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ヨハネの手紙Ⅰ  3章11~24節 [ヨハネの手紙]

<神の掟を守る人は、神の内にいつもとどまり、神もその人の内にとどまって下さいます。神がわたしたちの内にとどまって下さる事は、神が与えて下さった“霊”によってわかります。(24節)」>

祈祷会は、日本キリスト教団出版局発行の「信仰生活ガイド『使徒信条』」を学ぶ。今日はその第9日<「使徒信条 9 「聖なる公同の教会」 ―教会に対する信仰を捨ててはいけないーと題された、日本基督教団西片町教会 山本裕司牧師の記事を読んだ。

教会は信仰の対象だと記され、山本牧師は「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する事です。(ヘブライ書11章)」を示される。自分も祈りがなかなか聞き入れられないと嘆く時、このみ言葉を自分に言い聞かす。山本牧師はその対象を教会に当てはめられる。

教会はこうあるべきだ」「キリスト者の理想はこうだ」と互いに主張して、教会がバラバラになる。それぞれそれが正しいとしても、それは「望み」であり、今はまだ「見えない事実」なのだが、それを信じる。神を信じる事と、教会を信じる事はひとつだと山本牧師は言われる。キリストは教会の頭であり、教会はキリストの体だからだと。

パウロが建てたコリント教会はいざこざが絶えず、その原因は「紛争(嫉妬)」「不倫」「起訴事件」であった。もう救いがないような教会に対してパウロは挨拶を書き送る。「コリントにある神の教会へ、・・・キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ(コリント11章)」と。

「問題教会」を「神の教会」と呼び続けるパウロ。彼は神の教会に対するご支配は揺らぐことがないと信じたからである。「その信仰によって伝道者からは、その教会のためになお祈り、なお骨折る力が湧き出てくるのです。」と記される。信じる時、道は開き、希望が生まれる。信仰とは再生不可とされても、神が教会の傷を癒し、御心に適ったものに成長させて下さると信じる事だからである。

「召されて聖なる者とされた人」とは「選ばれて神のものとされた人」と言う意味である。主イエスの選びは義人や聖人ではなく、律法によって罪人とされた徴税人や病人たちが招かれ主イエスと共に食卓を囲む。教会はその食卓であり、生きる事に不器用な劣等生や魂を病む人々が招かれる。

「私達は本当に罪人です。だから食卓に招かれても、その弱さ貧しさがでて、許し合う事も出来ないのです。でも、もう和解は始まっているのです。それを信じてほしい。一緒に信じ続けましょう。」と山本牧師は結ばれる。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「人の世を信じるようにロッテリアの盆に直置きされたるスプーン 青海ふゆ」


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ヨハネの手紙Ⅰ  5章1~12節 [ヨハネの手紙]

<この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけでなく、水と血によって来られたのです。そして“霊”はこのことを証しする方です。“霊”は真理だからです。(6節)>

「主が通って来られた道。特に『水と血』を潜られた姿を思います。水とはパプテスマ。洗礼者ヨハネから、主も洗礼を受けられました。・・・血はこのお方が十字架上で肉を裂かれ流された血のことです。苦しみの極みであり、私たちの苦しみへの連帯の証です。」と、朴大信牧師は書き出される。

ヨハネがこの手紙を書き記した当時、偽りの教師たちが主イエスに対する人々の信仰の告白を真っ向から否定していた。それは信仰の土台を破壊する事であり、教会は命を失い、クリスチャン一人一人の信仰も不確かなものにしていた。

「あなたがたは私を何者だというのか」と主イエスが問われると、ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です(マタイ書16章)」と答えた。それはペトロ(岩)の信仰の告白である。その告白に主イエスは「私はこの岩の上に教会を建てる」と言われた。岩、すなわち信仰告白の上に建てられた教会は、揺るぎないものだと告げられる。

「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んで下さった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。(1節)」 洗礼を受けクリスチャンとなった者は、神から生まれた。それは、肉や人の意欲によってではなく、ただ神によって生まれたのであるとヨハネは記す。

