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ルカによる福音書  15章11~32節 [ルカによる福音書]

<まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。(20.21節)>

昨日の祈祷会は、日本基督教団洛北教会岡本知之牧師が「洗礼とは何か 断つ者ではなく、つなぐ者として生きる」と題された記事を読んで出席者が話し合った。

最初に「罪とは、関係を断つ事、その結果は死」とタイトルがあり、「罪とはなんでしょう。それは他者との関係を断つことです。そして私が自分との関係から消した人は私にとって『死んだも同然』の人となります。中でも神との関係を断つことは自分の存在の根拠としての神を殺す事ですから、それはとりもなおさず自分自身を殺す事に他なりません。」と、岡本牧師は書きだされる。

その事を主イエスは「放蕩息子」のたとえを通して話された。弟息子は、父に財産の生前贈与を要求し、与えられた。岡本牧師はその時点で弟は「自らの心の中で父を殺したのです」と記される。そして、父の近くにいる事自体が苦痛だったのか、父の見えない遠い国に旅立った。「父を殺した彼はそうして完全な孤独という、自分自身の死に直面する事になった」と、岡本牧師は記される。

財産を使い果たし、食べる物にも困り豚の餌を食べてでも腹を満たしたいと思うまでになって初めて彼は父を思い出し、父の元に帰る決断をした。そして、父に言おう「お父さん私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にして下さいと」。これと同じく、受洗も私自身の決断による行為なのですと、岡本牧師は記される。

身も心もズタズタの惨めな姿で帰って来る息子を父は遠くから見つけると走り寄って彼を抱いた。そして彼が用意していた言い訳を遮り「雇い人の一人にして下さい(親子の断絶を解消する)の言葉を言わせる間もなく、元の親子の関係の中に迎え入れた(蘇らせた)のです。」と、解かれる。

息子は確かに自らの決断において父への立ち帰りを果たした。しかしその決意も、息子の帰りを待つ父ありてこそ実を結ぶ決断であった。父が一日も絶えることなく、またひと時も休むことなく、息子の去った方角に目を凝らし続けていたからです。と岡本牧師は記される。

父は僕たちに、息子に上等の服を着せ、指輪を、履物をそして、子牛を屠りなさいと言いつける。そして「この息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに、見つかったからだ(24節)」と、祝宴を始める。一日の労働を終えた兄がそれを目にすることになる。このたとえはまだ続く。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「どこからかガラス砕ける音のして身のうちがわが剥がれる予感 山川仁帆」


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マルコによる福音書  9章14~29節 [マルコによる福音書]

<イエスは言われた。「『できれば』というか。信じる者には何でもできる。」(23節)>

「自分の力ではどうする事も出来ない出来事に突き当たった時、私たちは希望を抱く事を諦めてしまったり、本来の願いから目をそむけてしまいます。そこに希望を見出そうとしても『無駄』だと感じるからです。希望を抱いてみて駄目だった時が怖いからです。」と、中道牧師は話し始められた。

ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われた主イエスが下山され、他の弟子たちのところに来てみると、彼らは群衆に囲まれ、律法学者たちと議論していた。主イエスが「何を議論していたのか」とお尋ねになると、一人の父親が、息子の病を癒してほしいと弟子たちに頼んだが、「できませんでした」と、答えた。

父の願いに添う事が出来ず弟子たちは、群衆からも律法学者たちからも非難されていたのだろうか。「イエスはお答えになった。『なんと信仰のない時代なのか、いつまで、私はあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。』(19節)」

癒しを求め、救いを求め哀願する親子をそっちのけで、議論を続ける律法学者と主イエスの弟子たち、その議論に興味を持ち彼らを取り巻く群衆の姿に主イエスは嘆かれる。「その子を私のところに連れて来なさい」と言われて人々は息子を主イエスのところに連れて来た。イエスのところに連れて来られると、子どもに霊による引き付けが起き、彼は地面に倒れ、転げまわって泡を吹いた。

