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ゼカリヤ書  8章9~23節 [ゼカリヤ書]

<万軍の主はこう言われる。勇気を出せ。あなたたちは、近ごろこれらの言葉を、預言者の口から、度々きいているではないか。万軍の主の家である神殿の基礎が置かれ、再建が始まった日から。(9節)>

「もしかしたら、神による復興の約束は民には届いていなかったのかもしれません。あるいは、なかなかそれを信じ切ることができなかったようでもあります。そこで神は預言者を通して語りかけられます。『勇気を出せ』と。」と、伊藤牧師は書きだされる。

バビロンから帰還した人々は神殿建設に取り掛かったものの、激しい抵抗に遭い、工事を中断し「主の時はまだ来ていない」と言って、いつの間にか、自分の生活に集中していた。しかし、「人間の働きに報いはなく、家畜も、働きの報いに何の食もなかった。」 民に平安はなく守られていなかった。

S牧師は「これらすべては主が彼らに与えられた注意喚起でした。彼らが主のためでなく、自分たちのために生きていた時、ご自分の所に立ち返るように、祝福と安全を止めておられたのです。」と、話された。何かを願いつつ成し得ない時、「時期尚早」と神が言われているのだと自分で結論付けすぐに諦めてしまう。その成し得ない原因は神からの注意喚起だと捉えなければと反省した。

S牧師は続けて「主は私たちが霊的に満足するのでなく、成長するのを願っておられます。ですから、何か問題が起こっていたら、感謝しましょう。試練があったら喜びましょう。実際には喜べませんが、私たちが心砕かれた時に、実は喜べることが分かります。これらの事を通して、自分がさらにキリストの似姿に変えられる事を知るからです。」と話された。

「ユダの家よ、イスラエルの家よ。あなたたちはかつて諸国の間で呪いとなったが、今や私が救い出すので、あなた達は祝福となる。恐れてはならない。勇気を出すがよい。(13節)」

かつてのユダヤの人々は口では主を崇めているように振舞いながら、一向に自分たちの行いを悔い改めなかった。そして彼らが滅び、死ななければというところまでになってしまった。その期間が70年であった。そして主がこれから彼らに回復の業を始められる。新しい世代を通して、これまでの過ちを繰り返すことのないよう強く戒めて、新しいことを成そうとされる。

そして、真の断食は、エルサレム崩壊を嘆く形式だけの断食ではなく「正しい裁き、誠実、憐れみ、平和」が与えられた「楽しみと喜び」の断食でなければならない。与えられるエルサレム回復の預言は、物理的な回復のみならず、霊的な回復なのだと、7章の「断食問題」に答えが与えられる。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「指弾きで一音一音確かめてイーグルス弾く青春の曲 中村真一郎」


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ゼカリヤ書  8章1~8節 [ゼカリヤ書]

<万軍の主はこう言われる。わたしはシオンに激しい熱情を注ぐ。激しい憤りをもって熱情を注ぐ。主はこう言われる。わたしは再びシオンに来て、エルサレムの真ん中に住まう。エルサレムは信頼に値する都と呼ばれ、万軍の主の山は聖なる山と呼ばれる。(2.3節)>

「ここからは、エルサレムの復興を約束される神の言葉が語られます。冒頭に出てくる『激しい憤りをもって熱情を注ぐ』という御言葉は、とても鮮烈な響きを持っています。激しい憤りと熱情は本来ならば相反する言葉ですが、神のイスラエルに対する思いはその両方を秘めています。」と、伊藤牧師は書きだされる。

「真にわたしのために断食して来たか」と、問われる主なる神からの答えが7章に続いて記される。「万軍の主は言われる」と言う言葉が繰り返され、主なる神がイスラエルに注がれる祝福が告げられる。

まず、主は激しいほどの熱情をもってシオンを愛されているという宣言である。次の祝福は、主は再びシオンに来て、エルサレムの真ん中に住まわれる事。そして第3の祝福は、エルサレムの広場に若者や老人が溢れ、広場が笑いに満ちるという事。また、その時になって、残りの民が見て驚く事。5番目の祝福は世界中から神の民を救いだし「彼らを連れて来て、エルサレムに住まわせる」と言われる。

