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ルカによる福音書 24章1~12節 [ルカによる福音書]

<婦人たちは恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方はここにおられない。復活なさったのだ。まだ、ガリラヤにおられた頃、お話になった事を思い出しなさい。(5.6節)>

「週の初めの明け方早く、婦人たちは準備していた香料をもって、金曜日に埋葬されたヨセフの墓に向かいました。彼女たちは十字架に釘付けにされる主イエスを目の前にして、自分たちの無力さを知りますが、せめて埋葬された主に香料をと思い、墓に急ぎました。」とK牧師はイースターの説教を話し出される。

そして「キリスト教信仰の中心は、ナザレのイエスの十字架と復活にあります。2千年前に殺された死刑囚が、今も生きている神の子、救い主であるという信仰です。神は私たちを神の子として下さり、様々な場面で蘇らせて下さいます。主の十字架を通して、私たちは永遠の命を生きる事が出来ます。」と話された。

婦人たちが墓に着くと、墓を封じた石は脇へ転がされていて、主イエスの遺体は見当たらず、途方に暮れていると、二人の天使が現れた。そして「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方はここにおられない。復活なさったのだ。」と言った。

そして「まだ、ガリラヤにおられた頃、お話になった事を思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活する事になっている。と言われたではないか。」と言った。婦人たちはたしかに、主イエスがご自分の死と復活を三度予告された事を思い出した。そして、墓から帰ると11人と他の人皆に一部始終を知らせた。記事から婦人たちの喜びが伝わる。

しかし、使徒たちは「たわ言」だとして婦人たちを信じなかった。そんな中ペトロは墓へ急ぎ、その中に、主の遺体を覆っていた亜麻布しかなかったので、驚いて家に帰った。マルコ書は復活を知らされた婦人たちが「震え上がり、正気を失った」と書き、マタイ書では復活の主イエスに会った弟子たちが「疑った」とあり、ヨハネ書ではペトロは主の復活を「理解していなかった」とある。

K牧師は「婦人たちはなぜ墓に向かったのでしょうか。墓は死者が入る所です。彼女たちは復活を信じていませんでした。身近にいた使徒たちもです。けれど、主の復活は確かな事です。それは、主が生きて私たちに日々出会って下さっている事を私たちは覚えるからです」と、結ばれた。

昨日はイースター礼拝後、愛餐会でカレーを頂き、その後二人の婦人が自分にとっての主との出会いを話された。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「おそらくは人生初の折り鶴を祖父の入院見舞いに折らん 瀧川和麿」


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ルカによる福音書 19節1~10節 [ルカによる福音書]

<イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われた者を捜して救うために来たのである。」(9節)>

「主イエスは私たちの罪を負って十字架につけられるために、エルサレムに向かわれます。エリコの近くで盲人を癒され、そのまま長い坂を下りエリコの町にはいられます。その噂を聞いて大勢の人々が主イエスを一目見ようと集まります。その中に徴税人ザアカイもいました。」と、K牧師は受難節第五主日礼拝の説教を始められる。

ローマ帝国は属国に徴税の権利書を発行し、ユダヤでは裕福な異邦人に与え、彼らに雇われた地元の者が税を徴収していた。徴税人は税金を水増しし、それを着服し私腹を肥やしていた。その事から、同胞からは蔑まれ、汚れた者と差別され、ユダヤ人社会からはつまはじきされていた。

大勢の群衆が主イエスの周りを取り囲んでいた。噂通り、なされる事を、語られる言葉をと、好奇心から駆け付けた者もいただろう。ザアカイもその群衆の一人であった。しかし彼が出かけて行った時には、既に群衆は大きく膨らみ、背が低いザアカイは主イエスを見る事が出来なかった。だけでなく、徴税人のために道を開ける人はいなかった。

そこで、主イエスをどうしても見てみたいザアカイは、木登りは子どもの遊びとされていたのに、いちじく桑の木に登った。「イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日はぜひあなたの家に泊まりたい。』ザアカイは急いで降りてきて、喜んでイエスを迎えた。(5.6節)」 

