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出エジプト記 15章12~21節 [出エジプト記]

<あなたが右の手を伸べられると、大地は彼らを呑み込んだ。あなたは慈しみをもって贖われた民を導き、御力をもって聖なる住まいに伴われた。 (12.13節)>

「イスラエルの民は、主に守られて葦の海を渡ることができました。救いの御業をたたえつつ、感謝をもって、イスラエルの民はいよいよ神様が約束して下さった地に向けて旅立ちます。」と、宮本牧師は書き出される。

エジプト脱出の喜びもつかの間、ファラオの軍勢は猛然と追撃をかけて来た。背後から迫ってくるエジプト軍に逃げ場なく、追い詰められたかに見えた葦の海で人々は「主がエジプト人に行われた大いなる御業を見た。(14勝31節)」 15章でモーセとイスラエルの民は、主を賛美して歌う。

神はただ力ある方であるというだけでなく、「あなたは慈しみをもって贖われた民を導き、御力をもって聖なる住まいに伴われた。」と歌う。「慈しみ」の原語は、ただ恵みというだけでなく、神の契約に基づく「恵み」の事で、神はアブラハムとの契約を覚えておられ、その約束を忠実に守って下さるお方だと歌う。彼らはここでその事を思い起こし、将来への希望を見る。

「あなたは彼らを導き、嗣業の山に植えられる。主よ、それはあなたの住まいとして、自ら造られた所。主よ、御手によって建てられた聖所です。(17節)」と。

主がファラオの馬や戦車を海の中に沈めた時、イスラエルの民に海の真ん中の渇いた地面が与えられた時、アロンの姉である女預言者ミリアムが、踊りながら主を賛美した。彼女はただ歌ったのではなく、タンバリンを手に取ると、女性たちもみなタンバリンを持ち踊りながら彼女に続いた。

ミカ書「私はお前をエジプトの国から導き上り、奴隷の家から贖った。また、モーセとアロンとミリアムをお前の前に遣わした。(6章4節)」と、モーセとアロン同様、ミリアムも重要な働きとして主が用いられていたことが分かる。モーセ、アロン、ミリアムは、イスラエルの民を指導する立場にあったが、常に彼らは主をたたえ、心から賛美していた。それは、指導者にとって特に必要とされることであった。

「主は、慈しみをもってイスラエルの民を「買い取られた民(16節)」、主の民とし、約束の地まで伴って下さるのです。私たちもイエスの恵みによってキリストの体なる教会に招かれた『慈しみをもって贖われた民』であり、神の民として『聖なる住まい(13節)』へと導かれ歩むのです。」と、宮本牧師は結ばれる。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「手を振ってさよならしても動かない馬にも寂しき思いあるかな 望月淑子」

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出エジプト記 13章3~10節 [出エジプト記]

<あなたはこの日、自分の子供に告げなければならない。「これは、わたしがエジプトから出た時、主がわたしのために行われたことのゆえである」と。あなたは、この言葉を自分の腕と額につけて記憶のしるしとし、主の教えを口ずさまねばならない。主が力強い御手をもって、あなたをエジプトから導き出されたからである。(9節)>

「主イエスが十字架へと歩みを進める受難週、ユダヤ教の『過越祭』が祝われます。イスラエルの民は過越の祭りを守る事を通して、出エジプトの解放の恵みを想起します。続く7日間の『除酵祭』は、酵母を入れないパンを食べ、主の教えを口ずさむことが命じられます。」と、宮本牧師は書き出される。

イスラエルをエジプトの地から導き出された時、主は「すべての初子を聖別してわたしにささげよ。イスラエルの人々の間で初めに胎を開く者は全て、人であれ家畜であれ、わたしのものである。(2節)」と仰せになった。出エジプトの夜、鴨居と2本の門柱に塗られた小羊の血を目印にイスラエルの初子は主によって贖い出されたので、初子は神のものであり、神のために聖別されなければならないのだ。

モーセは民に「あなた達は、奴隷の家、エジプトから出たこの日を記念しなさい。主が力強い御手をもって、あなた達をそこから導き出されたからである。酵母入りのパンを食べてはならない。あなたたちはアビブの月のこの日に出発する。」と、彼らが約束の地に入った後で守るべき事を命じる。「アビブの月」とは、大麦の初穂の取れる時期である。

7日間、酵母の入っていないパンを食べ、「過越祭」の意味を子供たちに教えなければならないと。さらにこの言葉を自分の腕と額につけて記憶のしるしとし、主の教えを口ずさねばならないと命じた。ユダヤ教の人々は「テフィリン」と呼ばれる聖句箱を額の上と左腕に申命記に記されているように括り付けていた。

けれども、主イエスはファリサイ派の人々のこの習慣の背後にある偽善を「そのすることは、全て人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。(マタイ書23章)」と指摘される。

「御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったかすぐに忘れてしまいます。しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れる人ではなく、行う人です。(ヤコブの手紙1章)」

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「山頂に至れば彼方に海見ゆと決めて眺めて瀬戸内育ち 高橋ひろ子」


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