エルサレムが外国の民によって蹂躙されるのを、主はどの様な心境で見ておられたのかとO牧師は話される。「主は確かに、イスラエルとユダに裁きを下されました。けれども、主が彼らへの愛を失くされたからの事ではありません。その反対で彼らに対する激しい言葉が記されるエレミヤ書は、エレミヤの涙、主ご自身の涙に満ちて、彼らに対する主の深い愛、妬むほどの愛を知らされます。」と話された。

エルサレムは今でも東西南北どこからも上り坂になる山の上にある。エルサレムの町の中で「シオン」は、「ダビデの町」と呼ばれ、今はイスラエル教の岩のドームが建つ神殿の丘があるが、その南に位置する丘にダビデが作った町である。

かつては老いも若きも集うエルサレムであったが、この当時はすっかり荒れ果て、多くの民は世界各地に離散して人影もなかった。そのような中で主は言われる。「彼らを連れて来て、エルサレムに住まわせる。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは真実と正義に基づいて、彼らの神となる」と。

難しくて良く分からないが、それが今、パレスチナの人々を排斥するイスラエル国家なのだろうか。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「息継ぎのように冷たい部屋を出て血を巡らせる数分ほどを 橋本恵美」


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ゼカリヤ書  7章1~7節 [ゼカリヤ書]

<「国の民すべてに言いなさい。また祭司たちにも言いなさい。五月にも、七月にも、あなたたちは断食し、嘆き悲しんで来た。こうして七十年にもなるが、果たして、真にわたしのために断食して来たか。」(5節)>

「大祭司ヨシュアの戴冠から2年がたちました。まだ、神殿は再建の途中です。そんな折に、5月に断食を行うかどうかという質問が預言者に寄せられます。『第五の月』はバビロニアによってエルサレム神殿が破壊された月です。彼らはこの出来事の痛みを忘れないようにするため、断食を行っていたのです。」と、伊藤牧師は書きだされる。

ペルシャのダレイオス第4年、最初の幻が与えられて2年が過ぎた。再建工事は様々な困難はありながら全体につつがなく進んでいた。7.8章はこのような時に語られたものである。

ペテルはサル・エツェルとレゲム・メレクおよび彼らの従者を遣わして、これまで守って来た第5の月の断食を守り続けるべきかどうかと、主の祭司と預言者に質問させた。ペテルは、エルサレムの北19kmの所にあり、かつての北イスラエルの礼拝の中心地であった。

第5の月の断食とは、70年前にエルサレムがバビロンによって占領され、神殿も王宮も焼き払われてしまった事を悲しんでの断食であった。しかし、いまやエルサレム神殿が完成間近かになり、それでも断食を続けるのかというものであった。バビロン捕囚の中でも、また、帰還してからも人々はこの断食を固く守っていた。

「あなたたちは断食し、嘆き悲しんで来た。こうして70年にもなるが、果たして、真にわたしのために断食して来たか。(5節)」と主は彼らに問われる。その断食は、エルサレムの崩壊と焼失を通して示された神の裁きを誠実に受け止めての悔い改めの断食であったのかと問われるのであった。

ゼカリヤに主の言葉が臨んだ。「万軍の主はこう言われる。正義と真理に基づいて裁き、互いにいたわり合い、憐れみ深くあり、やもめ、みなしご、寄留者、貧しい者らを虐げず、互いに災いを心に企んではならない。」 しかし、彼らは耳を傾けず、頑なに背を向け、心を石のように硬くして、聞こうとしなかった。「こうして万軍の主の怒りは激しく燃えた。(12節)」

いつの間にか、自分のための礼拝や祈祷会になり、礼拝し、主に祈る、という原点を忘れているのではないかと主は問われる。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「朝に湧き夕べ降るごとヒグラシの裏山に鳴きひと日を仕舞う 坪井睦彦」


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ゼカリヤ書  5章1~11節 [ゼカリヤ書]

<彼はわたしに答えた。「彼女のため、シンアルの地に神殿を築こうとしているのだ。神殿が整えられるとその地に備えられた場所に置かれるはずだ。(11節)>

「第6の幻に出てくる巻物には『盗人』と『偽って誓う者』の名前が記されています。これは十戒の掟に背く行為であり、他の全ての罪を代表しているのかもしれません。偽って神に誓うことは神への冒涜であり、そうした人には特に厳しい裁きがもたらされるのです。」と、9月の「日毎の糧」担当、北海道・興部伝道所 伊藤大道牧師は書きだされる。

