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エゼキエル書  44章4~9節 [エゼキエル書]

<主なる神はこう言われる。心に割礼を受けず、体にも割礼を受けていない全ての外国人、すなわちイスラエルの子らの中に住んでいるすべての外国人は、わたしの聖所に入ってはならない。(9節)>

「エゼキエルに、すべての外国人は、わたしの聖所に入ってはならないという掟が与えられました。これはかつて、本来レビ人がなすべき神殿の下働きを外国人にさせて、与えられた律法を破り、主を軽んじた事に起因します。」と、竹井牧師は書きだされる。

東に面した門は閉じられていた。しかし、君主だけは主の前で食物を食べて良いが、それでも門の廊から出入りしなければならなかった。それから、北の門を通って神殿の前に連れて行かれた。主の栄光が主の神殿を満たしていた。

主は「人の子よ、わたしがあなたに主の神殿に関して語るすべてのこと、そのすべての掟とすべての律法に心を留め、自分の目で見、聞きなさい。特に神殿に入ってよい者と、聖所から排除すべき者すべてに注意しなさい。」とエゼキエルに告げられた。外国人を排除し、彼らに代わりレビ人が神殿奉仕者また門衛としての責務を果たすよう命じられる。

竹井牧師は「神はご自分のもとに来る異邦人に対して『主に仕え、主の名を愛し・・・私の契約を固く守るなら・・・私の祈りの家の喜びの祝いに、連なる事を許す(イザヤ書56章)』と、語られています。このみ言葉も共に受け止める時、すべての民を招かれる主を知らされます。」と記しておられる。

「それゆえ、私は手を上げて誓う、と主なる神は言われる。彼らは自分の罪を負わねばならない。彼らは祭司として私に仕えるために近づくことは出来ない。また、最も神聖な私の聖なるいかなるものにも触れることは出来ない。彼らは自分の犯した恥ずべきこと、忌まわしい事の責任を負わねばならない。私は彼らを神殿の雑務を行う者とし、神殿で行われる様々な仕事を与える。(12~14節)」

レビ人はイスラエルが迷った時、神から離れた。彼らは民の偶像礼拝を助け、イスラエルの家のつまずきとし罪を犯させた。イスラエルの子らが迷って主から離れた時、聖所を守り、主に近づき仕えたのはレビ人の祭司であるツァドクの子孫だけであった。それゆえツァドクの子孫だけは、祭司として聖所の奉仕をすることを許された。

神の民を指導する祭司たち。彼らは財産を持たず、嗣業を持たない、主ご自身が彼らの嗣業であり、彼らの財産であると言われる。彼らが忠実に仕える時、豊かに神は答えて下さる。ペトロの手紙では、私たちクリスチャンも、聖なる祭司であると言われている。また、主イエスは「必要な物はすべて与えられるのだから、あなた方は神の国とその義を第一に求めなさい」と命じられている。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「夏至の雨みゃくみゃくと太くなりゆくを日暮のバスの車窓に眺む 高松沙都子」


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エゼキエル書  43章1~9節 [エゼキエル書]

<今、わたしのもとから、淫行と王たちの死体を遠ざけよ。そうすれば、わたしは彼らの間にとこしえに住む。(9節)>

「40章から始まる新しい神殿の幻の中でエゼキエルは、輝く神の栄光が東の方からやって来て、神殿の中に入っていくのを見ました。神殿の中には神の栄光の輝きを遮るものは何もなく、その輝きが神殿を満たしていました。」と、竹井牧師は書きだされる。

40章は「我々が捕囚になってから25年、都が破壊されてから14年目…主の手が私に臨み、私はそこへ連れて行かれた。神の幻によって私はイスラエルの地に伴われ、非常に高い山の上に下ろされた。その南側に都のように建設された物があった。」と始まる。主がエゼキエルをそこに連れて行かれると、手に麻縄と測り竿を持った人が門の傍らに立っていた。

その人は「私がこれから示す、すべての事を心に留めなさい。あなたがここに連れて来られたのは、それを示すためです。あなたが見る事を、すべてイスラエルの家に告げなさい。」と言って、神殿のあらゆるところを採寸しながらエゼキエルを連れて回った。

彼がエゼキエルを東の方に向いてる門に導くと、神殿を主の栄光が満たした。主ははエゼキエルに「人の子よ、ここはわたしの王座であるべき場所、わたしの足の裏を置くべき場所である。わたしは、ここでイスラエルの子らの間に永久に住む」と告げられた。エゼキエルは10章で、主の栄光がケルビムに乗って、エルサレム神殿を離れる幻をみた。エルサレムの背きの罪のゆえ神殿を離れられたのである。

