SSブログ

イザヤ書  44章1~8節 [イザヤ書]

<わたしは乾いている地に水を注ぎ、乾いた土地に流れを与える。あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ、あなたの末にわたしの祝福を与える。(3節)>

「イスラエルは、彼らを選ばれた主なる神に背き、逆らい、異教の神々を拝むようになりました。それゆえイスラエルは滅び、民はバビロンへと連れて行かれました。」と、鍋谷牧師は書きだされる。

43章の最後は「あなたの始祖は罪を犯し、あなたを導く者らもわたしに背いた。それゆえ、わたしは聖所の司らを汚し、ヤコブを絶滅に、イスラエルを汚辱にまかせた。」と結ばれる。神の民イスラエルが置かれた困難な立場は、歴史的な罪の堆積による結果であり、厳しい現実を神の裁きとして受け止めなければならない事が告げられる。

しかし、神はイスラエルを全く見捨てられたのではない。44章では「そして今、わたしの僕ヤコブよ。わたしの選んだイスラエルよ、聞け」と呼びかけて下さり、「わたしは乾いている地に水を注ぎ、乾いた土地に流れを与える。あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ、あなたの末にわたしの祝福を与える。」と、告げられる。

O牧師は「エシェルというのはイスラエルの別名で、イスラエルは神から与えられたヤコブの名であります。ヤコブは、神の前に誇りとするものは何も持ちませんでした。彼は懸命に生きましたが利己的で彼の通った後には、修復しがたい問題が残されていました。けれど、不思議な事に神はヤコブを目にとめられ彼の後始末をし続けられました。その上、イスラエルという名を与えられたのです。」と話された。

「ヤコブ」という名は、「押しのける者、ずる賢い者」と言う意味を持つ。「エシュルン」は「真っ直ぐな者、正しい者、心の直ぐな者」という意味を持ち、神がヤコブにそして彼の子孫に与えられた「イスラエル」は「神に支配された者」という意味を持つ。何度も神に背き神の御心に歩まなかった彼らは「イスラエル」という名に相応しくなかったが、神が彼らを選び、贖い続けて下さり「エシュルン」と呼びかけられる。

心頑なな者に、忍耐強く繰り返し神は呼び掛けて下さる。「わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない。(6節)」 このみ言葉は繰り返されるが、黙示録では際立った引用がされている。「恐れるな、おびえるな。既にわたしはあなたに聞かせ、告げて来たではないか。(8節)」

身の回りの事で心晴れない今、6.8節の御言葉は励みとなる。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「もたれてもどこかに力が入ってる生きていくことおしえてくれる木  落合優子」


コメント(0) 
共通テーマ:

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。