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マルコによる福音書 12節28~44節 [マルコによる福音書]

<イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはやあえて質問する者はなかった。(34節)>

「ある律法学者が主イエスに『あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか』と尋ねました。主イエスは神さまを全身全霊で愛することと、隣人を自分自身のように愛することという戒めを示されました。」と、横井牧師は書きだされる。

「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」今日私が命じるこれらの言葉を心に留め、子どもたちに繰り返し教え、家に座っている時も道を歩く時も、寝ている時も起きている時も、これを語り聞かせなさい。(申命記6章4~7節)」は第一の掟であり、

「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。私は主である。(レビ記19章18節)」は第二、この二つにまさる掟は他にないと話された。S牧師は「この二つの掟を結ばれた所に主イエスの新しい教えがあります。ルカ書10章では、この問答に続いて『良きサマリア人』が話され、聞くだけでなく行うのだと言われます。」と、促される。

主イエスの時代、人々は救い主(メシア)の来臨を待望していた。メシアはダビデの子であることは、イザヤ書はじめ旧約聖書に預言されていた。「ダビデの子」と呼ぶのは、ダビデの子孫であり、ダビデのような王であり、彼はローマ帝国からイスラエルを解放する王であった。人々はそんな目で主イエスを歓迎していた。そのような中、主イエスは、彼らのメシア待望論を否定された。

ダビデの詩である詩編110篇を用いられ、「ダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか」と、群衆に語られると、律法学者たちに気を付けるようにと話された。彼らは権威の象徴である長い衣をまとい、人々に挨拶される事を好み、・・・見せかけの長い祈りをする。主イエスは「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受ける事になる。(40節)」と言われた。

主イエスは賽銭箱に人々が金を入れる様子を見ておられた。賽銭箱はじょうごの形をした金属でできたもので、金、銀、銅の音が、献金の量を周りの人に告げていた。主イエスは貧しいやもめがレプトン銅貨(1レプトンは一日の賃金の128分の1)2枚をささげたのをご覧になった。

「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、誰よりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は乏しい中から自分の持っている物を全て、生活費を全部入れたからである。(43.44節)」と、主イエスは弟子たちに言われた。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「ヒートテックをさらに一枚かさね着る骨まで凍みる三寒四温 坪井睦彦」


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マルコによる福音書 12節13~27節 [マルコによる福音書]

<彼らがそれを持ってくると、イエスは、「これは誰の肖像と銘か」と言われた。彼らが、「皇帝のものです」というと、イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。(16節)>

「ファリサイ派の人々とヘロデ派の人は、結託して、主イエスに『皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか』と尋ねました。」と、横井牧師は書きだされる。

問いかけた彼らは、ファリサイ派は忠実に律法を遵守する事を強調する派であり、ヘロデ派はガリラヤとベレアを統治していた、ヘロデ・アンティバスの行政に関与する人々である。18節に登場するサドカイ派はユダヤ人の富裕階級で祭司と密接な関係にあった。普段は反目しあう人々であったが、民衆が主イエスの御言葉を、喜んでいる様子をこのままにしておくことは出来ないという思いで一致していた。

主イエスが「納めるべきだ」と言えば、ローマの属国とされているユダヤの民衆が黙っていないし、また、ファリサイ派にとっては許し難いことだった。しかし、納めなくていいと言えば、それはローマへの反逆となり、主イエスをローマ帝国に訴える口実になると、ヘロテ派゙は思っていた。

主イエスは「なぜ、私を試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい(15節)」と言われた。そしてデナリオン銀貨に彫られているのは誰の肖像と銘かと問われた。主イエスに彼らが、「皇帝のものです」と答えた。すると主イエスは彼らに「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と言われた。誰も反論できず、さらに「神のものは神に」については理解できなかった。

K牧師は「神は人をご自身の形として創造されました。ですから主イエスは彼らに、神からの招きを語られます。神の像(形=人)のものは神に帰らなければならないと言われるのです。放蕩息子の父のように、私たちが神に立ち帰り、神の国に入る事を待っておられるのです。」と話された。

