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ルカによる福音書 6章27~38節 [ルカによる福音書]

<しかし、私の言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。(27節)>

「『敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。』 この教えを『素晴らしい』と称賛する人は、隣人が憎悪を抱く敵となる現実を想像できず、他人事のように捉えているかもしれません。逆に『実践不可能』と断言する人は、隣人が憎悪を抱く敵である世界の悲惨な現実によって、この教えを拒絶するのかもしれません。」と、阿部牧師は書きだされる。

「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。(レビ記19章)」 しかし主イエスは更に進んで「敵を愛せよ」と教えられる。それは男女の愛や、友情などの感情ではなく、意志の力を必要とする愛である。なぜならば、相手は自分に害を加える敵なのであるからだ。

憎む者には親切を、悪口を言う者には祝福を祈り、侮蔑する者のために祈りなさいと主は言われる。そして、頬を打つ者にはもう一方の頬を出し、上着を奪う者には下着をも与えよと。求める者には与え、持ち物を奪う者から取り返そうとしない。人にしてもらいたいと思うことを人にせよと続く。

「人にしてほしくない事を他人にするな」とはよく言われ、この教えを守るのは難しくない。人と関わらなければ済むことだから。しかし、自分がしてほしい事を人にするのは、お節介かと思われそうで躊躇してしまう。主イエスは、愛に積極的行動を求められる。敵への愛は意思を必要とするのだと。

「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか(32節)」 家族や友人と愛を育むのは当たり前の事で、自分に利益をもたらしてくれる相手を愛したところでどんな恵みがあるのか、返してもらう事を当てにして貸すのは、愛ではないと主イエスは言われる。

憎しみには憎しみを、愛には愛で答えるのが当たり前とする人の世で、主イエスはその感情を越えるようにと言われる。「あなた方の父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい(36節)」 それが、神の支配の下に生きる者の生き方だと教えられる。

マルティン・ルター・キング牧師は1963年「汝の敵を愛せよ」と説教された。その要旨「イエスは汝の敵を愛せよと言われたが、どのようにして私たちは敵を愛する事が出来るだろうか。しかしこの時、イエスは敵を好きになれとは言われなかった。我々の子供たちを脅かし、家に爆弾を投げてくるような人をどうして好きになることができるのか。しかし、好きになれなくても私たちは敵を愛そう。何故ならば、敵を憎んでもそこには何の前進も生まれない。自分たちのためにも憎しみを捨てよう。愛は贖罪の力を持つ。愛が敵を友に変える事が出来る唯一の力なのだ。」

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「右ひだろ蛇行しバイクの跡のこし配達する街初雪降る街 石川啓」


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ルカによる福音書 6章12~26節 [ルカによる福音書]

<今、飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今、泣いている人々は、幸いである。あなたがたは笑うようになる。(21節)>

「イエス様は『使徒』と呼ばれる12人の弟子を選びます。12人の中には先に弟子へと召された漁師たちや徴税人の名前も確認できます。マタイ書の『山上の説教』と並行する記事ですが、ルカ書では『イエスは・・・平らな所に』との記述から『平地の説教』と呼ばれ親しまれています。」と、阿部牧師は書きだされる。

安息日に手の萎えた人を癒された主イエスは祈るために山に行かれた。主は次の働きに備えて一人になって祈られる。「神に祈って夜を明かされた(12節)」主は夜通し神に向かって祈られた。朝になると弟子たちを呼び集められ、その中から12人を選んで使徒と名付けられた。

選ばれた12人の「使徒たち」は、御国の福音を宣べ伝え、悪霊を押し出し、病を癒す務めを、主イエスと共に担う者たちである。イスラエルの12部族と同じ12人。イスラエルの民は神によって選び出され、神の民として諸国民の祝福の基になるよう定められた民である。12人も主によって選出され、12人は主が宣べ伝える御国の福音に、多くの民を招き入れるために遣わされる者とされていく。

夜通し神に祈って主イエスが選ばれた12人の中には、徴税人マタイや裏切り者のイスカリオテのユダもいる。O牧師は「これは、今を生きる私たちも、この選びの中に入れて下さるという事です。到底相応しくない私たち、悩みや欠けに満ち、信仰薄く、試練に耐えられず、暴力と憎み合う世に頭を抱える無力な私たち、そんな者を呼び集められ、主は使徒として用いられるのです。」と話された。

