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ヘブライ人への手紙  9章19~28節 [ヘブライ人への手紙]

<なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今や私たちのために神の御前に現れて下さったからです。(24節)>

「イエス様は大祭司として天の聖所に入って下さいました。しかもイエス様は罪の贖いのいけにえとしてご自身をささげて下さいました。だからこそ私たちは、自分の能力や技量によらず、大祭司であるイエス様にすべてをお任せする事ができます。」と、服部牧師は書きだされる。

今日は「召天日」復活節から40日。 主イエスは苦難を受けられた後、ご自分が生きておられる事を、使徒たちに示され、神の国について話された。そして、父の約束されたものを待つように話されると、「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。(使徒言行録1章)」 彼らが天を見つめていると2人の天使が「・・・天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなた方が見たのと同じ有様で、またおいでになる。(同)」と言った。

「キリストは新しい契約の仲介者なのです(15節)」その契約が成立するためには、死が必要であることを「遺言」という側面から説いてゆく。ここでパウロは「契約」「遺言」をギリシャ語で同じ言葉を使っている。主イエスが死なれた事で、新しい契約が有効となったのですとK牧師は話された。「旧約聖書」から「新約聖書」、すなわち主イエスは新しい約束の仲介者なのですと。

モーセが神から契約の言葉を受け取った時、それをイスラエルの人々に話す時、血をとってそれを契約の書、民全体に「これが契約の血である」と言って注ぎかけた。祭壇や契約の箱の上に贖いの蓋に、血は振りかけられた。清めを行うには、水の洗いではなく、血によるものであった。

山羊や羊の血を携えて大祭司は幕屋に入るが、それさえも、彼さえも本当に神に近づく事は出来ていなかったのである。神が私たちをご自分の所に受け入れるには、それ相当のいけにえでなければならなかった。

そのようななか、キリストはご自分の血を携えて行かれたのである。天が清められ、私たちもキリストにあって神に近づく事が出来るようになった。大祭司は毎年、動物の血を携えて聖所に入ったが、主イエスはただ一度だけ。そして、今も神の御前に、私たちのために執り成し続けて下さっている。

K牧師は「これが、神さまのファイナル・アンサーです。神さまは永遠のご計画を持っておられ、完全な贖いを成し遂げるために、イエス・キリストを死に渡すようにされていたのです。これですべてが完了し、これ以上繰り返す事も、付け足す事もない贖いを用意されていたのです。」と話された。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「木の下にねむってみたいあのひとの頭部をひざにごろんとのせて 田村穂隆」


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