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マルコによる福音書 14章10~21節  [マルコによる福音書]

<弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。(19節)」>

主イエスの教えに学び、従っていた12人の弟子の1人が、殺害を企てる人々に主イエスを売り渡す約束をするところから今日の個所は始まります。ユダがなぜこのような事をしたのか、その理由は聖書に記されていません。平和を願い求めて生きる私たちの作り出す社会が、その願いと裏腹な争いばかりをもたらしている現実に重なるように思います。」と、K牧師は話し出された。

神の民が救われた事を記念する除酵祭の第一日目は食事をする時とされていた。そこで弟子たちは主イエスに、食事はどこで準備するのですかと尋ねた。すると、都に行って水がめを運んでいる男に出逢うから、その人について行くようにと言われた。そして「すると席が整って用意のできた2階の広間を見せてくれるから、そこに私たちのために準備しておきなさい。(15節)」と言われた。

弟子たちが都に行ってみると、すべて主イエスが言われた通りであった。ユダが裏切りによって、主が捕らえられる時が迫っていた。K牧師は「人の罪の現実を神は全て心得られ、その罪から解放するために神は御子を用いられます。弟子の裏切りをも用いて神は人を救うための機会とされるのです。主イエスはこの神の導きにすべてを委ね、歩みを進められます。」と話された。

「夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた」主イエスはすべてご存知のまま、席に着かれ、一同と共に食事された。そして「はっきり言っておくが、あなた方のうちの一人で、私と一緒に食事をしている者が、私を裏切ろうとしている。」と言われた。

イスカリオテのユダは血の引く思いをしただろう。しかし、他の弟子までもが「まさか、わたしの事では」と心痛めた。どうして、彼らは心を痛めたのだろうか、ローマに対して革命を起こされると思っていた方が、それらしいこともなく「死や葬り」の話をされる。全てを捨てて従ってきたのに、本当にこの方に従っていいのだろうか。彼らの迷いが心の痛みに繋がったのだろうか。

「12人のうちの一人でわたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。」と答えられたが、その場では弟子の誰もが主イエスと一緒に鉢に食べ物を浸していた。「人の子は、聖書に書いてある通りに、去って行く。だが人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のために良かった。(21節)」

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「プーチンも歯を磨くだろう吐き出した泡に一すじ血色が混じる  永久保英敏」


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