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マタイによる福音書 27章27~56節 [マタイによる福音書]

<三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(46節)>

「主イエス・キリストが十字架につけられた時、人々は『今すぐ十字架から降りて来い。そうすれば信じてやろう』と主イエスを侮辱しました。この人々の嘲りは『荒れ野の誘惑』の悪魔の問いかけに似ています。悪魔が人々の中に入って、主イエスを誘惑しているのです。」と、横井牧師は書きだされる。

「パウロが『私は福音を恥としない』と言った福音とは、十字架につけられた主イエス、三日目に蘇られた主イエスの事です。十字架刑というのは激しい苦痛と卑しめを与える事が目的でした。公然と人々の前で恥辱を与え、その自尊心を踏みにじる事が目的でした。私たちが恥としない福音とは公然と辱めを受けたキリストについての福音であります」とS牧師はイースターを前に話された。

「お前がユダヤ人の王なのか」と問う総督ピラトに、「それは、あなたが言っている事です」とお答えになり、ローマ皇帝が「王」なのに自分が王であると言ったとして主イエスは罪に定められた。囚人バラバとの「二人のうちどちらを釈放するか」とピラトが群衆に問うと「バラバを」と人々は叫んだ。「そこでピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した(26節)」

兵士達は主イエスを総督官邸に連行したうえ、主イエスの着ている物をはぎ取り、緋色のマントを着せ、頭に茨の冠をのせ、右手に葦の棒を持たせ「ユダヤ人の王万歳」と言って侮蔑し、唾をはき、葦の棒で叩き続けた。「絵画で見る十字架の主から想像できない惨めなお姿です。主はゲッセマネの森で、父なる神に全てを委ねられました。その信頼が主を支えています。」とS牧師は話された。

それから、主イエスは十字架を担いで城壁の外にある処刑場ゴルゴダに向かわれた。ゴルゴダに着くと兵士が、麻酔の働きをするものを主イエスに飲ませようとしたが主はそれを拒まれた。「私たちの罪の対価を支払うために、その痛みを味わわれるのです」と牧師が説かれた。そして両手両足を十字架に釘付けされた。ここを読む者にその痛みが伝わってくる。

通りかかった人々が「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。(40節)」と罵った。主はご自分の事を神殿と言われ、三日目に復活される事を言われていた。ユダヤ人が使う「救い」と、神が御心としておられる「救い」の間には大きな乖離がある。今を生きる者も神に「救い」を祈るが、それは神の御心なのかと自問する事が求められる。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「ホワホワと気泡ふくらむやさしさに白梅咲けり馴染みの路地の 豊島ゆきこ」


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マタイによる福音書  5章43~48節 [マタイによる福音書]

<あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。(45節)>

「旧約聖書には『隣人を自分自身のように愛しなさい』とは、書かれていますが『隣人を愛し、敵を憎め』という教えはありません。しかし、主イエスの時代ユダヤの指導者達は『隣人を愛しなさい』を、『隣人以外を憎め』と曲解していたのです。そのように解釈するのがユダヤ伝統の教えだったのです。」と、M牧師は話し始められた。

けれども、と言われ「あなたを憎む者が飢えているならパンを与えよ。渇いているなら水を飲ませよ。(箴言25:21)」があり、「敵を愛する」は教えられていたと思われるが、この時代、その真の意味は明らかにされていなかった。その人々に、主イエスは隣人愛として「敵を愛する」意味を教えられそれを実践して行かれた。そして私たちのために十字架に架かられたのである。

ユダヤの人々は高い城壁を巡らした町の中に住み、敵の来襲に対しては、城門を即座に閉める事が出来た。そして城門の内側の人を隣人とし、罪を犯した者は城門の外に放り出され敵と断罪した。その敵との交流、ましてや愛する事は考えられず命の危険があった。そのユダヤの人々に主イエスは「しかし、私は言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい(44節)」と。

そして「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなた方にどんなに報いがあろうか。・・・自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか(46.47節)」と、厳しく指摘される。

