SSブログ
ローマの信徒への手紙 ブログトップ
前の5件 | -

ローマの信徒への手紙  6章15~23節 [ローマの信徒への手紙]

<あなた方は、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行きつくところは、永遠の命です。(22節)>

「パウロはしばしば、罪のある古い自分とキリストにある新しい命について語ります。洗礼を受け主イエスを信じる者は、主が十字架上で死に渡された時、罪ある古い生活も主と共に死にました。そして主と共に死ぬ者は、蘇って主と共に生きるのです。それは永遠の命を得る事を意味します。」と、K牧師は受難節第4主日礼拝の説教を始められた。

1節での言葉が15節に繰り返される。「律法の下ではなく、恵みの下にいるのだから、罪を犯してもよい…」と。パウロはここでもユダヤ人たちからの批判を用いて、それを否定する。神の掟である律法を守り善行を行ってこそ救いを得るが、それを守れない者は救われない。その状態が「律法の下にいる」という事である。しかし、パウロは「今はあなた方は恵みの下」にあるのだと人々に語る。

主イエスの十字架による罪の赦しによって救われているのだと。それを聞いたユダヤ人たちは、だったらよい行いをしようと努力する必要はない。罪を犯してもいいのかと批判していた。

「しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。(17.18節)」神は赦して下さるんだから罪を犯していいという思いを与えて、人を罪の中にとどまらせるなどというようなことは決してない、「義に仕える」聖なる者になるのだとパウロは語った。

6章でパウロは繰り返しユダヤ人たちの批判を否定する。K牧師は「聖書が語っているイエス・キリストの福音は、神がその恵みによって独り子イエスを遣わされ、その十字架の死によって私たちの罪を赦して下さっているという事です。罪をゆるされ、救われている事への感謝と喜びの中で私たちは神の御心に従って歩みつつ、なお自分にまつわりつく罪と戦っているのです。」と、説かれた。

「知らないのですか、あなた方は誰かに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる、つまりあなた方は罪に仕える奴隷となって死に至るか。神に従順に仕える奴隷となって義に至るか。どちらかなのです。(16節)」 他の道はないのですと、K牧師は言われた。

奴隷という言葉に馴染めないが。神との関係で「あなたは神の奴隷です。それ以外はないのだ」と、K牧師からパウロから断言される。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「わたくしに置いてゆかれた傘幾本うすき記憶の中を生きゆけ 岡村圭子」


コメント(0) 
共通テーマ:

ローマの信徒への手紙  5章12~21節 [ローマの信徒への手紙]

<こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、私たちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。(21節)>

「大地震によって被災された、多くの人の状況が知らされます。そのような中、私たちはパウロによって『信仰によって義とされた私たちは、神との平和を保つことができる』と、このローマ書から、励ましを頂いています。そればかりではなく、艱難さえも喜ぶ事が出来るというのです。どういう事でしょうか。」と、K牧師は話し始められた。

「アダムとキリスト」と題された今日の個所は「このようなわけで」と始まる。全ての人は罪を持っており、その罪のために神の怒りを受け滅びるしかない者であったが、神は独り子を通して救われる道を用意して下さった。その神の恵みがどれほど大きいものなのかをパウロは語る。

「食べてはならない」と命じられていた実を食べたアダムによって、罪が世界に入り、罪によって死が入り、死が全人類に広がった。アダムは全人類の代表であり、彼が罪を犯したという事は、「全人類が罪を犯したことになる」。これが「原罪」である。15~19節には5回、「一人の罪によって・・・」という表現が記される。アダムの罪が、私たち一人一人の罪に繋がっていたのだとパウロは記す。

「しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。(15節)」 人類の全てに広がった罪に怯える人々を神はそのままになさらず憐まれた。アダムにあって全人類が罪に陥ったのと同じように、父なる神を主と仰ぐ人々が、救いに至るように独り子イエス・キリストを世に送られた。

「この賜物は、罪を犯した一人(アダム)によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みと賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。(15節)」

