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エゼキエル書  1章1節~2章2節 [エゼキエル書]

<わたしはケバル川の河畔に住んでいた捕囚の人々の間にいたが、その時天が開かれ、わたしは神の顕現に接した。(1節)>

「バビロンへの捕囚民の一人として、民と共にいたエゼキエルのもとに、神さまが顕現し、幻を見せて下さいました。神さまが見せられたのは非常に不思議な幻でした。激しい風と火の中、不思議な生き物が空を飛んでいる。その生き物は人間のよう。この不思議な幻は、天の国の幻です。まさしく神がここにおられることを現しています。」と、鍋谷牧師は書きだされる。

「祭司ブジの子エゼキエル(3節)」 ユダヤの祭司職は世襲なのでエゼキエルはその教育を受けていたと思われるが、バビロン捕囚となった彼はエルサレム神殿ではなく、他の捕囚の民と共にバビロンで奴隷の一人として働かされていた。彼はすでに祭司として神に仕える夢を失くしていたかもしれない。ところが、そのエゼキエルに神がご自身を顕されたのである。

神はイスラエルを選ばれ、エルサレムに都をおかれた。そこにソロモン王が主なる神に礼拝を献げるための壮麗な神殿を建てた。けれども神は、一つの国、一つの町、一つの場所に限定してご自身を顕されるのではなく、いつどこでもおいでになり、顕現されることができる事がここで示される。

4節以下にその様子が記されるが、その光景があまりにも荘厳で神々しく、非常に難解な文章ですとO牧師は話された。「四つの顔を持つ生き物」とは「ケリビム」を象徴し、車輪は「契約の箱」を象徴する。イスラエルの民が出エジプトを果たしたとき、神はイスラエルと共に旅するために「契約の箱」を作らせ、その蓋にケリビムを置き、そこを神の臨在を表す場所「玉座」と定められた。

「生き物の霊が、車輪の中にあった」というのは、契約の箱の中にそのしるしとして十戒を記した石板が入れられていたことに対応していると考えられる。このような光景が、今バビロンの捕囚となっているエゼキエルの眼前に鮮やかに幻によって表されたということは、このケバル川の河畔が神の居ます場所、礼拝を献げる場所として神が選ばれたという事を示す。

神は、奴隷となって屈辱を受け続ける中ほとんど絶望しかなったエゼキエルに、大きな希望を与えられた。バビロンは神のおられない、神に呪われた地ではなく、また、奴隷の地でもない。ケバル川河畔と天の御座は繋がれている。主なる神はイスラエルの民と共におられ、エゼキエルを神と人との間に立ち、神の言葉を語り、人々を取りなす神の祭司としての務めに立てようとしておられる。

「幻を見る」と言うのが実感できないので、ネットの投稿を読み、文を綴らせて頂いた。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「帽子かぶるように殺意をかぶりたり泰山木の咲く下に立つ  川本千栄」


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