ヨハネ書3章、ユダヤ人議員ニコデモが主イエスに、「どうしたら神の国を見ることが出来るのか」と、夜にこっそり聞きに来た。主イエスは「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることは出来ない」と答えられる。ニコデモは「年をとった者が、どうして生まれる事が出来ましょうか。母の胎内に戻るという事なのか」と尋ねた。自分にも理解は難しい。「神から生まれる」とか「新たに生まれる」とか。

S牧師は「神によって人の内側、つまり霊の部分が新しく生まれるのです。人は神の命令に背き罪を重ね、心の奥底にある霊の部分は神から離れて死んでしまっています。その霊は神の命を頂き新しく生まれる必要があるのですが、それは自身の努力や知恵によってできません。神が挿し出される手によって、新しく生まれ、ようやく神との関係を回復する事が出来るのです。」と話され、

そして、神が差し出して下さった手こそ、主イエスの十字架です。私たちはそのことをただ「ありがとうございます」と感謝して受け取ることを神は願っておられるのです。主イエスはメシア、生ける神の独り子だと告白する信仰によって私たちは新しく生まれました。それが「福音」ですと結ばれた。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「大好きな単純作業はロボットに奪われわれの退職ちかき  田中律子」

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ヨハネの手紙Ⅰ  4章16~21節 [ヨハネの手紙]

<『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することが出来ません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。(20.21節)>

「愛の豊かな循環に、鋭い矢が突き刺さります。・・・愛が『べき論』で進むと、苦しくなります。律法主義的になり『隣人を愛せている自分は正しい』という独善的な信仰さえ起こります。」と、朴大信牧師は書き出される。

「愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです(7節)」 「愛」は人間の側に根拠を置くものではない。人間の側には愛する能力や才能がそもそもない。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。(9節)」と、ヨハネは神の愛を説く。

神の愛が肉を伴って、この世に降られた。イエス・キリストは私たちと同じ人間としてこの世に来られ、その生涯を歩まれたことが「神の愛」の現れであり具体なのである。全ての者を生かすために神ご自身が、神ご自身であることを止めることなく、人間の真の友となり仲間となるように受肉された。その愛には一切の条件がない。

O牧師は「私たちが心に留めておかなければならない愛の性質というのは『神は愛です』という事です。私たちの命も存在も一切の条件なしに神が与えて下さったものでありますから、私たちにできるのはただ、この借り物である命をこの世において許された年月を神の祝福と守りのもとで、過ごすという事です。」と話された。

ヨハネは神がこれほど私たちを愛して下さったのなら、私たちも互いに愛し合うべきだと述べる。私が神を愛しているかどうかは、兄弟姉妹を愛しているかどうかで分かるのだと言われる。愛は神から私へとそして兄弟姉妹へと流れてゆくのだと。その時、神が確かに私の内におられる事がわかるのだと。神を見た者はいない、けれども兄弟姉妹を愛する人を見たなら、それは神を見たに等しいと。

「神は私たちに、ご自分の霊を分け与えて下さいました。このことから、私たちが神の内にとどまり、神も私たちの内にとどまって下さる事が分かります(13節)」

主イエスは神の御子であることを告白した者に、神はご自身の御霊を与えられる。この御霊によって、確かに神が私の内におられ、私が神の内にいることを知る。私に当てはめると心温かくなる。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「紅葉まつり賑はふ中なれど雪吊り作業に縄担ぐ人  岩佐 新子」

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ヨハネの手紙Ⅰ  3章1~10節 [ヨハネの手紙]

<愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れる時、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。(2節)>

「私たちは自らのありのままの姿が脅かされる時、抵抗します。主イエスは、私の今の姿に出会って下さいます。そして、その姿のままで立ち上がり、ただご自分に従うようにとおっしゃいます。」と、朴大信牧師は書き出される。

洗礼を受け、神を信じる者でありながら、時に神を忘れ、自分勝手に生き、隣人を知らず知らずのうちに傷つけてしまう。そのような罪びとであり、神の子どもとなる資格や権利は何一つない。しかし、神がそのような者を愛し、ご自分の子どもとされ、独り子主イエスをこの世に送り、その命と引き換えに、愚かな者の罪をすべて贖われた。そうまでして、罪人が神の子となる道を開かれた。

