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ルカによる福音書 9章1~9節 [ルカによる福音書]

<次のように言われた。「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。」(3節)>

「イエス様は12弟子を福音宣教に遣わす時に、何も持って行ってはならない。と指示されます。私たちは旅をするとき、十分に準備します。旅先で頼れるのはカバンに詰めた持ち物だからです。イエス様が伝えたかったのは、まさにこの点なのです。」と、阿部牧師は書き出される。

主イエスは、ガリラヤで神の国を宣べ伝え、病気からの癒しを与え、悪霊を追い出され、その力と権威を人々に示された。そしてここで、この力と権威を12使徒に授けられる。神は世界に対してイスラエルの民をご自分の光を示すために選ばれた。その象徴が12部族を示す選ばれた12使徒である。彼らが主イエスをキリスト(救い主)だと宣教し、人々が神の国を望むようにと仕向けられる。

K牧師は「私たち教会は、彼らの教えを土台にしてイエス・キリストを礎石として建て上げられています。主は単独でご自分の働きをされないのです。主イエスには全能の神の力が働いていますが、彼らと共に過ごし、彼らに主の働きを任せるような形で神の国を広げようとされます。今の私たちも同じです。誰か一人の力によって福音が伝わるのではありません。」と話された。

主イエスは12人に、病気を癒す力と権能をお授けになり「そして、神の国を宣べ伝え(2節)」ることをお命じになる。それは、人々が理解できるように説明する事ではない。神の国への理解は、その力、現実に触れる事によって与えられるものだとされる。神の国、その栄光は、神の支配に人が入る事によってしか、知る事はないのである。だから、理屈ではなく、御言葉に従うのだと。

「私は、たとえ取るに足りない者だとしても、あの大使徒たちと比べて少しも引けは取らなかったからです。使徒であることを、しるしや不思議な業や、奇跡によって、忍耐強くあなた方の間で実証しています。(Ⅱコリント12章12節)」とパウロは記す。

旅には何も持って行ってはならないと言われるのは、福音の働きをする時に主が備えを与えて下さる事を信じて、行いなさいという事である。出エジプトの荒野において食べものを主が備えて下さった。彼らはヨルダン川を渡って約束の地に入る前まで不足する事はなかった。

「福音宣教という旅にあって頼るべきは自分の知恵や経験ではないのです。神の支えと導きのみを頼りとして福音を告げ知らせるのです。教会の伝道計画が無意味なのではなく、頼るべきは教会の実績や計画ではなく、全てを導き支える神の力なのです。」と阿部牧師は結ばれる。

今日の短歌 短歌誌 塔」より

「久々に姉と炬燵で長ばなし昔むかしを引っ張り出して 竹内多美子」


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ルカによる福音書 8章40~56節 [ルカによる福音書]

<イエスは言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」(48節)>

「イエス様は群衆に囲まれながら移動しています。その時、12年間出血の止まらない女性が群衆に紛れてイエス様に触れ、癒しを受けました。実に12年、長血を患ったが故に奪われていた神との関係が回復した慰めの出来事でした。」と、阿部牧師は書き出される。

主イエスがゲラサ人の地からカペナウムに戻られると、主イエスを待っていた群衆は喜んで迎えた。そこに、会堂長ヤイロが来て主イエスの足もとにひれ伏し、一人娘が死にかけているので自分の家に来て下さるようにと願い出た。主イエスは彼の願いを聞き入れられた。

そこに行かれる途中も、大勢の群衆が主イエスの周りに押し迫っていた。その群衆の中に、12年間出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、誰からも治してもらえない女性がいた。彼女は主イエスに近づき、後ろから主イエスの服の房に触れた。12年間出血が続く彼女は、汚れた者とされ、ユダヤ人社会からはじき出され、人々から冷たい視線を浴び続けていた。

会堂長ヤイロが正面から主イエスに願い出たのとは対照的に、彼女は後ろから近寄り、群衆がヤイロの娘に心を向けている隙を見て、今こそ主イエスに近づく千載一遇の時だと決心し、必死に手を伸ばして主イエスの服の房に触れた。「房」は、主イエスと父なる神との祈りの交わりの象徴的なものであることを彼女は知っていた。「直ちに出血が止まった。(44節)」

