビデはウリヤに「家に帰って足を洗うようにと」と、ねぎらいの言葉をかけた。しかし、ウリヤは妻の待つ家には帰らず、主君の家臣と共に夜を過ごした。その事を知るとダビデはウリヤに、自分の好意を受けるようにと改めて勧めた。彼はウリヤに自らの行為を謝罪する気持ちはなく、ひたすら自分の罪が暴かれないようにしなければという思いに満ちていた。

しかし、ウリヤは主君もその家臣も野営しているのに、自分だけが家に帰り、妻と床を共にしたりできるでしょうか「あなたは確かに生きておられます。私にはそのようなことは出来ません」と答えた。ダビデはウリヤと食事を共にして彼を酔わせ、家に帰らせようと謀ったが、それも失敗に終わった。

自分の奸計が失敗したと知ると、今度は彼を最も危険な戦場に送り戦死させることを企てた。その計画を実行するために、ダビデはヨアブにあてて書状を書き、それをウリヤに預けた。ウリヤはそれを戦場のヨアブのもとに急ぎ届けた。ヨアブは王の手紙から、王の考えを理解し、その願いを実現すべく、最も危険と思われる戦場にウリヤを送った。

「町の者たちは出撃してヨアブの軍と戦い、ダビデの家臣と兵士から戦死者が出た。ヘト人ウリヤも死んだ。(17節)」

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「姿見に三人家族で入り込み息子の丈を確かめてみる  竹田伊波礼」


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