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申命記 5章6~21節 [申命記]

<「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。(6.7節)」>

祈祷会・聖書研究会で十戒を学びはじめ、今日は前回の前文に続いて第一戒に入る。参考図書として、吉祥寺教会吉岡光人牧師編「信仰生活ガイド 十戒」が取り上げられた。今日は、東北学院大学名誉教授浅見定雄氏著「第一戒 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。<真の神とは誰を救い、誰を守るのか>」を読んだ。

荒野の40年も終わりを迎え、神の約束の地「乳と蜜の流れる地」をイスラエルの民は目の前にする。彼らの父母の多くはその地を目指しながらも、約束の地を目にすることなく、荒野で命を絶えていた。今、モーセが再度語る十戒を聞くのは、出エジプトを果たした民の子や孫であった。

モーセが十戒を語る、その前提となっているのは、イスラエルをエジプトの国、奴隷の家から導き出されたのは主なる神だという事実である。律法はそれを行って救われるのでなく、エジプトから救い出され贖われた者が、その贖いを成して下さったお方の命令として行うのである。だから、罪贖われた者でなければ、律法を行う事は出来ないのである。この戒めのベースにある「神の愛」が語られる。

自分の両親は、竈には火の神、井戸には水の神の御札を貼っていた。お正月と夏祭りは縁日が好きで友人と何度も詣で「成績が上がるように」と小銭を投げた。何の神がおわすのか考えた事もなかった。父が亡くなると祥月命日ごとにお坊さんがお経をあげに自宅に来られ、僅かなお礼を受け取ると、そそくさと帰られた。神主さんやお寺のお坊さんと話した記憶はない。

それを聞いていたKさんも自分の実家もそうだったと言われた。そういう程度なので信仰心ではなく「安心感」を求めていたに過ぎないのではないだろうか。K牧師は「ここで『ほかに神が・・・』と言われているのは、イスラエルの人々の生活の中にも多くの神々が入り込んでいたのでしょう。そのことを十分知りつつ、『私は生きてあなたと共に歩んでいる』と主は言われるのです。」と、話された。

約束の地に定住したイスラエルであったが、その周囲の国々は様々な神々を拝み、イスラエルはその影響を受け続けた。その神々は、支配者の味方ばかりして『弱者、孤児、苦しむ人、貧しい人』を守ることはなかった。侵攻に賛成するロシア正教とプーチン大統領の結びつきがその例だ。

「大事なのは、真の神とはどんな人々を救い守ろうとする神なのか。第一戒は、前文の精神と結び付けてその事を私たちに問いかけているのだと思います。」と、浅見氏は結ばれる。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「逆光に表情みえずとりあえず頷いているロイヤルホスト 中山悦子」


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申命記  30章10~20節 [申命記]

<わたしが今日命じるとおり、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなたは命を得、かつ増える。あなたの神、主は、あなたが入って行って得る土地で、あなたを祝福される。(16節)>

イスラエルはBC587年バビロン捕囚となり、その70年後解放され、エルサレムに帰還する。またAD70年にはローマによって神殿は崩壊され、ユダヤ人は全世界に離散した。1900年代になりシオニズム運動によって散らされていたユダヤ人がカナンの地に戻り、1948年5月イスラエル共和国が建国された。1900年もの間、国を失い流浪していた民族が再び国を興した。これは旧約の預言の成就だとされた。

K牧師は「けれども、ユダヤ人は主イエスを救い主として信じておらず神の救いを受け入れていません。彼らが主を受け入れるのは、主イエスが再臨される時です。その時、悔い改める彼らに、御霊が注がれて、彼らは新たに生まれることになります。」と話された。

「モーセはイスラエルのすべての人にこれらの言葉を告げた。それは、ヨルダン川の東側にある荒れ野で・・・スフに近いアラバにおいてであった。(1章1節)」と書き出される申命記はBC7世紀に荒野の40年の終わりを迎えたモーセが、ヨルダン川を前に、約束の地カナンを望み、記したとされている。

戒めをすべて行うようにと命じたモーセは「この戒めは難しすぎるものではなく、遠く及ばぬものでもない」と断言する。そして、それは天にまで上ったり、海のかなたに渡ったりして取って来なければ聞くことが出来ないものではない。「み言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行う事ができる」と言った。そして、

「見よ、私は今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く(15節)」 どちらを選ぶのかと二者択一を迫る。主の道に歩み、主の命令と掟を守るなら祝福され、反対に聞き従わず、他の神々を拝み、それに仕えるなら滅び失せ、彼らが入ってゆく地で長く生きることは出来ないと告げる。

その選択を委ねられた者はもちろん「命と幸い」を選ぶ者とされているのだが、しかし自分の欲望に負けてしまうのだ。K牧師は「私たちの肉の力では、こうした選択をする力はないのです。私たちの心は罪に支配されているからです。けれどすでに主の十字架によって、私たちは罪から解放されているのです。だから、聖霊によって『命』を選ぶことが出来るのです。」と、話された。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「デーサービス果てたるのちを送られて看視のなかに玄関を閉ず  尾形貢」


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申命記  8章1~11節 [申命記]

<今日私が命じる戒めをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたたちは命を得、その数は増え、主が先祖に誓われた土地に入って、それを取ることが出来る。 (1節)>

申命記と平行にして『増田琴編 <信じる生き方>』の中の『毎日の楽しい聖書』を読んで祈祷会は始まった。

荒野の40年、モーセは何度も、主がイスラエルに命じられる全ての命令を守り行うようにと、民に命じた。しかし、彼らは従がおうとはしなかった。そのために主は彼らが歩んだ道を思い出させられる。そこには多くの困難、試みがあり、飢餓もあった。「いったいなぜそのような苦しみがあったのでしょうか。それは彼らが主の命令を守るかどうか、彼らの心のうちにあるものが何であるかを知るためでありました。」と、K牧師は話された。

それは、苦しみの中にあっても主により頼むなら、主が助け導いて下さる事を知るためであり、「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる事をあなたに知らせるためであった。(3節)」と、「あなたたち」ではなく「あなた」とストレートに私に向かって言われる。

ヤコブの手紙1章では「いろんな試練に出会う時は、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなた方は知っています。あくまで忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。(2.3.4節)」

出来るなら試練を避けたいと思うが、その試練を通して学び、それを乗り越えることによって、成長を遂げることが出来るというのは、例えばスポーツ選手などが挫折を通してより強くなったという話があるけれど、それと違うのですとK牧師は話された。「私たちは苦しみにある時こそ信仰によって、全能の神により頼むのです。イスラエルの荒野の40年、私たちの人生もそういう歩みなのです」と。

何一つ足りないものがない地に、私たち一人一人を確実に主は導いて下さる。K牧師は「目の前の問題に惑わされず、すでに希望の光が与えられている事を信じるのです。」と話された。

祈祷会に出席された元牧師夫人は、旧、新約聖書を1カ月かけて通読された。理解できない個所もあったが、とにかく読み通したら、牧師夫人という重圧から、解かれたような気がしたと話された。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「向日葵のいたく平たき横顔になまあたたかき風 夕立来る  篠野京」

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