それを見た人々は、主イエスが厳しい取り立てをして人々を苦しめている罪深いザアカイのところに入り、宿をとった。彼の家に入り、彼の友人となるなら主イエスも穢れた身になると口々につぶやいた。主イエスは人々のそのような思いを知りながら「あなたの家に泊まりたい」と言われる。

O牧師は「それが神の愛です。ザアカイが敵意を向けられているその所で、主はザアカイの家に入り、友人になると言われるのです。ザアカイを敵意の中で独りにはしておかれません。そのせいで、人々の称賛が、敵意に変わっても、それでも神は彼に高価な愛を差し出されるのです。」と話された。

無条件に与えられた高価な愛にザアカイは立ち上がり、財産の半分を貧しい人々に施し、誰かから何かを搾取していたなら、それを4倍にして返しますと答えた。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「冬の駅に見上げる路線図まだ固い花のつぼみを数えるように 岡部かずみ」


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ルカによる福音書  15章11~32節 [ルカによる福音書]

<まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。(20.21節)>

昨日の祈祷会は、日本基督教団洛北教会岡本知之牧師が「洗礼とは何か 断つ者ではなく、つなぐ者として生きる」と題された記事を読んで出席者が話し合った。

最初に「罪とは、関係を断つ事、その結果は死」とタイトルがあり、「罪とはなんでしょう。それは他者との関係を断つことです。そして私が自分との関係から消した人は私にとって『死んだも同然』の人となります。中でも神との関係を断つことは自分の存在の根拠としての神を殺す事ですから、それはとりもなおさず自分自身を殺す事に他なりません。」と、岡本牧師は書きだされる。

その事を主イエスは「放蕩息子」のたとえを通して話された。弟息子は、父に財産の生前贈与を要求し、与えられた。岡本牧師はその時点で弟は「自らの心の中で父を殺したのです」と記される。そして、父の近くにいる事自体が苦痛だったのか、父の見えない遠い国に旅立った。「父を殺した彼はそうして完全な孤独という、自分自身の死に直面する事になった」と、岡本牧師は記される。

財産を使い果たし、食べる物にも困り豚の餌を食べてでも腹を満たしたいと思うまでになって初めて彼は父を思い出し、父の元に帰る決断をした。そして、父に言おう「お父さん私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にして下さいと」。これと同じく、受洗も私自身の決断による行為なのですと、岡本牧師は記される。

身も心もズタズタの惨めな姿で帰って来る息子を父は遠くから見つけると走り寄って彼を抱いた。そして彼が用意していた言い訳を遮り「雇い人の一人にして下さい(親子の断絶を解消する)の言葉を言わせる間もなく、元の親子の関係の中に迎え入れた(蘇らせた)のです。」と、解かれる。

息子は確かに自らの決断において父への立ち帰りを果たした。しかしその決意も、息子の帰りを待つ父ありてこそ実を結ぶ決断であった。父が一日も絶えることなく、またひと時も休むことなく、息子の去った方角に目を凝らし続けていたからです。と岡本牧師は記される。

父は僕たちに、息子に上等の服を着せ、指輪を、履物をそして、子牛を屠りなさいと言いつける。そして「この息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに、見つかったからだ(24節)」と、祝宴を始める。一日の労働を終えた兄がそれを目にすることになる。このたとえはまだ続く。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「どこからかガラス砕ける音のして身のうちがわが剥がれる予感 山川仁帆」


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ルカによる福音書 9章18~27節 [ルカによる福音書]

<イエスは言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」(20節)>

「イエス様の問いに、ペトロは『神からのメシアです』と答えます。『イエス・キリスト』は姓と名を表すものでなく、『イエスこそキリスト(メシア)』との信仰を表すものです。ペトロたちの信仰告白を受けてイエス様は死と復活を予告します。主の死と復活は、信仰なしに受け止められるものではないからです」と、阿部牧師は書き出される。