次にサドカイ派の人々が近づき、特殊な例を引き合いに出して、復活には矛盾があるがほんとうにあるのかと尋ねた。主イエスは、結婚はこの世における関係で、神の国においてその関係は無くなる。そして、彼らが重んじるモーセ五書において神が「私はアブラハム、イサク、ヤコブの神である」と言われたのは、死んだはずの彼らが主の御許で生きており、やがて蘇る証だと話された。

「罪のゆえに、自分を神のものとせずに生きて来た私たち。そのような私たちを『神のもの』として回復して下さるのです。」と横井牧師は結ばれた。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「海に向き身はやわらかになってゆくそうだ今日から髪を伸ばそう 三谷弘子」


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マルコによる福音書 11節20~26節 [マルコによる福音書]

<だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすればそのとおりになる。」(24節)>

「前日に主イエスが呪われたいちじくの木が、枯れていました。それを見た弟子たちに対して主は『神を信じなさい。誰でもこの山に向かい、立ち上がって海に飛び込め』と言い、少しも疑わず自分の言う通りになると信じるならば、その通りになる」と言われた。」と、横井牧師は書きだされる。

いちじくの木の話は、主が神殿から商人を追い出された出来事を挟むようにして記される。葉が繁っても実のならないいちじくの木は、エルサレム神殿を指していた。大勢が集まり活気のあるエルサレム神殿に主は祈りを見る事が出来なかった。翌朝いちじくの木は根元から枯れていた。

この後AC70年、神殿はローマ帝国によって滅ぼされる。それ以降現在に至るまでエルサレム神殿が再建する事は無く、その場所にはイスラムの岩のドームが建てられている。み言葉がその通りになった。

立ち枯れたいちじくの木を指すペトロに主イエスは「祈り」について、山に向かって「海に飛び込め」と命じて、少しもそれを疑わないならば「その通りになる」と話された。S牧師は「私たちが祈るときに大切なことは、それは『神を信じる。』という事です。神が共にいてくださり、何でもできる全能のお方であることを信じる事です。」と話された。

主に永遠の命を求めたが、全財産を貧しい人に捧げる事が出来ず立ち去った若者、10章27節「人間にできる事ではないが、神には出来る。神は何でもできるからだ」と言われた。また、子どもの病の癒しを求めた父に9章23節では「『できれば』と言うか、信じる者には何でもできる」と言われた。何でもできる神を信じる者には何でもできると、主イエスご自身が断定される。

神を信じて祈るとき最も大切なことは「少しも疑わない」という事であると教えられる。しかし、それが難しい、山が海に飛び込むことなどあり得ないと思っている。また勉強しない孫のために高校入試の成功を祈っているが、「さすがに無理だろうな。」と決めている。病気だって治らないし。

S牧師は「主は疑わず信じて祈ることを求められます。そして祈り求める者にはすでに聞き入れられたと信じなさいとも言われます。しかし、その祈りが聞かれないならば、あなたの祈りの動機を吟味する必要があります。あなたの願いが神の御心に適う願いでしょうかと吟味するのです。そのようにして、私たちと神との関係は深まって行くのです。」と話された。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「二階より桜木機透けて見ゆる墓碑仕舞うをしばし待ちて守らん 大倉秀己」 



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マルコによる福音書 11節12~19節 [マルコによる福音書]

<そして人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか『私の家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった。」(17節)>

「この箇所の主イエスは、私たちが描く主イエスの姿とはずいぶん違います。主イエスは強い嘆きと憤りをあらわされます。」と、横井牧師は書きだされる。

エルサレムに入城された主イエスは辺りを見回られた後ベタニアに戻られ、翌日再びエルサレムに向かわれる。その道で、空腹を覚えられていた主は葉の繁ったいちじくの木に近寄り、実をさがされたが実のなる季節ではなかった。すると主は「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように(14節)」と言われた。

