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箴言 31章10~31節 [箴言]

<貧しい人には手を開き、乏しい人に手を伸べる。(20節)>

「ここで描かれる妻の姿は一家の大黒柱として働く姿です。彼女は具体的な商品の生産にいそしみます。ですからこの『有能な妻』を通して示されるのは、私たちの労働についてです。労働の象徴は手です。彼女の手は貧しい人、乏しい人に向けられます。」と、木村牧師は書きだされる。

31章もソロモンの格言ではなく「マサの王レムエルが母から受けた諭しの言葉」と1節は記される。母は先ず「力を女たちに費やすな」と警告し、飲酒にふけることを「王たるものに相応しくない」と諫め、飲めば義務を忘れ、貧しい者の訴えを曲げると忠告する。

「あなたの口を開いて弁護せよ。ものを言えない人を、犠牲になっている人の訴えを。あなたの口を開いて正しく裁け、貧しく乏しい人の訴えを。(8.9節)」 ボンヘッファーは、ユダヤ人問題に口をつぐむナチス時代の教会の人々を批判して、この箇所を友人への手紙に書いたとS牧師は話された。

10節以下はレムエルの言葉から離れた「婦人讃美」で、箴言はユダヤ婦人の徳を褒め称える歌で終わる。「有能な妻」とタイトルがつけられ、彼女を見出すのは誰か、真珠よりはるかに貴い妻、働き者で夫は心から彼女を信頼し、儲けに不足する事はない。彼に幸いをもたらし、災いはない。「商人の船のように、遠くからパンを運んでくる(14節)」 「エェーツ 無理でしょ」と言いたくなる。

そんな者にS牧師は笑って「賢く有能な妻はその家庭を実り豊かにするとされていました。ユダヤは父権制社会ですが、ラビたちは妻が夫に与える影響が大きいことを認識していたのでしょう。」と言われ、ラビの伝承を話された。

「信心深い男が信心深い女と結婚したが、子供が生まれなかったので離婚した。男は別のよこしまな女と結婚し、その女は彼をよこしまにした。妻もよこしまな男と結婚したが、彼女はその男を正しい人間にした。従って全ては女性にかかっているということになる」 私の経験でも、クリスチャンの妻が夫を洗礼に導いた例はあったが、妻がノンクリスチャンで礼拝に来なくなったクリスチャンの夫がいた。

有能な妻を夫も息子たちも称える。彼らは「有能な女は多いが、あなたはなお、そのすべてに勝る(29節)」と、立って彼女を幸いな人と呼び称える。聖書に言葉を挿入したり、削除してはならないと言われているが、美醜を人と比較するのはよくないが求めるのは許されるとしてほしい。それに「何より、彼女は、主を畏れる者だからこそたたえられる。」主イエスならそう言って下さるだろう。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「残されて一人食みゆく朝食にずい分広いテーブルと気づく 筑井悦子」


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箴言 30章15~31節 [箴言]

<奴隷が王となること、神を知らぬ者がパンに飽き足りる事。(22節)>

「この箇所全体は『数の格言』と呼ばれるものです。21節では4つの耐ええないことが、列挙されます。その事を通して、当時の社会で起こっていた道徳的秩序の混乱や転倒が悲観的に述べられます。」と、木村牧師は書きだされる。

箴言1~29章はソロモンの箴言とされるが、30~31章は「ヤケの子アグルの言葉。託宣」と1節は記す。最初にアグルは「地の果てを定めた者は誰か。その名は何というのか。その子の名は何というのか。あなたは知っているのか。(4節)」と、人の知恵では神を理解できない事を素直に告白する。

「神の言われることはすべて清い。身を寄せればそれは盾となる。み言葉に付け加えようとするな。責められて、偽る者と断罪される事のないように。(5.6節)」 神の言われる事、すなわち、み言葉を通して人間の側からは無理でも神の啓示によって可能になるのだと。

「二つのことをあなたに願います。私が死ぬまでそれを拒まないでください。むなしいもの、偽りの言葉を私から遠ざけて下さい。貧しくもせず、金持ちにもせず、私のために定められたパンで私を養って下さい。飽き足りれば裏切り、主など何者か、という恐れがあります。貧しければ、盗みを働き、私の神の名を汚しかねません。(2~9節)」

主の祈りに通じる。「願わくば、み名をあがめさせたまえ。」 死ぬまであなたを慕いあなたにすべてをゆだねる者にして下さい。「日用の糧を、今日も与えたまえ」 今日の糧で十分なので明日の糧を求める事はいたしません。

