SSブログ
アモス書 ブログトップ
前の5件 | -

アモス書 8章1~12節 [アモス書]

<主はヤコブの誇りにかけて誓われる。「わたしは彼らが行ったすべてのことを、いつまでも忘れない。」(7節)>

「『終わり』が示される第四の幻(1~3節)と裁きの宣告。そして第五の幻(9章1~6節)。その間に『貧しいもの』『苦しむ者』の抑圧と虐げが、告発されます。特に商人の偽善(新月祭、安息日)、取引上の不正、債券奴隷売買という七つの罪が告訴され、その『すべてのことを、いつまでも忘れない』と、神は誓われます。」と、浅見牧師は書き出される。

「アモスよ、何が見えるか。」と主は問われる。預言者が何を見ているのか、神がこれからなそうとされるご計画と、同じものを見ているかどうかは重要な事であった。繁栄を極めるヤロブアム二世がBC743年没し722年首都サマリアは陥落する。わずか20年先であったが誰にも想像出来ない事であり、アモスの預言に耳を傾ける者はいなかった。

一籠の夏の果物(カイツ)が見えると答えたアモスに「我が民イスラエルに最後(ケーツ)が来た。もはや、見過ごしにすることは出来ない。その日には必ず宮殿の歌い女は泣きわめくと、主なる神は言われる。屍はおびただしく、至る所に投げ捨てられる。声を出すな」と、主は答えられた。ヘブライ語では、夏の果物(カイツ)の収穫は「夏の終わり、目を覚ます」の意味を持ち「終わりの時」を示すらしい。

「もはや、見過ごしにすることは出来ない(2節)」と主は言われる。神の民が一方では神殿礼拝を行いながら、他方では不正を行い、それを悔い改めようともしなかった。商人たちは升や天秤を偽り、不正に利益を上げ、人間を奴隷として売買し、そこには隣人に対しての尊厳も敬意もなかった。それは、神の民の業ではないとアモスは主の言葉を伝えた。

「見よ、その日がくればと、主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢える事でもなく、水に渇く事でもない。主の言葉を聞く事のできぬ飢えと渇きだ。(11節)」

K牧師は「神の言葉の欠乏は霊の生命を滅ぼします。それは、生きたまま人間を死人としてしまう災いであります。イスラエルは滅びなければなりません。しかし、それは救いに至る滅びです。一度死に新しく生きるために今滅びがイスラエルに訪れるのです。滅んだ後に彼らは幸いの福音を聞くのです。」と、話された。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「冬シャツもよく乾きたり畳みつつ夫への不満が薄れゆくなり  篠原とし」


コメント(0) 
共通テーマ:

アモス書 7章10~17節 [アモス書]

<主は家畜の群れを追っているところから、わたしを取り『行って、我が民イスラエルに預言せよ』と言われた。今、主の言葉を聞け。あなたは『イスラエルに向かって預言するな、イサクの家に向かってたわごとをいうな』と言う。(15.16節)>

「王家礼拝の聖所のある宗教的中心地ベテル。その聖所の責任を負っている祭司アマツヤは、このベテルで王の殺害と民の捕囚謀反人として、預言者アモスを王に訴えます。」と、浅見牧師は書き出される。

「イサクの塚は荒らされ、イスラエルの聖なる高台は廃墟になる。わたしは剣をもって、ヤロブアムの家に立ち向かう。(9節)」と、アモスは主の言葉を告げる。ベテルやダン、サマリアに置かれた異教の神々を礼拝する、聖なる高台と呼ばれる建物はやがて廃墟になると。

北イスラエル王国は、主に向かって正しくたつことが出来ず、偶像礼拝を行うヤロブアムの家、すなわち北イスラエルに主は裁きを下される。アブラハムの息子イサクの塚や聖なる高台が廃墟になるだろうと。

それらの事を聞いたベテルの祭司アマツヤは、北イスラエルの王ヤロブアム二世に、「イスラエルの家の真ん中で、アモスがあなたに背きました。この国は彼の全ての言葉に耐えられません」と訴えた。そして、「ヤロブアムは剣で殺される。イスラエルは必ず捕らえられて、その土地から連れ去られる」とアモスの言葉を伝えた。

王に訴えた後、アマツヤはアモスのもとに来て「先見者よ、行け。ユダの国へ逃れ、そこで糧を得よ、そこで預言するがよい。だが、ベテルでは二度と預言するな。ここは王の聖所、王国の神殿だから」と言った。アマツヤは幾分畏敬の念をもって「先見者」とアモスに呼び掛け、その個人的な親切心からアモスに忠告したようにも取れるが、「ユダの国に逃れよ」と、明らかに彼の排除を意図していた。