それから、エルサレム神殿の境内に入られると、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛をひっくり返された(16節)」。柔和だと思っていた主イエスから想像のできない乱暴な行動である。そして「祈りの家と呼ばれるべき、神殿を強盗の巣にしてしまった」といわれる。

しかし、この事は先ほどの実のならないいちじくの木と繋がり、主がエルサレムにおいでになって、何より最初にしなければならない事、その意味で主が一番大事にされた事が、この二つの出来事に象徴されているのである。

主はひたすらエルサレムを目指されていた。それは、十字架につけられ、三日目に復活するためで あると教えられている。「しかし、死刑が必要ならすぐに裁判官のもとに行くべきなのです。ところが主はそうなさらなかった。エルサレムに上って来られたのは、堕落した神殿を清めるためであったと思うのです。神殿は神殿の名に値しなくなっていたのです。」と、O牧師は話された。

「空腹を覚えられた(12節)」という言葉から、前日、エルサレム入城を果たされ辺りの様子をご覧になった結果、主は激しい飢えを感じられたのです。人々の歓呼の声、神殿に向かう人々の賑わい、商売人の売り声、全てが神から遠く離れたものであることを思われました。それは葉ばかりが繁って実のならないいちじくの木でありました。私たちの教会はどうでしょうかと、O牧師は続けられた。

お正月のテレビは神社参拝する大勢の「善男善女」を映していた。この後起こる地震の事を知らず。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「写真でのみ顔全体を知っている生徒が話す恋人のこと 川上まなみ」


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マルコによる福音書 11節1~11節 [マルコによる福音書]

<二人が子ロバを連れてイエスのところに戻って来て、その家に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。(7節)>

「主イエスはエルサレムに入城される時に『子ロバ』をお用いになられました。これはゼカリヤ書9章9節の御言葉の成就です。『ロバ』は、柔和を表します。主イエスが私たちのために、重荷を共に負ってくださり、十字架の上で私たち罪人の身代わりとなってくださる。その柔和でへりくだった主、平和の君に相応しいものです」と、横井牧師は書きだされる。

主イエスはロバの子に乗って城壁で囲まれたエルサレムに入城される。ロバについて旧約では価値の低いものと考えていた。律法の規定によれば全ての家畜の初子は神に献げなければならなかったが、ロバだけは例外で、献げ物に価しないとされ、代わりに小羊を献げることになっていた。ロバの子は神に献げる事のできない、神が良しとされないもの、価値のないものとされていた。

ロバと対照的な馬は、軍事力の象徴と捉えられ、戦勝者は馬に乗って入城していた。そのような中、主イエスは馬でなく、ロバの子をエルサレム入城に当たって用いられた。エルサレム入城は政治的なメシア、キリストを求め願い、歓喜する民衆の姿が記されているが、しかし主イエスはそのような願いに真っ直ぐに応える事をなさらなかった。

K牧師は「生き方を、軍隊によって象徴される権力や、武力によって整えられることが、人間の社会にとって相応しくないという判断が、この箇所を通して記されます。ここは、武力の滑稽さを笑い飛ばすような皮肉をロバに乗ることで演じて見せた主イエスのパフォーマンスなのです。権力を相対化し、やがては無化へと至らせる民衆の、知恵の復権こそを主は求められるのです。」と話された。

現在日本のキリスト者はこの世の知恵に流され、現状の武力、権力を承認し、否を言う事が出来ていないのではないか。キリスト者の社会的責任は重いとK牧師は話される。神に対する応答としての奉仕である礼拝は、同時に人間に対する奉仕としての倫理である。どのようにキリストを証していくのかの内容が絶えず問われ続けていると話された。

「主イエスは神の救いを実現するために罪、不義、悪に対して戦われます。主イエスは苦しみを受けるためにエルサレムに入城されます。嘲られ、鞭打たれ、殺されるために来られました。私たち罪人を救うためです。私たちも、子ロバのように、主と共に歩みましょう。」と、横井牧師は結ばれる。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「離れれば無視するなと言い近づけばウザイという子が過去話し出す 澁谷義人」


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