「イエスは彼らと一緒に山から下りて平らな所に立たれた。大勢の弟子とおびただしい民衆が」イエスの教えを聞くため、また病気を癒して頂くために集まっていた。「さて、イエスは目を上げて弟子たちを見て言われた。『貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は幸いである。あなたがたは満たされる。今泣いている人々は幸いである。あなたがたは笑うようになる。(20.21節)』」

この世の尺度とは正反対。K牧師は「私たちには、自分で自分を救う力などありません。神の憐れみと御心によって生きているだけです。その事に気付かされた者こそ、自分の『貧しさ』を知ったものではないでしょうか。知恵や力を頼りにいていては『貧しい人』になれないのです。」と話された。
 
今日の短歌 短歌誌「塔」より

「縦型の信号ばかりの街に住みひごと冷えゆく朝をあゆめり 中野功一」


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ルカによる福音書 6章1~11節 [ルカによる福音書]

<そこで、イエスは言われた。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」(9節)」>

「2つの安息日論争が証しされます。1つ目の論争は、イエス様の弟子たちが安息日に『麦の穂を摘み、手で揉んで食べた』ことに起因します。2つ目の論争は、イエス様が安息日に右手の萎えた人を癒されたことに起因します。安息日に一切の労働を禁じている律法に照らせば、どちらも律法違反であることは明白です」と、阿部牧師は書きだされる。

弟子たちが、安息日に麦の穂を摘み、手で揉んで食べたことに対するファリサイ派の人々の非難に主イエスは、サウル王に追われたダビデが空腹だったときに、神の家に入り、祭司のほかには食べてはならない供えのパンをとって食べ、供の者にも与えた事(サムエル記21章)を話された。

弟子たちは無意識に摘んだ麦の穂を揉んで食べたのだろう。他人の麦畑で麦の穂を摘むことは、申命記23章によって許されているが、問題は弟子たちが麦の穂を揉んだ事にある。安息日はユダヤ教の律法の中でも神聖なものであり、金曜日の日没に始まり土曜の日没までを守られていた。

十戒の第4戒は「安息日を聖別し・・・主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。」と定められていた。安息日は「聖なる集会の日」とされ、感謝と喜びをもって天地創造の神を礼拝する日とされていた。主イエスの時代、安息日の禁止実行は39,更に39の細則がそこに付され、1521もの禁止事項があった。麦の穂を揉むのは、収穫、脱穀の禁止を犯す事だとみなされた。

主イエスは彼らに「人の子は安息日の主である(5節)」と言われた。主イエスが安息日の律法に勝るものであり、その適用を決定する存在であることをはっきりとファリサイ派の人々に宣言された。

ファリサイ派の人々にとって、律法は禁止のリストであった。しかし、その多くは聖書から出たものではなく伝統や習慣から生み出されたものであり、人間を束縛する以外の何物でもなかった。律法を守るとは、無数の規則に従う事だとする考え方に対して主イエスは「否」とされる。そして、律法は人間の生活を守るものであり、安息日は人間を真の自由へと解放する日である事を明確にされた。

「主イエスの論点は『善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。』にありました。安息日の目的は『労働しない事』ではなく、『神を相応しく礼拝する事』であるからです。そうであれば二つの出来事は御心に適うと、彼らの批判を退けられるのでした。」と阿部牧師は結ばれる。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「とりあえず否定したがる義父に似たわたしは今日もでもと呟く 阿部はづき」


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ルカによる福音書 4章31~44節 [ルカによる福音書]

<しかし、イエスは言われた。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。私はそのために遣わされたのだ。」そして、ユダヤの諸会堂に行って宣教された。(43.44節)」>

「イエス様は、男性を苦しめていた汚れた悪霊を一喝して追放し、シモンの姑を苦しめていた高熱も同様に一喝して熱を去らせました。癒しの噂は周辺一帯に広まり、イエス様の周りには多くの人々が集まるようになりました。」と、2004年1月、信徒の友「日毎の糧」講解、東若山教会阿部倫太郎牧師は書きだされる。

ガリラヤで伝道を始められた主イエスは、まずお育ちになられたナザレの村に入られた。そしてご自身が救い主である事、預言の成就として救いをもたらす事、すなわち福音を語られたのだが「会堂内の人々は皆憤慨し(28節)」拒絶した。彼らは「イエスを町の外へ追い出し・・・山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。(29.30節)」