神ならぬものを信仰する偶像礼拝、またエジプトの力を頼りとした背きの罪を重ねエルサレム神殿は汚れたものとなった。「二度とイスラエルの家は、民も王たちも、淫行によって、あるいは王たちが死ぬとき、その死体によって、わが聖なる名を汚す事はない」と、言われる。罪に汚れたエルサレムは陥落、神殿は破壊され、町は火で焼かれてしまった。

エルサレムを離れた主の栄光が、再び神殿に満ちる幻が与えられたという事は、主なる神がイスラエルの都としてエルサレムを選ばれたという事であり、そこに立つ建物こそ主を礼拝する神殿とされたということである。イスラエルの民のエルサレム帰還の夢がかなう事を主は示された。

K牧師は「主の愛と憐れみに感謝致します。罪を重ねる私たちのために、主ご自身が贖いの献げ物として主イエス・キリストを献げられました。その祭壇はキリストの架けられた十字架です。」と説かれた。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「陽ざかりをぽくぽく帰る一年生ふいにしゃがみて虫穴のぞく 深堀英子」


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エゼキエル書  39章22~29節 [エゼキエル書]

<それゆえ、主なる神はこう言われる。今やわたしはヤコブの繁栄を回復し、イスラエルの全家をわが聖なる名のゆえに熱い思いをもって憐れむ。(25節)>

「バビロンの大軍勢に都が蹂躙され、人々は捕囚とされ、神の民はボロボロでした。それはすべてイスラエルの汚れと罪に対して、神が御顔を隠されたからでした。神の民にとって一番の危機は、大軍勢を誇る敵ではありません。もはや神が民を忘れ、御顔を隠してしまわれるそれが何よりもの危機です。」と、竹井牧師は書きだされる

S牧師は「38章の『マゴグ』は地名で、『ゴグ』は個人名とされて、ヨハネの黙示録にも登場します。エゼキエルは『ゴグ』を、パレスチナの北方民族としてイメージしているようです。エゼキエルは地上に実在の民族というよりは、神話的・終末的な存在として『ゴグ』を用いています。神に滅ぼされたゴグの軍勢は、その罪ゆえに野生動物の餌食となるなど、幻、黙示文学的に記されています。」と話された。

バビロニアによって祖国は滅ぼされ、ソロモン王が築いたエルサレム神殿は瓦礫となり、ユダ王国の大半の民が捕囚となってバビロンに連行された。この出来事はユダの人々にとって「神が顔を隠された」という出来事に他ならなかった。バビロニア帝国はあまりに強大で、軍事力、財力、国力もユダの敵ではなかった。主なる神ではなく、異教の神々を仰ぎ、自分を神としたイスラエルを神は敵の手に渡された。

しかし、王国壊滅、神殿崩壊、捕囚という「神が顔を隠される」悲惨な経験を通して「イスラエルの家はわたしが彼らの神、主であることを知るようになる。(23節)」と、主は言われる。

イスラエルの民にとって一番の危機は、周囲の軍事力ではなく「もはや神が我々を忘れ、御顔を隠された」という思いを持つ事である。カナンの土地は神の恵みの賜物であり、そこから離れれば、イスラエルの民は神の民とは言えず、どこにも関わりのない神とは無縁の者となるのである。彼らのアイデンティティは、ただ主なる神にあるのだから、それを失えば離散し、民として消滅するしか道はない。

エゼキエルはこの危機を乗り越えるために、捕囚の民に語りかけ励ましを与える。捕囚とされ長くバビロンにいるうちにバビロンに同化してしまおうとする誘惑を跳ね返すのは容易ではなかった。しかし、黙示という表現によって、民の心の深層に主なる神のヴィジョンを刻印し続けた。彼の試みは538年、キュロスの布告により実現し、人々は捕囚から解放され、520年エルサレム神殿再建に至る。

「この事によって『イスラエルの家は私が彼らの神、主であることを知るようになる(22節)』 罪深い者たちをも憐れみ、救いの中に招き入れて下さるのが、私たちの神です。」と、竹井牧師は結ばれる。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「村人の祈り集めし道祖神手向けの花なくいま街なかに 出岡学」


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エゼキエル書  38章10~23節 [エゼキエル書]

<ゴグがイスラエルの地を襲う日、まさにその日に、と主なる神は言われる。わたしの憤りは激しく燃え上がる。 (18節)>

「神はマゴグの地のゴグに対して『お前はわが民イスラエルに向かって、地を覆う雲のように登って来る』と預言されました。象徴的なイスラエルの敵としてゴグは描かれます。さらにこのことは『終わりの日に起こる』と語られます。」と、竹井牧師は書きだされる。