主イエスは「誰かが私に触れた。私から力が出て行ったのを感じたのだ。」といわれた。女性はこれ以上隠し通せないと、震えながら進み出てひれ伏し、触れたわけとたちまち癒された次第をみんなの前で話した。「娘よ。あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」と、主は言われた。

その時、ヤイロの娘が死んでしまったという知らせが入った。主イエスはこれを聞いて「恐れる事はない。ただ信じなさい。そうすれば娘は救われる(50節)」と会堂長に言われた。目の前にした、長血の女性の信仰に倣って、どんなときにも希望を見続けるようにと勧められる。

ヤイロの家で人々が泣き悲しんでいる中で主イエスは「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ。(52節)」と言われた。そして娘の手を取り「娘よ、起きなさい。」と呼びかけられると、娘は、その霊が戻りすぐに起き上がった。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「時残しそれぞれ帰る娘らの家族のふくらみ門に送りぬ 山田信子」


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ルカによる福音書 8章1~15節 [ルカによる福音書]

<また、ほかの種はよい土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスはこのように話して「聞く耳のある者は聞きなさい」と、大声で言われた。(8節)>

「イエス様の宣教を支えた女性たちが紹介されます。圧倒的に男性優位の時代に女性たちが宣教に同行し、奉仕する事がどれほど大変であったか、今も昔も福音宣教の実際には、歴史に名を残さない無数の働き人があったことを思わされます。」と、阿部牧師は書き出される。

ファリサイ派シモンの食事に招かれた後、「イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。12人も一緒だった。(1節)」

S牧師は「ここでは、主イエスが主語になっています。福音を広めるのはイエス・キリストご自身であり、私たちではないのです。私たちは神の祝福を祈り、主が為される事に参加するのです。12人の弟子も同行します。福音宣教は主がなさいますが、12人の仕事は主と共にいることです。主と共にいて、個人的、人格的、親密な関係を持つ事が私たち弟子の仕事なのです。」と、話された。

12弟子だけでなく、多くの女性が主イエスに同行していた。悪霊にとりつかれていた「マグダラのマリア」の次には「ヘロデの執事の妻ヨハンナ」彼女は政府高官の妻であった。どのような背景を持っていたとしても、人間は神を必要としていた。彼女たちは、祈りやみ言葉の目に見えない事で神に仕えるだけでなく、実際に自分の持ち物を出し合って主イエスの福音宣教に仕えていた。

町々村々から集まって来る群衆に主イエスは「種を蒔く人のたとえ」を話された。蒔かれた種のあるものは道端に落ち人に踏みつけにされ、鳥に食べられた。石地に落ちたものは、芽は出たが枯れ、茨に落ちたものは、茨に押しかぶされた。「また、ほかの種はよい土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」と話された。

群衆と一緒にたとえを聞いていた弟子たちは、このたとえがどんな意味かを主イエスに尋ねた。「彼らは、見ても見えず、聞いても理解できない」と、たとえはとても単純だが、それを受け取る事が出来ない、あるいは拒んでいるからだと主イエスは弟子たちに話された。み言葉の聞き方によって、神の国がはっきり見えるか、そうでないかが決まるのだと言われる。

私の身内にクリスチャンはいない。み言葉やたとえ話に耳を貸さない。神を信じるのは難しいらしい。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「厚着した服の上から抱きしめて同じ力で抱きしめられた 成瀬真澄」


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ルカによる福音書 7章36~50節 [ルカによる福音書]

<「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる。赦された事のない者は、愛する事も少ない。」(47節)>

「食事の席に着いたイエス様の足もとに『罪深い女』として広く認知されていた女性がかがみこみます。彼女はイエス様の足を涙で濡らし、髪の毛で拭い、接吻したうえで香油を塗りました。この女性の行為に嫌悪感を示す者もいる中でイエス様は最大級の賛辞を贈ります。」と、阿部牧師は書き出される。

ファリサイ派のシモンが主イエスを食事の席に招いた。するとそこに、それを聞いて一人の罪深い女が、香油の入った石こうの壺をもって入って来た。「罪深い女」とあるだけで、どういう罪かは記されていないが、その身なりから町の人々が、彼女は「娼婦」すなわち「罪深い女」だとみなしていたのかもしれない。