主イエスが父親に「このようになったのは、いつ頃からか。」とお尋ねになると、父は幼児の頃からで、霊によって火や水の中に何度も投げ込まれたと答えた。そして「おできになるなら、私どもを憐れんでお助け下さい。」と懇願した。「イエスは言われた。『できれば』というか。信じる者には何でもできる。父親はすぐに叫んだ。『信じます。信仰のない私をお助け下さい』(23.24節)」

O牧師は「『信じます』主イエスはこの言葉を引き出すために、御前に父親を断たせたのです。彼が答えざるを得なくなるまで主イエスは迫られます。父の『できれば』の言葉は、彼が神を信じていないことの現れであると主イエスは指摘され、次の言葉へと迫られます。主イエスは私たちにも迫られます。『信じます』という言葉は、主イエスが呼び起こされた父親の心の応答です。」と話された。

息子の癒しだけを願っていた父の祈りが「信仰のない私をお助け下さい」という。自分自身の祈りに変えられた。子どもは死んだようになったが、「しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。(27節)」父の祈りが自身の不信仰を認める祈りへと変えられた時、息子は命を取り戻した。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「小さき子に言ふように言ひ繰り返すそんなに説明されずも解る 大塚洋子」

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ローマの信徒への手紙  6章1~11節

<このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。 (11節)>

5章までは、全ての人は罪人なので神からの栄誉を受ける事が出来ない。ただ神の恵みにより、主を信じる信仰によってのみ義と認められるという事が述べられてきた。そして、今日の6章の書き出しは「では、罪の中にとどまるべきだろうか。決してそうではない。罪に対して死んだ私たちがどうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。(1.2節)」と、始まる。

22節の「罪が増したところには、恵みはなお一層満ち溢れました。(20節)」というパウロの言葉を彼に反感を持つ人々が誤解した。それでは、もっと罪を犯せばいいのかと、皮肉をもって言いだす人がいた。そうではなく、どんなに大きな罪でも、またその罪がどんなに罪深いものであったとしても神の恵みはそれ以上なのであるとパウロは答える。神の恵みの祝福を論争の種にしてはならない。パウロの言葉に反感を覚える人々は、自分たちの都合のよいように解釈しようとしていた。

聖書通読を勧められるが、良く分からない箇所が多く、そのまま読み続けるのだったら、お経みたいだと拒み続ける者に、K牧師は「とにかく聖書をそのまま信じるのです。読み進めるうち、聖書が言う強調点を、メッセージに従って理解する事が出来ていくのです」と、話されるのだが・・・。

反感を持つ人々にパウロは「それとも、あなた方は知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた私たちが皆、またその死に与かるために洗礼を受けたことを。「私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死に与る者となりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです。(3.4節) 」と述べる。

O牧師は「彼らが知らなかった事、それは、クリスチャンはイエス・キリストにつなぎ合わされた存在ですから、主イエスと同じように考え、歩み、生きる者である事を知らないのかとパウロは彼らに言います。私たち一人一人は小さなキリストです。私たちはキリストとつなぎ合わされているので、キリストと同じようになり、同じような体験をする者にされているのです。」と話された。

キリストに結び付けられた者は、キリストと同じように十字架の死を味わう事になるのだ。主と共に十字架につけられた時、罪の体が滅びて、罪から解放されるのだとパウロは訴える。読むだけではすんなり理解できないが、それは自分がどこかで主イエスの弟子になる事を渋っているからだろう。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「遮断機がいつまで待ってもあがらない こちらは吹雪あちらも吹雪 成瀬真澄」


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ガラテヤの信徒への手紙  2章11~21節 [ガラテヤの信徒への手紙]

<わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。(21節)>

「イエスは神の恵みを、共に食事をとるという事を通して示してこられました。それもその当時、罪人として、また小さく見られていた人たちとの食事を通して。異邦人宣教を進めていく中で律法の限界が明白になりました。だからこそパウロもイエスのように、変わりゆく時代に人に寄り添い、神の恵みを分かち合ったのです。」と、中道牧師は書きだされる。

「さて、ケファ(ペトロ)がアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので(11節)」と、書き出される。ペトロはアンティオキア教会に来た当初は割礼を受けていない異邦人キリスト者と食事を共にしていたのに、それに反対の人たちがやって来ると、ペトロは彼らに忖度し、割礼を受けていない異邦人と食事を共にすることを避けた。するとアンティオキア教会の人々もそれを同調するようになった。

