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箴言 16章16~32節 [箴言]

<知恵を得る事は金に勝り、分別を得る事は銀よりも望ましい。(16節)>

世界中の誰が富者であったかと言えば、ソロモンを筆頭にあげる事が出来るでしょう。銀や金を石のように使ったほどの栄華です。その彼が「知恵を得る事は金に勝り」と言う。そして「正しい人の道は悪を避けて通っている。魂を守る者はその道を守る。(17節)」と続く。

「痛手に先立つのは驕り、つまずきに先立つのは高慢な霊。貧しい人と共に心を低くしている方が、傲慢な者と分捕りものを分け合うよりよい。(18.19節)」 自分を高める者は低くされ、自分を低くする者は高く引き上げられる。これは霊的法則としてこの地上に存在している。弱者は自分より力ある者にすり寄りがちだが、知恵はその逆である。

「何事にも目覚めている人は恵みを得る。主により頼むことが彼の幸い。心に知恵ある人は聡明な人と呼ばれる。優しく語る唇は説得力を増す。(20.21節)」 み言葉に心を留め、主により頼み、見えるものにではなく見えないものを信じる事が幸いとなる。

「人間の前途が真っすぐなようでも、果ては死への道となることがある。労苦する者を労苦させるのは欲望だ。口が彼を駆り立てる。(25節)」 自分自身は真直ぐと思っていたのに、死に向かう道となる事がある。自分の判断でなく、主を畏れ、主にお任せし、自分は神の示される御業を見る知恵と力を求めて祈ることだ。食べていくために働くのだが、それ以上の利を求めるのは欲望である。

「白髪は輝く冠、神に従う道に見いだされる。忍耐は力の強さにまさる。自制の力は町を占領するにまさる。(31.32節)」 主にあって年を取ることは光栄な事だと、日々感謝しなければなるまい。しかし歳を重ねても、柔和になれない者だが、自制の力は町を攻め取る力に勝るらしい。

「くじは膝の上に投げるが、相応しい定めはすべて主から与えられる。(33節)」 15.16章のまとめにようなみ言葉である。膝に投げられるというくじがどのような形なのかは知らないが、人々は祈ってからくじを投げるが、その結果は主が与えられたものである。「キリスト者は霊的に能動的でなければならないが、結果は主に委ねるのです。とK牧師は話された。

「私たちの心や魂が脅かされる時、神のみ名にすがる事によって守られる。それだけでなく、人生のどん底に落ちた時にも高く上げられる。そんな安心感が得られ、信頼を寄せる事が出来るのが『主のみ名』なのです。」と、伊藤牧師は結ばれる。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「教わることを知らぬあぢさゐ外は雨 友が出奔するほどの恋 魚谷たま江」


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箴言 16章16~32節 [箴言]

<知恵を得る事は金に勝り、分別を得る事は銀よりも望ましい。(16節)>

世界中の誰が富者であったかと言えば、ソロモンを筆頭にあげる事が出来るでしょう。銀や金を石のように使ったほどの栄華です。その彼が「知恵を得る事は金に勝り」と言う。そして「正しい人の道は悪を避けて通っている。魂を守る者はその道を守る。(17節)」と続く。

「痛手に先立つのは驕り、つまずきに先立つのは高慢な霊。貧しい人と共に心を低くしている方が、傲慢な者と分捕りものを分け合うよりよい。(18.19節)」 自分を高める者は低くされ、自分を低くする者は高く引き上げられる。これは霊的法則としてこの地上に存在している。弱者は自分より力ある者にすり寄りがちだが、知恵はその逆である。

「何事にも目覚めている人は恵みを得る。主により頼むことが彼の幸い。心に知恵ある人は聡明な人と呼ばれる。優しく語る唇は説得力を増す。(20.21節)」 み言葉に心を留め、主により頼み、見えるものにではなく見えないものを信じる事が幸いとなる。

「人間の前途が真っすぐなようでも、果ては死への道となることがある。労苦する者を労苦させるのは欲望だ。口が彼を駆り立てる。(25節)」 自分自身は真直ぐと思っていたのに、死に向かう道となる事がある。自分の判断でなく、主を畏れ、主にお任せし、自分は神の示される御業を見る知恵と力を求めて祈ることだ。食べていくために働くのだが、それ以上の利を求めるのは欲望である。

「白髪は輝く冠、神に従う道に見いだされる。忍耐は力の強さにまさる。自制の力は町を占領するにまさる。(31.32節)」 主にあって年を取ることは光栄な事だと、日々感謝しなければなるまい。しかし歳を重ねても、柔和になれない者だが、自制の力は町を攻め取る力に勝るらしい。

「くじは膝の上に投げるが、相応しい定めはすべて主から与えられる。(33節)」 15.16章のまとめにようなみ言葉である。膝に投げられるというくじがどのような形なのかは知らないが、人々は祈ってからくじを投げるが、その結果は主が与えられたものである。「キリスト者は霊的に能動的でなければならないが、結果は主に委ねるのです。とK牧師は話された。

「私たちの心や魂が脅かされる時、神のみ名にすがる事によって守られる。それだけでなく、人生のどん底に落ちた時にも高く上げられる。そんな安心感が得られ、信頼を寄せる事が出来るのが『主のみ名』なのです。」と、伊藤牧師は結ばれる。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「教わることを知らぬあぢさゐ外は雨 友が出奔するほどの恋 魚谷たま江」


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箴言 15章16~33節 [箴言]

