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雅歌 7章10節~8章4節 [雅歌]

<朝になったらぶどう畑に急ぎ、見ましょう、ぶどうの花は咲いたか、花盛りか。ざくろのつぼみも開いたか。それから、あなたにわたしの愛をささげます。(13節)>

「雅歌は、若い男女の恋愛抒情詩が集められたものですから、その中心は人間の感情です。ここも例外ではありません。それは『わたしは恋しい人のもの、あの人は私を求めている。』という情感溢れる言葉からわかります。」と、木村牧師は書きだされる。 

おとめは、若者から「あなたは何と美しく楽しいおとめか。(7節)」と言われ、「私は恋しい人のもの、あの人は私を求めている(11節)」と応える。彼女は彼にとって自分は関心の的であると少し上から目線で告白する。彼が必ず自分を守ってくれる、その確信の中で彼女は平安でいる事が出来た。

そして彼女は、野に出てコフェル(彼女の実家のある村)で、夜を過ごしましょう。華やかな町ではなく、自分にとって人生の原点でもある実家に戻り、そこで愛を楽しみましょうと彼を誘いかける。そこで、早朝、野に出て一緒にぶどう畑やざくろの花を見ましょうと、誘った。そこでは、薬草として使われ受胎効果があると言われる茄子が実り香っていると。

8章1~3節についてO牧師は「中東では、今もそうかもしれませんが、男女が公に人々の前で口づけを交わす事は出来ません。それが許されるのは家族の間に限られています。また外では異性と一緒にいる事が出来るのは、唯一血の繋がった兄弟だけだったのです。ですから、彼女はここであなたが兄弟であったら、口づけしても誰も咎めたりしないだろうと言うのです」と話された。

彼女は若者に例えられる神ともっと親密になりたいと願っていた。教会にいる時は大声で賛美し祈るものの、ノンクリスチャンばかりの家庭や職場では祈ることをためらっていませんかと、O牧師は尋ねられた。自分の周りは、天地の造り主である神の事、その独り子主イエスの事を知識としてはともかく、何もわかっていない人ばかり。そんな中でも彼女なら主イエスの事を伝え続ける事だろう。

彼女は、母の家で、ぶどう酒とざくろの飲み物を差し上げますと若者を誘う。神である彼が彼女を誘うのではなく。「確かに、私たちは救いに導かれ、一方的な恵みを神から頂いています。けれど、同時に主は言われています。『あなたがたは行って、全ての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊のみ名によって洗礼を授け、あなた方に命じておいた事を全て守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。(マタイ書28章)』と、O牧師は説かれる。

私の行く所に、いつも主イエスがおられるのである。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「『六十年前は貴男が好きでした』我にいう人直売所の中  別府紘」


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雅歌 5章2節~6章3節 [雅歌]

<恋しい人は透き間から手を差し伸べ、わたしの胸は高鳴りました。(4節)>

「ここでもおとめの夢の中の事が描かれ、それは『恋しい人』との関係における喜びと不安という内面を映し出しています。彼女は夜中家を訪ねて来た彼に胸を高鳴らせつつ、戸を開く事が出来ませんでした。ここに出てくる『手』『透き間』『開く』という動詞は夫々人間の性を表しています。」と、木村牧師は書きだされる。 

「眠っていても、心は目覚めていた」おとめの耳に若者の声が届き、戸が叩かれた。「私の妹、恋人よ、開けておくれ。私の鳩、清らかなおとめよ。私の頭は露に、頭は夜の霧に濡れてしまった。」と彼は歌う。主が戸の外に立って叩いておられる。主に応答し立ち上がり、戸を開けねばならない。けれど、足を洗って着替えてしまった姿でと、おとめは躊躇い恐れる。

戸口から手を差し入れて促される主に応えて、彼女は戸を開くために起き上がる。「ミラルを滴らせ」という「ミラル」は葬りを表し、自分の思いを葬り主に応える姿だと、K牧師は説かれた。しかし、戸を開いたが、恋人は去ってしまい「呼び求めても、答えてくれません。」 祈っても、祈っても願いは叶わず、主が自分を見放されたのではないかと、途方に暮れる時がある。

