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フィリピの信徒への手紙 ブログトップ

フィリピの信徒への手紙  2章1~11節 [フィリピの信徒への手紙]

<かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものになられました。人間の姿で現れ、遜って、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。(7.8節)」>

祈祷会は、日本キリスト教団出版局発行の「信仰生活ガイド『使徒信条』」を学ぶ。今日はその第10日<「使徒信条 10 「聖との交わり」 ―聖なる神との交わりの中で、聖なる者とされるーと題された、日本基督教団大森めぐみ教会 関川泰寛牧師の記事を読んだ。

「教会も様々な人間の集団です。教会員同士の誤解や行き違い、争いと無縁ではありません。互いに憎しみあったり、時には倫理的な問題を孕むような人間関係が生じる事もあります。教会の交わりとは何かという根本から考えてみる事にしましょう。」と関川牧師は書きだされる。

教会の交わりで大事な事、その① 「パーソナルな関係を築く」 教会員は性別、年齢、職業、出自、財産、社会的地位など、ほんとに様々である。その人々が対等(パーソナル)に交わりを持つのはとても難しい。どうしても力ある者が優位に立ってしまう。

それでも、互いに人間そのものへの深い関心と尊敬を持ち、主に愛されている者同士が、相手に自分自身を与える姿勢を持った交わりをすることが大切である。また、誰かを許せなくなった時、自分自身の胸に手を当てて「私自身も、どれほど自分の心を開き、相手を受け入れる準備があったかを反省し、黙想してみる事が大切です」と関川牧師は記されている。

その②は「聖徒の交わりを信ず」 交わりの第一は、信仰ゆえに集められた、教会員相互の交わり。第二はそれだけではなく、生ける神ご自身との交わりというキリスト者の信仰生活にとって最も大切な事がある。「イスラエルの民は、初めから道徳的に正しかったから聖とされたのではなく、聖なる神が働きかけ、聖なるものと触れる事によって、聖とさせられたのです。」と記される。

その③は「聖なるものとの交わりの場」 礼拝の本質は、「神が私たちに奉仕して下さったという驚くべき出来事にあります。神が己を低くして、御子の形をとり、僕のように自己卑下して下さったのです。この事によって神との交わりが可能にされているのです。」礼拝は神の奉仕だと言われる。

その④は「教会の交わりに生きる」 教会の交わりは「人間同士の親睦や友誼ではなく、神ご自身との交わりに根拠づけられたものです」とフィリピ書2章を関川牧師はあげられる。そして「神がご自分を無にして、この私に出会って下さった。それを思う時に、私も隣人へと自分を差し出す事が始まります。・・祈り、隣人を愛し、その苦しみを神へと執り成す生活へと押し出されます。」と結ばれる。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「あきかぜに木の葉ちりゆく日の暮れのすべり台にまたおさながのぼる 垣野俊一郎」


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フィリピの信徒への手紙  3章7節~4章1節 [フィリピの信徒への手紙]

<しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのをわたしたちは待っています。(20節)>

フィリピは東マケドニアに存在した古代都市。紀元前356年に創建され、ヨーロッパとアジアを結ぶ道として発展したが、紀元前42年の戦いによってローマ帝国の支配下となった。

「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみに与って、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。(3節)」と、パウロは告白する。その時彼は牢獄にあり涙ながらにフィリピの信徒たちに手紙を書き綴った。涙は牢獄にある事を嘆いてではなく「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多い」ことを悲しんでの事であった。

5節からパウロは自分の出自を述べる。ベニヤミン族、ヘブライ人の中のヘブライ人のファリサイ派。律法に関しては完璧。その事をもってキリスト者を迫害する者であったと。パウロはユダヤ人エリートの地位にあった。「しかし、私にとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになった。・・・キリストのゆえに、わたしは全てを失いましたが、それらを塵芥と見なしています(7節)」と綴る。

だが、今パウロは投獄され、主イエスのゆえに自由まで失っている。しかし、その場であるからこそ、パウロはキリストを知った、イエス・キリストの力を知った、蘇られたイエス・キリストの命を得る事が出来たと言うのであった。そして「キリストは、万物を支配下に置く事さえ出来る力によって、私たちの卑しい体を、ご自分の栄光ある体と同じ形に変えて下さるのです。(21節)」と、続ける。

復活の力を知る事が出来た。死者からの復活と言う希望を願い求めるようになったと告白する。K牧師は「本当の救いは、苦しみや悲しみが無くなるというものでなく、そのような中にあってもイエス・キリストの復活の命に私は結び付けられ支えられている事を確信できる事なのです。」と話された。

誰が見ても惨めで不運な自身の姿をもってパウロは、フィリピの教会の人々を励ます。彼の弱弱しい姿から、イエス・キリストの十字架の恵みを喜んでいる姿を見てほしいと。「兄弟たち、皆一緒に私に倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、私たちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい(17節)」 皆一緒に許されて、愛されている喜びを知る者なのだからと。

主のみ名を広め、投獄されたパウロからの手紙は礼拝の場で人々に読み上げられた。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「きっちりと工程表を作成す在職中の顔して夫は 渡部ハル」


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フィリピの信徒への手紙  2章1~18節 [フィリピの信徒への手紙]

<キリストは神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執しようと思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものとなられました。人間の姿で現れ、遜って、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。(6~8節)>

祈祷会は、日本キリスト教団出版局発行の「信仰生活ガイド『使徒信条』」を学ぶ。今日はその第4日<「使徒信条 4,十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり」 -死の闇にも輝くインマヌエルの光>と題された、日本基督教団東中野教会 浦上充牧師の記事を読んだ。

「イエス様は神の子でありながらも、人としてこの世に生まれ、地上を生き、友なき者の友となりました。そして愛する弟子に裏切られ、十字架の苦しみを受けて死なれたのです。これほど悲惨な最後はありません。しかし、聖書は、ここに神の究極の愛が示されているのだと語ります。」と、浦上牧師は書きだされる。

主イエスは私たちのために「神に呪われた者」となり、神の裁きの極限まで耐え忍ばれた。本来あの十字架に架からなければならなかったのは私たちであった。パウロは、罪が支払う報酬は死であると語っている。この罪のための苦しみは私たちが負うべきものであった。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになるのですか」という主イエスの十字架の叫びは、私たちのものであった。

日本基督教会、信仰問答問42「キリストの十字架の死は、あなたに、どんな関りがありますか」 答「キリストを信じる事によって、罪の悔い改めとゆるしとを与えられ、古い私はその邪悪な情欲とともに十字架につけられ、葬られて、今や私は復活のキリストのうちに生きる者とされています。」

聖書通読を始めたばかりだが、出エジプト後半から神の厳しさを実感する。レビ記、民数記、申命記と読み進むうち、全てを神のご命令通り行う事が出来る者がいるのだろうか。この基準でいけば誰もが罪人だというしかない。人々は神の愛よりも、裁きを恐れていたのだろう。その神の独り子主イエスが、私の罪を洗い流すために十字架に架かられ死んで葬られた。考えられない事であった。

信仰問答問44「『陰府にくだり』とは、どういうことですか。」答「キリストは、私たち罪人が落ちていく陰府にまで下って、私たちの代りに、徹底的に苦しんで下さった事を示しています。そこで、私たちは陰府の苦しみと不安から全く解放されているのです。」

という事だが、死んでからのことは分からない。地獄と陰府の違いも分からない。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「どの木にも花にも黒い影はあり傾きながら地を移りゆく 矢澤麻子」


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