そこでパウロは「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活する事を強要するのですか(14節)」と言った。そして「私たちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません(15節)」と言った。異邦人への差別、ユダヤの特権意識、回心する前のパウロはそういう思いを抱いていた。

「けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義として頂くためでした。なぜなら、律法の実行によっては、誰一人として義とされないからです。(16節)」

パウロのこの言葉は、差別的な態度をとっていたユダヤ人キリスト者たちにとって衝撃的であった。なぜなら、それは彼らが今まで築き上げてきたユダヤ人としての自負や誇りを覆すものであったからだ。

O牧師は「私たちはキリストを知る事がなければ、キリストを信じる者へと変えられる事は無かったのです。そして自分が罪人であり、その罪から救って下さる救い主が必要であることも知らなかったのです。そのような者が、神の御前において、罪人ではなく義と認められ、裁きの前で無罪判決が与えられたという事です。主はその独り子を尊い対価として支払って下さったのです。」と説かれた。

「私たちも神の恵みを、キリストの死を無意味なものにしてはいけません。神の恵みを額縁に飾って眺めるのではなく、・・・キリストが示されたように神の恵みを分かち合っていくのです。」と中道牧師は結ばれる。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「ギーギーと鳴いてコゲラは樹をつつく未来はいつもそこにあるから 梅津浩子」


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ガラテヤの信徒への手紙  2章1~10節 [ガラテヤの信徒への手紙]

<ただ、わたしたちが貧しい人たちのことを忘れないようにとのことでした。これは、ちょうどわたしも心掛けてきた点です。(10節)>

「たまに、教会と関係ない方から『その言葉、良いですね』と言われる事があります。それは『憶える』という言葉でありました。この言葉には他者への思いと行動が含まれています。パウロも宣教にあたって、『貧しい人たちのことをわすれないように』心掛けていました。」と、中道牧師は書きだされる。

バルナバは主から啓示を受け、ユダヤ教からキリスト教徒となったパウロを捜しにタルソスに行き、パウロをアンティアキヤに連れ帰った。そこで2人は1年間その地の教会で多くの人々に福音を伝えた。アンティアキヤにはユダヤ人も異邦人もいたが互いの差異に関わらず信徒の交わりが行われ、人々は初めてクリスチャンと呼ばれるようになった。

しかし、エルサレム教会から来た人々は「異邦人も割礼を受けて律法を守らなければいけない」と主張し、教会に混乱が起き始めた。その混乱はガラテヤ教会にも及び「割礼なしには救われない」とする圧力で教会が混乱していた。バルバナとパウロは問題を話しあうためにエルサレムに上った。

パウロが異邦人に宣べ伝えている福音とは「律法から自由な福音」である。もし異邦人キリスト者が割礼を受ける事になれば、割礼、つまり律法からの自由な福音でなくなる。パウロはエルサレム教会の人々に「律法からの自由な福音」を伝える事を認めるように求めた。神がパウロにその福音を異邦人へ告げ知らせるために彼を使徒として立てたのだと、エルサレム教会の人々にはっきり伝え確認した。

そして、パウロの後に来て「救われるためには割礼を」と、ガラテヤ教会の人々を惑わした彼らについて「彼らは私たちを奴隷にしようとして、私たちがイエス・キリストによって得ている自由を付け狙い、こっそり入りこんで来た(4節)」と、糾弾した。

S牧師は「洗礼によって、主イエスの十字架によって、与えられ結ばれた『自由』であります。『律法からの自由』『人間の行いからの自由』です。私たちの救いは律法を守るからでも、割礼を受けるからでもなく、ただ、神の恵みによるのです。彼らが自由を付け狙うというのは、「行い」によって救われるという誘惑に私たちはすぐに陥るからです。キリストに頂いた自由を放棄して行いの奴隷になってはなりません。」と話された。

自分を、家族を、形に入れようとして毎日疲れ果てている者に、自由の深い意味が教えられる。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「大いなる蜘蛛の巣のごとき低気圧わが町を白くして過ぎたり 逢坂みずき」


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