光が差し込んでくれば、闇が追放されるように、どんな死に支配されようが、神の救いを信じ、その独り子イエス・キリストの十字架を見上げれば闇は消え去る。なぜなら、キリストは三日目に死人の中から蘇り、今も生きておられるのだと、パウロは救いの素晴らしさを説く。しかし、家族を突然失った被災者の人に自分はこの言葉で慰める力なく、共に涙を流すしかない。

アダムが犯した罪で、全人類が罪に定められたが、主イエスが十字架で成し遂げられた救いの御業は、アダムの犯した罪ばかりでなく、私たちが知らずに犯し続ける罪からも、救い出して下さる「恵みはなお一層満ち溢れる」とパウロは説く。過去の罪、今の罪、未来に犯す罪さえも帳消しにされると。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「十五夜の月のまわりのむらくものちょうどよきなりきみのあいづち 星亜衣子」


コメント(0) 
共通テーマ:

ローマの信徒への手紙  5章1~11節 [ローマの信徒への手紙]

<私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で今の信仰によって導き入れられ、神の栄光に与る希望を誇りにしています。(1.2節)>

「パウロは4章で、主イエスを信じるとき、私たちの罪が赦されて義と認められると語ってきました。神との間に『平和』がないのは、神から離れてしまった人の姿です。けれども、信仰によって義とされその待ち望んでいた『平和』を得る事が出来るようになりました。それが、新しい生活なのだとパウロは述べていきます。」と、K牧師は話し始められた。

今日の個所には何度も、義とされる前の私たちの状態が記される。「不信心な者(6節)」「罪人(8節)」「敵(10節)」 として。それらは義とされて、十字架の主イエスがその荷を負われて死なれたのになお繰り返す私たちの弱さである。それで、自分の中にある罪、弱さ、醜さから救って下さいと願い求め、隣人を愛し、教会に奉仕し、自分の力で、知恵で何とか安心を得たいと考えてしまう。 

しかし、パウロは「義」とされることですでに「平和」を得ているのだと語る。「平和」は、自分の努力で得られる物でなく、神の側から与えられるものであると。たとえば、教会内で誰かが自分の正義を主張しても、そこから「平和」は生まれず、かえって衝突や不和が生じてしまう。平和は完全な神の側からの赦しの宣言を受ける事によって、初めて平和を受け取ることができるのだと、2節は説く。

「神の栄光に与る希望を誇り(2節)」と記し次に、「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。・・・苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望生むという事を。希望は私たちを欺く事がありません。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです(3.4.5節)」と続く。

主の祈りでは「我らを試みに遭わせず」と祈る。痛い目には遭いたくないが、そういう道を歩まなければ真の信仰に到達できないのだろうかとも思うが、神の愛が注がれているから大丈夫らしい。

K牧師は「神の愛の心が、聖霊の働きによってすでに私の心と一つになっているのです。聖餐式においてキリストの血潮を頂き、キリストの御体を頂き、私の中に注がれている神の愛を確認するのです。神はその自らの義しさゆえに、罪を、不義をそのままにしておくことができず、その結果として人は死を身に受ける事になったのです。」と話された。

「敵であった時でさえ、御子の死によって神と和解させて頂いたのであれば、和解させて頂いた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。(10節)」

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「かつお菜を見つけてかごに入れるとき博多ですかと知らない人に 宮脇泉」


コメント(0) 
共通テーマ:

ローマの信徒への手紙  4章13~25節 [ローマの信徒への手紙]

<神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。(13節)>

「私たちが救われるのは、律法によってでしょうか、信仰でしょうか。良い行いによってでしょうか、それとも、天地の造り主神への信仰でしょうか。パウロは『律法に基づく行為こそ救いの要件だ』として、譲らないユダヤ人指導者たちに迫ります。」と、K牧師は話し出された。

律法を行うだけでは、神の怒りを招くのだとパウロが説くのは、人は律法を守る自分の正しさに固執するあまり、他者を傷つけ、争うからである。他方、律法のない所には違反もなく、争いも生じない。そして、律法ではなく信仰によってのみ真の平和が訪れるのだと語る。