自分が愛するのは、家族、友人、同僚それは自分の領域の中にいる人々である。それ以外は敵とまでも言わないが無関係の人で愛する対象とは思っていない。しかし、それで弟子と言えるだろうか。徴税人、異邦人もすることをして十分だとするのか。弟子として、主の弟子としての意味はどこにあるのかと迫られる。

神は、正しい者にも正しくない者にも太陽を昇らせ、恵みの雨を与えられる。神は、私たちが悪とし、敵と呼ぶ人々も愛される。「だから、あなた方の天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。(48節)」

「米国の軍事力なしに日本の平和はない」と、声高に言う人がいる。「主イエスのみ言葉は理想論なのか。私たちは聖書を通して考えるのです。」とM牧師は話された。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「今さえがもう思い出の中のよう雪が静かに降っているなり 岩屋美和子」


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マタイによる福音書 2章13~23節  [マタイによる福音書]

<ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、『わたしは、エジプトから私の子を呼び出した』と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。(15節)」>

「ヘロデ王の憎しみが、幼児虐殺の命令となって国中を覆います。主をどのように見るのか。真実の王と信じて膝を屈めるのか。自分の立場を脅かす邪魔な存在として受け止めるのか。聖書は、まだ何もしない幼子への扱いを示す事で、主イエスという『存在』の受け止め方を問いかけます。」と、榮牧師は書きだされる。

東方の博士たちが「ユダヤ人の主を拝みにやって来た」という知らせに、ヘロデは動揺した。彼はユダヤ人ではないのに、ユダヤの王として横暴に振舞っていたからである。3人の博士は幼子イエスを拝み贈り物を献げた後に、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国に帰って行った。彼らが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れた。

「起きて、子どもとその母親を連れて、エジプトに逃げ、私が告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている(13節)」と言った。そこでヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母親を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。

ここで「まだ幼かったイスラエルを私は愛した。エジプトから彼を呼びだし、わが子とした。(ホセア書11章)」の、預言が成就する。また、当時エジプトへの逃避はごく自然の場所であった。エジプトはローマ帝国の支配下にあったが、ヘロデ王の管轄外にあった。旧約聖書の中にはエジプトに逃亡する人々がたびたび登場し、その頃はすでに約百万人ものユダヤ人の共同体があったと言われている。

「さて、ヘロデは占星術師の学者たちにだまされたと知って、大いに起った。(16節)」 その結果、人を送り、彼らから聞いていた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯の二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。それは「ラマで声が聞こえる。苦悩に満ちて嘆き、泣く声が・・・(エレミヤ書31章)」預言者エレミヤを通して語られたことが成就したのだと、マタイは語る。

K牧師は「私たちの主は、出エジプトの苦しみの歴史に繋がって下さり、バビロン捕囚の苦悩と嘆きも味わわれたのです。」と話された。ヘロデが死ぬと、再び主の天使がヨセフに夢で現れて「起きて、その子と母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命を狙っていた者どもは死んでしまった」と言った。そこで彼らはイスラエルの地に帰って来たが、そこは、ヘロデの後継者が支配していた。

み告げを受けて、ガリラヤ地方のナザレに住み、主イエスは預言書通り「ナザレの人」と呼ばれる。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「みそポテト食べつつ聞きおり夕ぐれの秩父の町に流れるお囃子 村上春枝」

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マタイによる福音書 1章18~25節 2章1~12節 [マタイによる福音書]

<「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。(1章23節)」 >

「メリークリスマス!イエス・キリストのご降誕に感謝し、主の救いの御業をほめたたえます。イエス・キリストの誕生が語られます大事なこの箇所に、主イエスの父ヨセフは、ひと言も発していません。いったいなぜ彼は沈黙していたのでしょうか。そこで、このクリスマスイブに主イエスの誕生に果たしたヨセフの役割と彼の信仰について学びたいと思います。」と、K牧師は話し出された。

ヨセフとマリアはすでに婚姻関係にあったが、当時のユダヤの慣習によって結婚までには、「許婚」「婚約」、そして結納金のような慣習も経なければならなかった。法的には婚姻関係にあったが、2人はまだ結婚に至らず、一緒に住んでいなかった。そのような時、マリアが身ごもった。

