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ヨブ記 14章1~14節 [ヨブ記]

<人は死んでしまえば、もう生きなくてもよいのです。苦役のようなわたしの人生ですから、交替の時が来るのをわたしは待ち望んでいます。(14節)>

「ヨブは嘆きます。人生は短く、苦しみは絶えない。花のようにしおれる。人は罪の中に生まれ、その運命もすでに決められている。木はたとえ切り倒されても、再び新芽を拭き、再生の希望があるのに、人間はその木よりも希望無き存在ではないか、と。」と宮本牧師は書きだされる。

ヨブは自分の苦しみを神に訴える。その訴えに神がいつ答えて下さるのか。「人生は短く苦しみは絶えない。花のように咲き出てはしおれ・・・長らえることはない。(1.2節)」と。彼の思いの中には、自分の人生がこの苦しみと虚しさの中で終わってしまうのかという恐れがあった。「人生はあなたが定められた通り」と、神が自分を断罪したまま終わりの時を与えるのだろうかと嘆いた。

しかし「木には希望がある」と、希望の芽を見出そうとする。木は切り株だけになってしまってもそこから新芽を吹き、若枝の絶えることはないと。O牧師は「『新芽を吹き(ハーラフ)』は『変える、刷新する』という言葉で、14節の『交替の時(ハーラフ)』も同じ言葉です。イザヤ書40章の『新たな力を得(ハーラフ)』も同じ言葉です。状況の逆転を意味する言葉として用いられています。」と説明された。

草木は、枯れ果て「塵に返る(8節)」とも、それで無になるわけではなく「水気にあえば、また目を吹き、苗木のように枝を張る(9節)」のである。「だが、人間は死んで横たわる。息絶えれば、人はどこに行ってしまうのか。(10節)」ヨブでなくても身につまされる言葉である。「どうか、わたしを陰府に隠して下さい。あなたの怒りが止む時まで、わたしを覆い隠して下さい(13節)」と願う。

13節では続けて「しかし、時を定めて下さい。私を思い起こす時を」と、私が塵に返る前に、無に帰される前に、主が私の事を思い出して下さるように、私を目に止めて下さるようにと願い出る。ヨブは自分の人生は無意味でなかった、短命で不幸というだけで終わりたくなかった。むしろ最後に神の「叱り」を頂く事が出来たと思えるように「その時を定めて下さい」と願った。

O牧師は「このヨブの願いは『イエスよ、あなたの御国においでになるときには、私を思い出して下さい』という、あの強盗の願いに繋がります。その時イエスは『はっきり言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる』と約束されました。

「私たちもそのままでは罪に定められるはかない運命です。そんな私たちの罪を『交替』して下さる方、主イエスは、十字架で死に、私たちを罪から解放して、新たな命を与えて下さったのです。」と、宮本牧師は結ばれる。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「戦争の実況ニュース寒き朝すこし間を取り血圧計る  浅野次子」


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