「実に律法は怒りを招くものであり、律法のない所には違反もありません。従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。恵みによってアブラハムの全ての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束に与れるのです。彼は私たち全ての父です(14~16節)」

しかし、創世記にみるアブラハムの信仰は確固たるものではなかった。神がアブラハムに、サラによってあなたに男の子を与えようと言われた時、「アブラハムはひれ伏した。しかし、笑って、ひそかに言った。『百歳の男に子どもが生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が生まれるだろうか』(17章17節)」 そして「女奴隷によって与えられたイシュマエルが御前に生き永らえますように。」と神に答えた。

信じ切るのは難しい。それでも神は高齢の妻を通してイサクを授けられる。全ての事はアブラハムの努力ではなく、神の恵みでなされる。マルタもラザロの復活を信じなかったし、アブラハムもイサクが生まれるまでは信じる事が出来なかった。しかし、神は信じ切る事のできない者を導かれる。十字架の復活の出来事も、理性では信じる事が出来ない私たちを信じる者にして下さった。

アブラハムは、「神は約束された事を実現される力も、お持ちの方だと、確信していたのです。だからまた、それが彼の義と認められたわけです。(21.22節)」 

S牧師は「信仰によって義とされたから、私たちは神に命じられる律法を生きる事を大事にするのです。律法が人を救うのではありませんが、救われた者には律法が生き方の指針となるのです。」と話された。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「ふくふくと木の実のように集いたり冬晴れの枝えだに雀ら 田宮智美」


コメント(0) 
共通テーマ:

ローマの信徒への手紙  4章1~12節 [ローマの信徒への手紙]

<聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。(3節)>

主日礼拝の説教は、大地震からの救いを求める祈りから始まった。「パウロは律法を排除するのではない。律法は神が人に望まれる事を教えます。人々が信仰よりも律法を守ることを重要視するようになることが問題なのだとパウロは説いていきます。」とK牧師は話し始められた。

ユダヤ人にとってアブラハムは特別な存在であった。彼はユダヤ民族全員の父祖であり、神は彼の前に現れ、彼に関わる約束を与えられている(創世記12~25章)。神に義と認められた後、その契約の証印としてアブラハムは割礼を受ける。それ以来、彼の子孫は割礼という習慣に従ってきた。しかし、彼は神に救われるのはその行いではなく、主を信じる信仰によってであることを知っていた。

「主の言葉が幻の中でアブラムに望んだ。『恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう』(創世記15章)」。この主の御声にアブラハムは、「私に何を下さるのでしょうか、私には子どもがありませんのに・・・」と答える。そして今日の個所の4章1節に繋がり、「私たちの先祖アブラハムは何を得たのか」とパウロはローマの信徒たちに問いかける。

説教はローマの信徒への手紙を読みながら、創世記へと引き戻されてゆく。年老いて子どものいないアブラハムに「あなたから生まれる者が後を継ぐ。」と主の言葉。主は彼を外に連れ出して、空を見上げさせると、あなたの子孫は数えられないこの星の数ほどになると言われる。「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。(創世記15章6節)」

アブラハムが神の御前で義とされたのは、彼が神の律法に従って生きたからではないことが、改めて確認される。そもそも十戒もまだ与えられていないし、律法も確立していなかったんではないか。

O牧師は「『あなたは何を私に下さるのか』と言うアブラハムに神は、子孫を・・・と約束されたのです。それは考えられない事でしたが、彼は神を信じます。パウロによればこの信仰がアブラハムと神との関係の基本にあります。神はアブラハムの反抗心を赦し、その罪を問われませんでした。」と話された。

割礼については、創世記17章に記される。割礼に基づいてアブラハムの子孫は異邦人から区別する事が出来た。しかし、ここでパウロはアブラハムの事を「その信仰に基づいて神が義と見なされた」その瞬間に注目する。その出来事は彼が割礼を受ける前であったと。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「種苗の隣で犬は売られおり値段のついた命と目が合う 有本紀子」


コメント(0) 
共通テーマ:
前の5件 | - ローマの信徒への手紙 ブログトップ