食事の席にいた人々の視線を感じていたが、主人シモンは、何も言わずイエス・キリストがどのようにされるのかを見守っていた。「彼女は、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙で濡らし始め、自分の髪の毛で拭い、イエスの足に接吻して香油を塗った。(38節)」

この当時の食事は、床に敷物を敷き、その上に食事を並べ、肘をついて半分寝そべったような姿勢で食事していた。彼女は周囲の視線を気にすることもなく、場をわきまえない事を恥じる気持ちも見せなかった。ただキリストへの思いを、今、表さなければいられないという一途な気持ちに突き動かされ、泣いていた。

ファリサイ派の人々は、このお方がもし預言者なら、自分に触れている女の素性が分かるはずだと思って様子をうかがっていた。彼らの心中をご存じの主イエスはシモンに、「言いたいことがある」と言って、金貸しから2人の人が金を借りていたたとえ話をされる。

1人は500デナリオン、もう1人は50デナリオンの借金があったが、返す金がなかった。それで、金貸しは両方の借金を帳消しにした。「どちらが多くその金貸しを愛するだろうか」と問われてシモンは「帳消しの額の多い方だと思います。」と答えた。主イエスは「その通りだ」と言われた。

シモンは、ファリサイ派にあって主イエスにメシアをみていた。しかし、この女性は「罪深い女」として心が拒んでいた。それに対して、主イエスは愛をもって彼女を見、彼女を受け入れられ、彼女を生かす。そのような道をシモンに示された。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「雪の中自転車を漕ぐ青春を傷つき尽くしてしまった心 逢坂みずき」


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ルカによる福音書 7章18~23節 [ルカによる福音書]

<「わたしにつまずかない人は幸いである。」 (23節)>

「洗礼者ヨハネの『来るべき方は、あなたでしょうか』との問いにイエス様は『私につまずかない人は幸いである。』と応じます。イエス様に敵対する者だけでなく、イエス様を新しい王として大歓迎した民衆も、イエス様に信仰を告白した弟子たちも、最終的に躓きました。」と、阿部牧師は書き出される。

投獄されているヨハネに、彼の2人の弟子は人々に救いの恵みを話される主イエスの事について知らせた。そこでヨハネは彼らを主イエスのもとに送り、「来るべき方は、あなたでしょうか・・・」とたずねるように命じた。「来るべき方」というのは、旧約聖書が預言する救い主の事である。

主イエスは2人に「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、重い皮膚病を患っている人は清くなり・・・死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らせている。私につまずかない人は幸いである。(22節)」と答えられた。投獄され、明日の命が約束されない状況にあって、ヨハネが聞く主イエスの御言葉は彼に確かな光を与えた。

主イエスは2人の弟子に「行ってヨハネに伝えなさい」と言って、答えられ、最後に「私につまずかない人は幸いである。」と言われる。O牧師は「これは、私たちへの問いかけであると同時に信じる者は『幸いである』という祝福の言葉です。主イエスが成し遂げられた事の中に自分の救いがある事を信じ、受け入れる者は幸いだという意味になります。」と話された。

先日の礼拝は、天地の造り主、万能の神が、アブラハムとサラに男児を与えると約束され、その言葉を信じたアブラハムを義とされたという説教であった。礼拝の帰り道いつものようにおしゃべりしていると、子供の不登校に悩んでいるTさんが、結局なるようになる「神様にお任せするんだと思えたわ」と明るく話された。どういう、結論に至るか分からないけど、それを楽しみにすると。

O牧師は続けて「主イエスが為される救いは、私たちがこの世において体験する様々な苦難を乗り越える力を与えるものです。自分の力ではどうする事も出来ない困難、行き詰まり、挫折の中で主イエスは私たちを支え、生かし希望を与えて下さいます。ヨハネは弟子から聞いた主イエスのみ言葉によって、このお方の道を備える者として仕えた恵みに感謝した事でしょう」と話された。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「朝ごはん食べている間にまた飛んで冬の波間にミサイルが落つ 冨田織江」


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