そして、ナザレの北ガリラヤ湖北岸の町カファルナウムに入り、安息日に人々を教えておられた。人々はその教えに非常に驚いた。その言葉に権威があったからである。その会堂に悪霊にとりつかれた男がいて「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ、我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」と叫んだ。その叫びは彼の中に居座る悪霊から出たものである。

主イエスは人々を救いに来られたのだけれど、しかし、人々は耳を傾けつつ、主イエスが自分たちを裁きに来た、自分たちの平安を揺るがす者かもと疑ってもいた。「神の子キリスト・イエスを否定する心、それはあなたの中に住む悪霊がそう思わせているのです。今も昔も同じです。」と、K牧師は話された。主イエスは悪霊に「黙れ」と言われると、その人を倒して悪霊は立ち去った。

人々は主イエスの力に驚いた。その教えだけでなく、行われる業に彼らは権威を認めた。自分の人生に、主イエスが新しい働きをされる事を知り受け入れた。その噂は辺り一帯に広まった。

主イエスがそこを立ち去り、シモンの家に入られると、そこには姑が高熱で苦しんでいた。「人々は彼女のことをイエスに頼んだ。イエスが熱を叱りつけると、熱は去り(38節)」 姑は主イエスをもてなした。悪霊の時同様、言葉で力を示された。こうして病に対しても権威をもっておられた。

日が暮れると、次々に病を持つ人々が主イエスのもとにやって来た。人々は主イエスをこの町に引き留めようとしたが「他の町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。私はそのために遣わされたのだ。」と言われた。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「家で待つ子はないけれど子袋のベビーカステラひとつ購う  藤田千鶴」


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ルカによる福音書 2章36~40節  [ルカによる福音書]

<また、アシュル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから7年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、84歳になっていた。(36~37節)」>

「ユダヤ人は13歳で成人とされます。『若いとき嫁いで』ということは、成人した10代の内に結婚したということでしょうか。7年だけの夫婦生活の後、60年近くは神殿で神に仕える働きをしていた。そういう一生を歩んだ女性が、今や84歳のアンナです。」と、榮牧師は書きだされる。

シメオンが神に賛美を献げている、「その時、近づいてきて神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子の事を話した。(38節)」 シメオンはイスラエルの慰められるのを待ち望んだ。アンナはエルサレムの救いを待ち望んだ。2人とも、自分の願いを実現する事ではなく、神の救いが実現する事を待ち望んだ。どれほど、時代が混乱し、時が過ぎてもただひたすら待ち望んだ。

O牧師は「待ち望むことは、信仰にとって大切な姿勢です。けれど、待つことは人気のあることではありません。多くの人は待つことは時間の無駄として早い方法を考えます。私たちが待てないのは、それでは後れを取るという心の恐れに支配され、常にその恐れに駆り立てられているからでしょう。神様の御業を待つことができないのです。」と、話された。

ルカがシメオンとアンナについて語ったのは、彼が福音書を書いた時代にキリスト者たちの間に動揺があった。復活して天に昇られたキリストがすぐにも来て下さると思っていたのにまだ来て下さらないからだ。それは、連日ウクライナ、パレスチナが爆撃されているのに、いつまで待たされるのか、神への祈りは届いているのか、神はなぜ答えて下さらないのかと動揺する今、現在の私たちの姿である。

この世にあってそのような嘆き、呻きをもって歩む私たちに、シメオンとアンナの姿は救いの完成を忍耐強く待ち望むことを示す。ルカは終わりの日にキリストが再び来られ、神の支配が完成する事を待ち望むようにと励ます。私たちにはその日はいつなのか分からない。けれど、主イエスの十字架と復活によって救われ、終わりの日にキリストと共に復活し永遠の命に与るという、希望が与えられている。

O牧師は「たとえ、終わりの日が来る前に地上の歩みを終えるとしても、私たちはその希望によって救われ、キリストによる平和のうちに地上から去って行くことができるのです。死を恐れず、時代の混乱に惑わされず、復活の希望を持ち、救いの実現を待ち望むのです。」と、結ばれた。

神殿に詣でるたくさんの幼子の中から、シメオンは神の独り子を見分けた。自分にも見る目、聞く耳が与えられますようにと祈る。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「雨傘に喩へて君は僕を言う 濃紺で骨は十六本の  永山凌平」


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