「アモスは、召命の出来事から、神の召しと審判宣告の絶対性を明かします。波風を立てない配慮、偽りの安寧、不正義の是認が蔓延している場を神は赦されません。その震撼させる『主の言葉』を真摯に聞きたいと祈りの内に願います。」と、浅見牧師は結ばれる。

7章は「それゆえ、主はこう言われる。お前の妻は町の中で遊女となり、息子、娘らは剣に倒れ、土地は測り縄で分けられ、お前は汚れた土地で死ぬ。イスラエルは、必ず捕らえられて、その土地から連れ去られる。」と「主の言葉」で終わる。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「恐竜の表皮の隆起思わせて銀杏は冬芽を強く立ており  鈴木健示」


コメント(0) 
共通テーマ:

アモス書 6章1~8節 [アモス書]

<大杯でぶどう酒を飲み、最高の香油を身に注ぐ。しかし、ヨセフの破滅に心を痛める事がない。主なる神はご自分を指して誓われる。万軍の神なる主は言われる。わたしはヤコブの誇る神殿を忌み嫌い、その城郭を憎む。わたしは都とその中の全てのものを敵に渡す。(6.8節)>

「神は、北イスラエルと南ユダの統一王国すべてへの『災い』を宣言されます。それは周りの国より領土が『大き』く、我は『頭』という驕りのゆえ。また、神殿、城郭に全信頼を置き、己が力を『誇る』傲慢のゆえです。富める上流の者たちは、日々贅沢な『宴』を開き、安逸な生活を送る」と、浅見牧師は書き出される。

「災いだ、シオンに安住し、サマリアの山で安逸をむさぼる者らは。諸国民の頭である国に君臨し、イスラエルの家は彼らに従っている」と、1節は書き出される。イスラエル統一王国は、ソロモンの死をもって北と南に分裂した。北イスラエルの王はヤロブアム一世(BC931~910年統治)首都はサマリア、南のユダ王国の王はレハビアム(BC931~913年統治)首都はエルサレム(シオン)であった。

ヤロブアム二世(783~743年統治)の時代、イスラエルはその領土を拡大し、ソロモン王の最盛期の領土まで広がっていた。表面的に繫栄する南北イスラエルに対してアモスは滅亡の預言を行うが、人々が耳を傾けることはなかった。

イスラエルの安全の根拠は、首都サマリアの堅固な要塞と、自分たちの軍事力に対する驕りであった。しかし、アモスは強力な都市国家であった周囲の国々もアッシリアによって滅ぼされたではないか、小さな国がいくらその軍事力を誇っても、アッシリアの圧倒的な力の前では空しいと預言する。

当時、大国アッシリアは内紛に明け暮れ、パレスチナに介入する余裕はなかったが、やがて、その大軍勢がパレスチナに侵攻することは誰の目にも明白であった。その時には、イスラエルの防衛力は歯牙にもかからない事をイスラエルの指導者たちは全く認識していなかった。

イスラエルの指導者たちは、快楽追及にふけり、神に与えられた民を養い、守る義務を放棄していた。指導者の役割として民を養い、民のために労苦する事を求められる神は、彼らに特権と富を与えられていた。それを自己のためにのみ用いる時、彼らは任命された神の委託を裏切った罪で、裁かれる。指導者としての責務を果たさないイスラエルの貴族たちを神は打ち捨てられる。

受洗者、クリスチャンとして自分も神から何らかの役割を与えられているのだろうか。知るのがこわい。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「改札を抜ければ今朝もビルの芽が気づかぬくらいにちょっと伸びてる  吉原真」


コメント(0) 
共通テーマ:

アモス書 4章4~13節 [アモス書]

<ベテルに行って罪を犯し、ギルガルに行って罪を重ねよ。朝ごとにいけにえを携え、三日目には十分の一税を納めるがよい。(4節)>

「主なる神は、北イスラエルの中心的な聖所のある『ベテル』に行き、礼拝をささげよと言われます。しかしそれは罪を犯す『背き』なのです。礼拝が背きとなる! 彼らの礼拝のかたちは適切でした。しかし神は『自発の献げもの』を『大声で触れ回る』事に象徴されるうわべの敬虔さ、見せかけの礼拝を非難されます。」と、浅見牧師は書き出される。

ベテルやギルガルには古くから聖所が置かれ、民はそこで神を礼拝していた。北イスラエルの民はそこで、朝ごとにいけにえを携え、三日目には十分の一税を納め、感謝の献げ物として酵母を入れたパンを献げ、大声で献げ物をすると触れ回っていた。これらの行為は、神との関係を正しくするため、より確かなものにするために行われていた。