5章3節、6節、6章5節で第6、第7、第8三つの幻は、いずれも「出て行く」と言う言葉が用いられ、神のもとからすべての事柄が発している事が示される。ゼカリヤは空を飛ぶ大きな巻物をみた。それは、巻かれたままでなく、紐解かれていて長さ8㍍、幅4㍍を越える大きな巻物であった。巻物には律法の呪いの言葉が記され、全地に向かって飛び出て行っていた。

それは、特に隣人の物を盗んだり、偽って誓い、神を侮辱する者たちに対する神の裁きの宣言で満ちていた。この巻物は盗人や偽りの誓いを立てる者の家に入り、そこに留まり「梁も石ももろともに滅ぼし尽くす(4節)」 律法を破る者には厳しい裁きがあることを示す、イスラエルの霊的刷新を進めようとするゼカリヤへの励ましの幻であった。

次に見たものはエファ升(約22㍑の升)であった。イスラエルの民は日常的にエファ升を用いていた、エファ升の鉛の蓋には「これは全地にある彼らの罪だ」と記されていた。鉛の蓋を開けると1人の女が座っていた。み使いはそれを「邪悪そのものである」と言って、女をエファ升に投げ返し、鉛の重しを置いた。そこに2人の翼を持った女が風を受けて出てきて、エファ升を運び去ろうとしていた。

「彼女たちはどこへもって行こうとしているのですか」とゼカリヤが問うと、彼は「彼女のため、シンアルの地に神殿を築こうとしているのだ。神殿が整えられるとその地に備えられた場所に置かれるはずだ。」と答えた。

伊藤牧師は「『翼をもつ二人の女』がシンアルの地にその升を運びます。シンアルはバベルの塔が建てられた地です。神の裁きの前に、再びかつての傲慢さや偶像礼拝による悪が、この地に集められようとしているのです。」と結ばれる。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「核弾頭と電気ポットの大きさは同じくらいと教えてもらふ 福井まゆみ」


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ゼカリヤ書  4章1~14節 [ゼカリヤ書]

<誰が初めのささやかな日をさげすむのか。ゼルバベルの手にある選び抜かれた石を見て、喜び祝うべきである。その七つのものは、地上をくまなく見回る主の御目である。(10節)>

「どんな困難な事でも、それを成し遂げるためには、『初めのささやかな日』から始めなければなりません。神殿再建という大事業も、まさに難題山積の『大いなる山』そのものでしたが、初めに為すべきことは1つでした。それは、廃墟となっていたエルサレム神殿の瓦礫の山から『親石』を取り出す事でした。」と、高多牧師は書きだされる。

「何を見ていたのか」と主は眠っていたゼカリヤに問われ、彼は見ていた夢を答えると「主よ、これは何でしょう」と尋ねた。主は「これが何かわからないのか」と言われる。このやり取りが主へのゼカリヤの親しみ、信頼が感じられる。彼はどんな時も祈り求めれば主が答えて下さると信じていた。

神殿再建は、ペルシャ帝国からはユダヤの独立運動を厳しく監視され、他民族からは横やりが、加えて目の前の瓦礫。ダビデの家系にあるゼルバベルと祭司の系統をひくヨシュア、2人の指導者に障害は山積していた。神の民を託された2人の働きは、イスラエルの再建に繋がっていくのだろうかと人々は不安を感じていた。その時にゼカリヤに語られた主の御言葉と幻が今日の個所である。

「武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。大いなる山よ、お前は何者か。ゼルバベルの前では平らにされる。彼が親石を取り出せば、見事、見事と叫びがあがる。

ゼルバベルの手がこの家の基を据えた。彼自身の手がそれを完成させるであろう。こうして、あなたは万軍の主がわたしを、あなたたちに遣わされたことを知るようになる。誰が初めのささやかな日をさげすむのか。ゼルバベルの手にある選び抜かれた石を見て、喜び祝うべきである。その七つのものは、地上をくまなく見回る主の御目である。(9.10節)」

神殿のもっとも大切な親石が基となって据えられる。その初めのささやかな日を誰が蔑むのか。「わたしの霊はあなた方の中にとどまっている、恐れてはならない。幻に見る7つの灯皿は、地上をくまなく見回る主の目である。」と主は励まされる。

また、幻の燭台の左右にある2本のオリーブの木は、絶える事なく燭台へ油を注いでいた。それは「全地の主のみ前に立つ、2人の油注がれた人たちである。」と、み使いは言った。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「筆圧の強き文字(もんじ)を生み出だす縦長の爪持つ君の指 千野みづき」


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