人々に神の国を語られ、奇跡の業を示され、主イエスは一人で祈りの時を持たれた。その後弟子たちに「群衆は私の事を何者だと言っているのか」と尋ねられた。彼らは、人々は、洗礼者ヨハネとかエリア、生き返った昔の預言者だと言っていますと答えた。イエスは言われた。「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」

S牧師は「神は過去の延長線上にはおられません。全く新しい出来事を起されます。神のもとから離れてしまう私たちを赦して、救い出して下さり、取り戻すという救いの出来事を起されるのです。神はその独り子を救い主として遣わされます。主イエスは十字架に架けられ、三日目に『復活』という信じられない出来事によって『救い』の業を起されるのです。」と、説かれた。

そして「主イエスはこの神の御心に従って、私たちと同じ地上の生涯を送られたのです。そして、この時主イエスは神からエルサレムに行くことを命じられているのです。エルサレムに行けば何が起こるか主イエスはご存知でした。けれど、ご自身がこれから辿られる道を通ってしか、神から遠く離れてしまった人々を救う道はないのです。その主イエスにペトロは『あなたはメシアです』とはっきり信仰告白し、主イエスを勇気づけたのです。」と、続けられた。

旧約聖書の中で、メシアについて「救い主は、僕の形をとって、人となってこの世に来る。人の罪を背負って、その罪の身代わりとなって死ぬ」と、預言されている。それで主イエスは「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活する事になっている。(22節)」と、弟子たちに話される。

考えられない事に唖然とする弟子たちに「私について来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。(23節)」と主イエスは言われる。私は従っているだろうか。自省する。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「独り居のデメリット思ひ知る日々を生きつつあああ独りはええわあ 王藤内雅子」


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ルカによる福音書 9章10~17節 [ルカによる福音書]

<すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡して群衆に配らせた。(16節)>

「イエス様は弟子たちに、『あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい』と群衆の食事を整えるよう命じられます。しかし、食料は五つのパンと二匹の魚だけです。」と、阿部牧師は書き出される。

12人の使徒は村々町々を巡り、主イエスと同じように人々に教え、病を癒した。その彼らの噂が広まり、ついにヘロデ王の耳に届いた。使徒たちの働きが支配者ヘロデに「イエスとは、一体誰なのか。」という思いを持たせる事になった。

12人の使徒の報告を受けられると、彼らを連れベトサイダという小さな町に退かれた。彼らに休息を与えるためだったのかもしれないが、大勢の群衆はなおも膨れ上がり主イエスの後を追った。主イエスはこの人々を迎え、彼らに神の国を語られ、病を癒された。しかし、「イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしている(ヨハネ書6章)」事を、群衆の真意をご存知だった。

K牧師は「私たちは、病気や大きな問題に直面すると、主イエスが大きな力になります。けれど、神を信じる者の信仰は、ただ神から何かを求める事ではなく、神の教えに従い、自分自身を神に献げていく事が大切です。主は忍耐をもって人々に神の真理を教え続けられます。」と、話された。

主イエスが神の国について教え、人々の病を癒されている間に夕方になった。人里離れた所だったので、弟子たちは人々の食事や宿について心配になって来た。そこで主イエスに、彼らを解散させ、宿を取り、食事ができるようにして下さいと言った。彼らは、神の偉大な力を幾度も目の当たりにして来たのに、主イエスの力を信じ通す事が出来なかった。

主は彼らに、あなた方が調達するようにと言われた。群衆は男性だけで5000人、弟子のもとには五つのパンと二匹の魚しかない 「彼らのために買いに行かない限り無理です」 と答えるしかなかった。すると、主は人々を50人ぐらいずつ組にして座らせるように命じられた。

「人々が座ると、主は五つのパンと二匹の魚を手に取られ、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。」 それは誰も理解出来ない事だが、全知全能の神、何もない所から全てのものを造り出される、創造主の神の業なのである。

今日の短歌 短歌誌 塔」より

「久々に姉と炬燵で長ばなし昔むかしを引っ張り出して 竹内多美子」


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