「この身になりますように」とマリアは受け入れたものの、ヨセフにどう伝えたらいいのかマリアは苦しんだが、主の守りを信じこの事実をヨセフに話した。「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアの事を表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。(19節)」 そのヨセフに主の天使が現れた。

誰にとっても信じられない話だが、この事によってマリアはさらし者にされ石打の刑を受けるかもしれない。彼女にそのよう事があってはならないと、彼は密かに離縁しようと決心した。彼はマリアに下される罪を思い、それを自分のこととして受け止め、苦悩しながら決心した。しかし「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。」と天使が言い、その理由が示されると、彼は離縁の考えを捨て、主に従った。

主イエスがベツレヘムでお生まれになった後、東方から3人の占星術の学者が「新しく生まれた方は、どこにおられますか」と王宮を来訪した。彼らの新王誕生の話はヘロデ王やエルサレムの人々を不安に陥れた。彼らは星に導かれてベツレヘムに行き、示されるまま馬小屋に入ると、そこには母に抱かれた幼子イエスがいた。彼らはひれ伏しその子を拝み高価な贈り物をささげた。

彼らは東方の人で、聖書を全く知らなかった。ただ星に導かれて、神が告げられる預言の言葉に従い進むと、馬小屋の上に星が輝いていた。そこで彼らは、神が与えて下さる「新しい王」とは、どのようなお方であるのかを知る事となった。

旧約聖書には、救い主の誕生は闇の中に輝く光としてすでに預言されていた。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。(イザヤ書9章)」

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「日曜をふらんふらんと過ごしけり磯野家は今日も穏やかである 百崎謙」


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マタイによる福音書  18章21~35節 [マタイによる福音書]

<その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分の百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め「借金を返せ」と言った。(27.28節)」>

祈祷会は、日本キリスト教団出版局発行の「信仰生活ガイド『使徒信条』」を学ぶ。今日はその第11回目<「使徒信条 11 「罪の赦し」 ―今ここにおける新しい命への招きーと題された、元キリスト者学生会主事。現在、米国トリニティ神学校修士課程在籍 岡谷和作氏の記事を読んだ。

「私たちが使徒信条で『罪の赦しを信ず』と告白する時、何を信じているのでしょうか。マタイ書18章では到底返済する事のできない借金を背負った家来が、王の温情によって借金が帳消しとなります。罪の帳消しが「罪の赦し」の一つのイメージです。ヘブライ書8章12節『私は彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。』とあるように、十字架上で私たちの罪の代価が支払われた事により、神は私たちの罪の記録を削除して下さるのです。」と岡谷氏は記される。

神は罪を帳消しにされ、私たちをキリストの「義」で覆って、招いて下さる。それが私たちの信じる「罪の赦し」だと岡谷氏は記される。そして和解は一方通行では成立せず、神の側から、イエス・キリストの贖いの御業を通して手を差し伸べて下さったのだと。キリストにおいてもたらされた「罪の赦し」を信じます、受け取りますと私たちが告白する時、主の招きに応答しているのですと。

「私たちは赦された者として、罪を赦すようにと召されています。礼拝で祈る主の祈りには『我らに罪を犯す者を、我らが許すごとく、我らの罪をも赦したまえ』の一節があります。これは私たちがゆるしたのだから神様も私をゆるして下さいという交換条件ではなく、無条件で赦して頂いた者として、私も罪を犯す者をゆるしますという宣言の祈りです。」と、を示された。

「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦しあいなさい。主があなた方を赦して下さったように、あなた方も同じようにしなさい。(コロサイ書3章)」

1994年、ルワンダで内戦が勃発した。その最中セレスティン牧師は家族を殺害された。牧師は怒りに心が支配され、加害者を赦す事に激しい葛藤を覚えた。しかし、赦された者として加害者を赦す歩みの中で自らが解放され、キリストによる新しい命を体験して行かれた。

失言しては、落ち込む自分だが、それが「罪」だとまでは自覚せず、神から「罪の赦し」をという思いまでには至っていない。「先ず罪を自覚して悔い改めして下さい」とK牧師がきっぱり言われた。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「はっきりといひきる語尾の強さもつあなたは傷を恐れない人 小田桐夕」


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