途方に暮れる彼女を見つけた「夜警」とは、目を覚ましている信仰者。すなわち教会の兄弟姉妹という事になる。まだはっきりと目覚めていない彼女の目を覚まさせるのは、愛のある激しい叱責かもしれない。抽象的な事だが、「打たれて傷を負い、衣を剥がされて」初めて神の愛に気付く。

「エルサレムのおとめたちよ、誓って下さい。もし私の恋しい人を見かけたら、私が恋の病にかかっている事を、その人に伝えると。」 教会員のAさんは、忙しいからと5.6年前から礼拝に来ておられない。しかし先日、子どもの病気回復のために祈って下さいと牧師に電話があり、それに応えて皆で祈った。Aさんはまだ礼拝には来られないが、教会の兄弟姉妹に神に伝えて下さいと言われる。

礼拝を守る事が出来ず、教会とは疎遠になっていた状態にあっても、Aさんは神こそが子どもの病気を治してくれると信じている。彼女の姿に、礼拝が何より大事、礼拝優先によって信仰が深まると半ば思っていた自分の信仰の危うさが浮かび上がる。

自分は半分眠ったような状態で「神が見えない」と叫んでいるのだろう。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「繰り返しお詫びの言葉流されてホームに人が貯められていく 谷活恵」


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雅歌 2章8~17節 [雅歌]

<恋しいあの人はわたしのもの、わたしはあの人のもの、ゆりの中で群れを飼っている人のもの。(16節)>

「エステル記同様、この雅歌にも『神』や『主』という言葉は出て来ません。この書は若い男女の恋愛抒情詩と言われています。きょうの箇所には、愛を若者に求めるおとめの詩が続きます。おとめは『恋しいあの人はわたしのもの、わたしはあの人のものと』言います。」と、木村牧師は書きだされる。 

雅歌は男女の恋愛を歌い上げるため、扱いを巡って古くから議論が絶えなかった。ユダヤ教は「イスラエル民族と神の関係」として、キリスト教は比喩的に解釈して「キリストと教会」を歌う詩であるとした。その他諸説がある。ソロモンの雅歌として作られたとされる。その中身は、花嫁と花婿の詩、娘たちの合唱などが組み合わされる。と解説されている。

「私はシャロンのばら、野のゆり」と歌いだすおとめに若者が「あなたはおとめの中でひときわ美しい」とほめ「他のおとめたちはここではばらを引き立てる茨だ」と応える。その歌声におとめは、「あなたは森の中に立つりんごの木です」と応える。緑の中に赤い実をつけるりんごの木、他の男性は木陰を作る雑木だと。宴の家は愛の家、愛の旗は満たされた愛のしるし。

そして、おとめは若者に愛の誓いを求める。ぶどう菓子やりんご、そして抱擁で恋の病を癒してほしいと訴え、さらに野を駆けるかもしかと雌鹿は恋の使いだから、彼らにかけて愛を誓ってほしいと訴える。「恋しい人の声が聞こえる。」 たとえ遠くにいようとも、その声はかもしかや雌鹿のように、山を越え、丘を飛んでくる。彼はもう戸口に立って、格子窓からのぞいていますと歌った。

おとめは更に「恋人よ、美しい人よ。さあ、立って出ておいで・・・」と彼の代りに綿々と甘い言葉を並べ立てて、恋人のやさしさ、自分への愛の深さを歌う。彼は私のもの、私は彼のもの、恋は私たち二人のものと、男女の愛をおおらかに歌いあげる。

「神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ』(創世記1章)」

全文どう読み取るのか、わからないので、S牧師のお話を頂くことになった。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「音のせぬ靴ばかり履き老い深しヒールの靴を捨てる秋の日 西山千鶴子」


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