「奴隷が王となること。神を知らぬ者がパンに飽き足りる事。憎むべき女が夫を持つ事、はしためが女主人を継ぐこと。」は、耐えられない事だと挙げられる。そして小さな知恵者として、冬のためにパンを蓄える蟻、身を守るため岩壁に住む岩狸、王はいなくとも隊列を組むいなご、王の宮殿に住むやもりを挙げる。堂々たるものとして、退かない獅子、腰に帯した男、雄山羊、誰にも手向かいさせない王が挙げられる。

「増長して恥知らずになり、悪だくみをしているなら、手で口を覆え。乳脂を絞るとバターが出てくる。鼻を絞ると血が出てくる。怒りを絞ると争いが出てくる。(32.33節)」と、怒る者を忠告する。

「神と隣人に仕える歩みを続けてゆく先に、この世が神によって創造され良しとされた世界へと回復させられて行くのです。」と木村牧師は、戦争止まない世、それでも光をみて結ばれる。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「キッチンの鼻歌うらみつこなしで別れませうと繰り返す妻 千名民時」


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箴言 26章1~12節 [箴言]

<愚か者にはその無知にふさわしい答えをするな、あなたが彼に似た者とならぬために。(4節)>

「この4節の御言葉は、この世を生き抜くための一つの大切な教えです。なぜなら、現代も誹謗中傷など隣人を貶める言葉が特に匿名性の下であふれているからです。それらの言葉一つ一つに応答する事は、結果的に自らも愚か者となってしまう危険性があります。」と、木村牧師は書きだされる。

今日の個所のキーワードは「愚か者」。その対応に4節ではするなと言い、5節では「愚か者にはその無知にふさわしい答えをせよ。彼が自分を賢者だと思い込まぬために。」と、答えるようにと促す。どのように考えるのだろうか。

4節5節は両方とも「愚か者」についての知恵に基づきつつ、全く矛盾した警告が語られる。S牧師は「私たちに何を教えているのでしょうか。それは現実問題の対応について、絶対的に『これだ』という永遠に不動の固定した基準というものは、ないのだという事でしょう。否むしろ、一つの方便や確信を絶対化してはならない、すべきではないという事なのではないでしょうか。」と話された。

現実問題に対して誤りのない絶対的な答えを持っているとする者は、他からの評価を喜ぶ。そしてそれは思い上がりとなり、自分を自分の目に「賢い者」とする。確かな答えを持っておられるのは、主なる神であって人間ではないという事を知らなければならない。

「自分を賢者と思い込んでいる者を見たか。彼よりは愚か者の方がまだ希望が持てる。(12節)」は、思い上がる人に対する厳しい警告である。自分の知識、知恵、経験、力、確信にたより、謙虚さを欠く者は「愚か者」以上に始末におえないという事である。

処女マリアからお生まれになった主イエス、墓に葬られたのに蘇られた主イエス、この出来事について、自分は受洗したものの心は信じていなかった。それでも、礼拝を守り、聖霊の導きを頂き今は心から信じる者になっている。その事を信じるからキリスト教なのだと確信している。

O牧師は「確信は信仰者にとって必要で、大切なことです。しかし、その確信が絶対化しないよう目覚めていなければなりません。信仰者は相対化の用意のある開かれた確信、揺らぎ、疑う、躊躇う事もある確信、何よりも自分の限界を弁えた謙虚な確信を持ちたいものです。閉じられた確信からは自己絶対化が生まれ、それは盲信、狂信となり、暴力的な破滅へ向かいます。」と話された。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「日常に戻りゆくまち提灯は既に下ろされ骨組みばかり 竹井佐知子」


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箴言 25章11~28節 [箴言]

<時宜にかなって語られる言葉は、銀細工につけられた金のりんご。(11節)>

「私たちはなかなか舌を制御する事が出来ません。特に隣人との関係において口から出る言葉が、時に相手を悲しませる事があります。一方で自らがそのような言葉によって傷つけられる事があります。大切なのは時宜にかなう言葉を語る事です。」と、木村牧師は書きだされる。

25章1節は「これらもまた、ソロモンの箴言である。ユダの王ヒゼキヤのもとにある人々が筆写した。」と始まる。ヒゼキヤはソロモンの時代から約300年後に人々の信仰を覚醒した王である。彼は神の前に誠実に祈り、叫ぶことによってアッシリアの攻撃からエルサレムを守った。それは当時の人々の想定外の奇跡であった。その偉大な王のもとで箴言の言葉が現在の形に編集された。