主なる神は、36章ではイスラエルの山々に木を生えさせ、実を結ばせ、町々を建て、人々を増やすと約束された。そして37章では捕囚となった人々がまるで干からびた骨のように打ちひしがれ、絶望しているのを憐れまれ、イスラエルを国として復興する事を約束された。しかし、土地が回復し、国が復興した豊かで平安な国に対して、終わりの日にゴグを筆頭とする多くの国々がイスラエルを雲のように攻め上って来るという預言が38.39章に記される。

「お前は、わが民イスラエルが安らかに暮らしている時、いきり立つのか。お前は北の果ての自分の所から、多くの民を伴って来る。彼らは皆、馬に乗っている大集団、大軍団だ。お前はわが民イスラエルに向かって、地を覆う雲のように登ってくる。そのことは、終わりの日に起こる。私はお前を、私の地に連れて来る。それは、ゴグよ、私が国々の前で、お前を通して自分の聖なることを示し、彼らが私を知るようになるためである。(14~16節)」 主なる神はエゼキエルにこの言葉を告げよと命じられた。

「彼らが私を知るため」と、ゴグのイスラエルへの侵略が神の御計画である事が強調される。「彼ら」とは侵略者たちの事であると思うが、平安になり安心して暮らす中で、神を見上げる事を疎かにするようになったイスラエルの民への警告だともとれる。

「ゴグがイスラエルの地を襲う日、・・・私の憤りは激しく燃え上がる。(18節)」 その日にはイスラエルに大地震が起こる、山々は裂け、崖は崩れ、城壁は倒される。また、人はおのおの、剣をその兄弟に向ける。そして、疫病と流血、大雨、雹、火と硫黄によって彼を裁くと言われる。エジプトに対する災いやソドム、ゴモラが思い出される。

「わたしは自らの偉大さと聖とを多くの国々の前に示す。そのとき、彼らはわたしが主であることを知るようになる。」

毎日、報じられるウクライナの惨状に重なる今日の個所。神による一日も早い解決を祈っている。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「夜になってずっと暑くてフラフープみたいに桃がひろがるにおい 椛沢知世」


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エゼキエル書  36章16~32節 [エゼキエル書]

<わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊をおく。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。(26節)>

「今イスラエルが、捕囚という厳しい裁きのなかに置かれたのは、神の恵みを忘れ、掟と法とを軽んじ、偶像崇拝の罪をおかしたからでした。そしてこの捕囚の出来事は、周辺諸国に対して聖なる神の名を汚してしまうものでした。神はご自分でこの名を聖なるものへと回復されます。」と、竹井牧師は書きだされる。

ユダ王国はバビロンによって滅ぼされたのだが、それは主の裁きによるものであった。彼らは主が約束され与えられたカナンの地から追放され、捕囚となってバビロンに連行された。そうなったのは彼らが神との契約を守らず、殺戮と偶像礼拝の罪を犯したからであった。しかし、バビロンの人々は、バビロンの神々がイスラエルの神に勝利したと考えていた。

「主は遠く地の果てから一つの国民を、その言葉を聞いた事もない国民を、鷲が飛び掛かるようにあなたに差し向ける。(申命記28章49節)」また「主は、かつてあなたたちを幸いにして、人数を増やす事を喜ばれたように、今は滅ぼし絶やす事を喜ばれる。あなたたちは、あなたが入って得る土地から引き抜かれる。主は地の果てから果てに至るまで、全ての民の間にあなたを散らされる。あなたは先祖も知らなかった、木や石で造られた他の神々につかえるようになり・・・(同63.64.65節)」

主の御声に聞き従わないなら、このように呪われると申命記は記す。イスラエルの壊滅は民が主の戒めと掟に背いたからであった。しかし、イスラエルの民が散らされた諸国の人々は、イスラエルの神は自分の民を自分の土地に住まわせることができない無力な神であると考えた。

「それは、聖なる神のみ名を汚してしまうものでした。神はご自分でこの名を聖なるものへと回復されます。それはイスラエルの不信仰で頑なな石の心を取り除き、肉の心と新しい霊を与えて下さることによって成し遂げられます。」と、竹井牧師は説かれる。

「わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。(27節)」 今も昔も、神に従い得ない貧しい者を、主は繰り返し悔い改める者へと導いて下さる。

ユダ王国崩壊は、人間は神の掟に従って歩めない者である事を明らかにした。イスラエルの民は、モーセによって出エジプトを果たし、シナイ山で神と契約を結んだ。その時も約束の地に入る時も、民は「私たちの神、主に私たちは仕え、その声に聞き従います」と言ったのだが、虚しいものであった。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「ウーパーの配達員が公園でタッパー入りの弁当開く 音平まど」


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