K牧師は「私たち神の子どもたちは、神の国を目指しての旅をしています。その道中で、罪を犯す者は神の国に入る事は出来ません。私たちの旅は、試練の連続です。祈っても聞き入れられていないような気持になり、しばしば神に不信感を持ちます。そういう時、神から私たちを離そうとする悪魔が私たちを誘いますが、その時こそ、神を見上げ、神の真の力を知るのです。」と、話された。

自分の力で罪を犯さないように努力して、ルールに従って生きれば、絶対に罪を犯さなくなるというものではない。自分は教会で「隣人を愛せ」と教えられているが、その教会の中で苦手な人がいて、愛するどころか仲良くさえなれない。それだけで「自分は罪人なのだ」と自覚しなければならない。「法に背く者(4節)」は、罪人だとヨハネは記す。彼がいう「法」とは神の「律法・掟」のことである。

神の求められる「掟」は、自分の力では到底守る事が出来ない。隣人を愛していると口にして、誰に対しても我慢しやさしくしていると、そのうち行動が伴うだろうと思うのは間違いだとヨハネは説く。

主イエスは山上の説教で「あなたがたも聞いている通り『姦淫するな』と命じられている。しかし、私は言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者は誰でも、既に心の中でその女を犯したのである」と話された。神の法の及ぶ範囲は私たちの行いだけでなく、心の中まで適応される。それでいくと、誰一人例外なく「罪人」である。その罪人のために、主イエスはこの世に来て下さったのである。

それを知ると、サンタクロースや電飾ではしゃいでいる場合でないと訴えたい。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「もう行けぬコーヒー店の割引券読みかけの本の栞となりて  今井早苗」


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ヨハネの手紙Ⅰ  2章12~17節 [ヨハネの手紙]

<世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。(17節)>

「この世で永遠に存在するものは、何一つありません。今どんなに美しく見えても、すべては『過ぎ去って行きます』 すべてが私たちのもとから過ぎ去ると同時に、私たち自身もやがて過ぎ去って行きます。」と、朴大信牧師は書き出される。

1章でヨハネは光の中を歩む人とは、自分が罪人であることを認め、その罪を悔い改める人だと説いてゆく。その人は光である神との交わりを保ち、光の中を歩む事ができる。それは、御子イエスの血が全ての罪からその人を清めて下さるからだと述べる。光の中を歩む者は、兄弟を愛するが、闇の中にいて自分がどこへ行くのかが分からない者は兄弟を憎む。

1節では「私の子どもたち」と呼びかけて、彼らが罪を犯さないようにと勧めたが、ここでもまた「子どもたち」、さらに「父たち」「若者たち」と呼びかける。それは、具体的な家族構成ではなく、クリスチャンとしての霊的成長を表していると思われる。年齢ではなく、霊的成長において区分されているのではないだろうかとO牧師は話された。

まず「子たちよ(12節)」と、年齢、霊的成長に関係なく真に主を信じる者すべてに呼び掛けられる。彼らには、主イエスの血によってあなたの罪がすべて赦されて、あなたは神の子どもとなったのだと告げられる。そして「子供たちよ(14節)」と、主を信じたものの、信仰の入口にある者に、御父を知ったあなた方は、神は愛であることを知ったのだと説く。

そして「若者たち(13節)」に、彼らは悪い者に打ち勝った人達である。彼らは悪魔の誘惑や攻撃に勝利した。それは彼らの意志や力によってではなく「み言葉」が彼らにとどまっていたからである。そして「父たち(13節)」。彼らは「初めから存在なさる方を知っていた」。それは知識的に知るという事でなく、体験を通してこのお方と深く交わり、従い主イエスのように変えられた人たちである。

「私たちが『神の御心を行う』とは、神を愛し、その神が愛する人を愛すること。そこに私たちの今があり、永遠があります。」と、朴大信牧師は結ばれる。

「私は神の作品であり、良い行いをするために主に造られた。良い行いを見て神が救いを下さるのではなく、罪が赦されたのは良い行いをするためなのだ。」 もっと謙虚にならねばと自省した。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「猫よりもわたしの方をすこしだけ長く覚えておいてください  俵田ミツル」


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