蜂蜜を見つけたら、欲しいだけ食べてもいいが、食べ過ぎて吐き出す事がないように、「友人の家に足を運ぶのはまれにせよ(16節)」 友人があなたに飽きてあなたを嫌うことがないように。蜂蜜を見つけた喜びと、心が通い合う友人を得た喜びが並行して記される。吐いてしまうほど食べ過ぎた蜂蜜、親しい交わり、それが依存的な関係になることの危うさが並べられる。

人それぞれ入り込まれたくない領域を持つので、人間関係には適度な距離感が大切だ。その距離感は人によって異なり、自分にとって物足りない距離が相手にとって近づき過ぎだという事もある。O牧師は「私たちが神を求めるのは、神にしか満たす事のできない心の渇きを持つからではないでしょうか。その渇きは無限で、神によってしか満たされないのです。」と話された。

「寒い日に衣を脱がせる者。ソーダの上に酢を注ぐ者、苦しむ心に向かって歌を歌う者(20節)」 O牧師は「時々、私たちは心悩ませている人に『いつも喜んでいなさい』と話したり、愛する人を失った人に向かって『神は万事を益として下さる』などと、励ましのつもりでいう事があります。その言葉が、傷口に塩を塗り、ソーダに酢を注ぐような過ちを犯します」と、話された。

「あなたを憎む者が飢えているならパンを与えよ(21節)」 S牧師は「敵を愛せよというのは、好きになる事だと思うのは誤解です。相手から憎まれているのに、その人を好きになり親しみを覚える事が出来たら、神の形に創造された者としての人格が麻痺しているといえます。怒りを感じなくなったら、私たちは人に踏みつけられ、振り回されるままになってしまいます。彼らに好意を持てないから、彼らは『あなたの敵』と呼ばれている事を忘れてはなりません。」と話された。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「炎天の新宿西口スニーカーの中で少し蒸れてる指先 黒沢梓」


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箴言 23章15~25節 [箴言]

<確かに未来はある。あなたの希望が断たれることはない。(18節)>

「この箴言で勧められている父に聞き従うこと、そして母を侮らない事は、十戒の第5の戒め『父母を敬え』との勧めと同じです。これは親孝行を促しているように思えますけれども、必ずしもそうではありません。」と、「日毎の糧」10月号講解担当、宇都宮教会木村太郎牧師は書きだされる。

「わが子よ、あなたの心が知恵を得れば、私の心は喜び祝う。あなたの唇が公正に語れば、私のはらわたは喜び踊る。罪人らの事に心を燃やす事はない。日ごと、主を畏れる事に心を燃やすがよい。(15.16節)」 

中々縮まらない貧富の差は、教育の差、知力の差にまで響き、その差が大きくなってゆく世である。富む者を羨ましいとは思わないまでも、絶対に逆転しないと思う。ゲームに夢中になる孫たちに、ゲームクリエイターと言われる人々を恨めしく思ったりする。O牧師は「そのような自分の気落ちを捨てて主を畏れて下さい。神のみ旨でないものには必ず終わりがあります。」と言われたが。

「大酒を飲むな、身を持ち崩すな。大酒を飲み、身を持ち崩す者は貧乏になり、惰眠を貪る者はぼろをまとう。(20.21節)」 食事の席でたしなむ程度のお酒に止まらず、アルコール依存になって行く人々への忠告である。この時代人々は、我々の想像を絶する残酷な戦いや、非道な肉体労働の重みから逃れるため飲酒を重ねたのだろうか。

「父に聞き従え、生みの親である父に。母が年老いても侮ってはならない。真理を得よ。知恵も諭しも分別も手放すな。神に従う人の父は大いに喜び踊り、知恵ある人の親は、その子によって楽しみを得る。(22~24節)」 知恵のある子は親を幸せにする。それが一番の親孝行である。

木村牧師は「父母を敬う事を通して父母の長生きを手助けするのではなく、私たち一人一人が希望と共に長く生きる事が出来るからです。」と、出エジプト記20章「あなたの父母を敬え、そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きる事が出来る」をあげられる。

そして「それは一番近い隣人としての父母を自分のように愛する事へと促します。そしてそれは最も重要な掟に生きる事であり、キリストのみ旨にかなう生き方なのです」と結ばれた。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「幸水を剥けばしたたり指をつたひ梨であったはずのなにかが落ちる 西村玲美」

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