しかし、イスラエルの人々はそれらの儀式を行う事で、神からますます離れるとアモスは忠告した。彼らがベテルやギルガルで礼拝しているのは、万軍の主なる神ではなく、「地の聖なる高台(13節)」と呼ばれ、やがて主によって踏み越えられてしまうような異教の神々であった。「罪を重ねよ(4節)」と、繰り返されるのは、「地の聖なる高台」での彼らの礼拝は、主なる神に対する罪であることを明言する。

「しかし、お前たちは私に帰らなかったと主は言われる」が5度繰り返される。主なる神は、北イスラエルが主に顔を向け、立ち帰るよう、様々な災いを彼らの上に下された。その災いを通して自身の罪に気付き、悔い改め、主を呼び求める彼らを待たれたが、彼らが悔い改め立ち帰る事はなかった。

そこで「イスラエルよ、お前は自分の神と出会う準備をせよ」と、主は北イスラエルの民に決定的な裁きを告げるために、彼らを招かれる。「見よ、神は山々を造り、風を創造し、その計画を人に告げ、暗闇を変えて曙とし、地の聖なる高台を踏み越えられる。その御名は万軍の神なる主(13節)」と告げられた。どんな罪も隠すことは出来ず、すべてが明るみに出されると。

ベテルやギルガルを巡り、主なる神を礼拝するように礼拝し、実際には「聖なる高台」で異教の神々に献げ物をする彼らの偽善を主は明らかにされる。そして「聖なる高台」を、踏み潰される。K牧師は「神は求められる事、探される事、門が叩かれるのを待っておられます。神は私たちの罪の闇を、命の光が輝き出る曙に変えて下さる事がおできになるのです。」と結ばれた。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「初雪が風にふるえて下りきたり 返信できない手紙があって 澤端節子」


コメント(0) 
共通テーマ:

アモス書 3章1~8節 [アモス書]

<獅子が吠える。誰が恐れずにいられよう。主なる神が語られる。誰が預言せずにいられようか。(8節)>

「預言者アモスは、神の告発に揺らぐイスラエルの人々に、その原点を思い起こす神の言葉を伝えます。『わたしがエジプトの地から導き』『わたしが選んだ』。奴隷から解放し、法を与え、国を与えた。それはかつてアブラハムの選びの時のように『彼らが正義と公正を行い、主の道を守る』ためであったはずではないでしょうか。」と、浅見牧師は書き出される。

1.2節は神の選びについて語られる。イスラエルの人々は、自分たちは選民であり、主のみ言葉によって神の約束を頂いている。我らを12部族、全部族の中からを選ばれた神は、我らの罪を大目に見、また赦すことに寛大であると主張した。アモスは彼らの考えの間違いを指摘し、他民族に対する特権を認めず、罪を隠したり審きに対して自己保全や特権を示すことを認めなかった。

「地上の全部族の中からわたしが選んだのは、お前たちだけだ」というみ言葉は、選びが神の自由な恵みであることを示している。神はイスラエルをご自身の目的のために選ばれたのであって、人間的な利害に拘束されることはない。神は選びによってみ旨を深く示され、イスラエルはその選びによって服従に与り、神の目的に仕えるという特権が与えられているということだ。

神は選びを通してイスラエルに特別な服従を求められる。しかし彼らはその事に気付くことなく、選びを通して明らかにされた神の恵みをも真剣に受け止める事が出来なかった。彼らは、神の真実と神の救いを深く心に止めなかった。彼らは神との関係を自分たちの利害、願望などの観点から見ていた。これにたいしてアモスは、神の観点に立って、神と民との関係を判定した。

しかし、イスラエルの民は牧者に過ぎないアモスが主の預言者として立っている事、また裁きの言葉を神の言葉として語る事に不信を持っていた。そして、アモスの審きと対立する偽預言者たちが語る救いの言葉に彼らの心は捕らわれ、アモスをないがしろにした。

人は起こった不幸から原因を考えるが、アモスは原因から結果へと逆の思考をとる。彼にとって神の言葉とは、獅子の声を聞いたなら反射的に恐ろしくて身震いするように、神と神の言葉とは、人々が拒む事のできない必然性を持っているのだという。預言者自身が驚愕しながらも完全に捉えられ、神の言葉を宣べ伝えるほか術がないのである。

だから、イスラエルはこの預言者の言葉を一切の人間的な解釈なしに、神の言葉として聞き従わねばならないのである。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「ひとり言言ひて過ぎゆくけふの日をこんなもんさとまた独り言つ  浜崎純江」


コメント(0) 
共通テーマ:
前の5件 | - アモス書 ブログトップ