<諭しをなおざりにする者は魂を無視する者。懲らしめに聞き従う人は心を得る。主を畏れる事は諭しと知恵。名誉に先立つのは謙遜。 (32.33節)>

「本当の謙遜とは、自分は神に生かされているのだと知ることによる畏れと知恵から生まれてきます。その畏れと知恵が人を謙遜へと導きます。遜った生き方へと繋がっていくのです。そして、その謙遜によって得られる名誉も、主に帰すべきものなのです。『誇る者は主を誇れ(Ⅰコリント)』」と、伊藤牧師は説かれている。

「財産を多く持って恐怖のうちにあるよりは、青菜の食事で愛し合う方がよい。(16節)」 ソロモンはエジプト王の娘と婚姻し、神に盛大な献げ物をした。そこで神が「願う物を与えよう」といわれると彼は「知恵」を求めた。神はこれを喜び、多くの物を与えると約束された。ユダヤ教では、ソロモンは知恵文学の著者とされているが、歴史的な裏付けはなく、考古学的には疑問視する意見もある。

「意志の弱い者には無知が喜びとなる。英知ある人は歩みを正す。相談しなければどんな計画も挫折する。参議が多ければ実現する。正しく答える人には喜びがある。時宜にかなった言葉はいかに良いものか。(21.22.23節)」

アメリカの優秀な大学を卒業した中国人留学生が、TVのインタビューで帰国して国のために働くと答えていた。自由の国アメリカでの民主的考え方に同調する事無く彼は、「この国では、話し合いが多く、決定するのに時間がかかりすぎる。知恵ある者が統率してゆく私たちの国の方が、スムースに事が進みます。」と言ったので、驚いた。

確かにそうかもしれないが、恐ろしい考えだと思った。私たちの国でも会議で何も決まらない誰も意見を出さないなど問題はある。正しいと思っていても、タイミングよく発言するのは難しい。O牧師は「御声を聞き分けましょう。聖霊がその時も言葉も与えて下さいます。」と言われた。が難しい。

「主は逆らう者に遠くいますが、従う者の祈りを聞いて下さる。目に光を与える者は心をも喜ばせ、良い知らせは骨を潤す。(29.30節)」ついつい祈りを怠るのは、祈りを主が聞いて下さっている事を忘れているからだ。良い知らせは目にも耳にも良い影響を与え、その知らせは肉体の健康にも良い影響を与える。

「主を畏れる事は諭しと知恵。名誉に先立つのは謙遜。」 過ちばかりの自分だが愛し続けて下さる神に、自分の全てを曝し、全てを探って下さいという謙遜さが与えられますように。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「過積載と自分にあだ名をつけてみるもう積めないと思ひつつ積む 澤村斉美」


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箴言 15章1~15節 [箴言]

<柔らかな応答は憤りを静め、傷つける言葉は怒りをあおる。知恵ある人の舌は知識を明らかに示し、愚か者の口は無知を注ぎ出す。(1.2節)>

「昔から、言葉の乱れが問題視されることがありますが、それは見方を変えるなら言葉の変化と言えるでしょう。・・・それでもあらゆる感情や物事を『ヤバイ』の一言で片づけてしまうのだけは受け入れられません。だからこそ、たとえ高尚でなくてもできるだけ『知識を明らかに示す』言葉を口にしたいものです。」と、伊藤牧師は書きだされる。

生まれついて柔和な人がいる反面、悪気はないのに話しぶりで人から誤解を受ける人もいる。自分も言葉で多く失敗するので、読み返しながら送るメールは有難い。しかしここでは、その人の性格、人柄によらず、知恵が与える柔和な心を持てという事だ。与えられた知識を、どのように使うかが大切で、知識は知恵によって管理するのだと。反抗期の孫に頭を痛めている者への忠告でもある。

「どこにも主の目は注がれ(3節)」主が全てを見通される。悪事を働く時にも善行を施す時にも。「無知な者は父の諭しをないがしろにする。懲らしめを守る人は賢明さを増す。(5節)」 子供が自主的に物事の判断をするのが良いとされる時代、すこし封建的ではないかと思うが、しかし

O牧師は「十戒には父母を敬う事が命じられています。親は子にとって神の代理人なのです。子が善悪の判断をする時に、親はその自覚をもって祈りつつ子を導くようにと聖書は教えます。そして成長に従って自分で判断できる子にしていくのが教育です。」と話された。子育ては難しい。

「主は逆らう者のいけにえをいとい、正しい人の祈りを喜び迎えられる。(8節)」自分の罪を知ると、それを帳消しにと願い、捧げ物を献げる行為はキリスト教にはない。イザヤ書では「どんな祈りを増し加えても、聞くことはない。あなた方の手は血まみれだ。洗え、身を清めよ。わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け・・・」と、その行いを改める事が、主なる神へのいけにえだと、記される。

「道を捨てる者は諭しを不快に思う。懲らしめを憎む者は死に至る。陰府も滅びの国も主の御前にある。人の子らの心はなおのこと。(10.11節)」 地獄にも主がおられると黙示録は語る。「そのような者は、神の怒りの杯に、神の怒りのぶどう酒を飲む。聖なるみ使いたちと小羊の前で、火と硫黄で苦しめられる。」 けれど、その力ある主は私たちの心に「なおの事」おられるのだと語られる。

生きていると絶えず選択している。買い物から帰り、しばらく休むか、買った物を片付けるかと考え横になる。そういう時、自分に潜む知恵が選んでいるのだろう。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「無意識という意識のありてカップ麺ひとつ入れたり買い物かごに 沢田麻沙子」


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箴言 14章27~35節 [箴言]

<主を畏れる事は命の源。死の罠を避けさせる。(27節)>

「箴言には『主を畏れる』という言葉が何度も登場します。この『畏れる』とはどういうことなのでしょうか。日本語の辞書では『近づきがたいものとしてかしこまり、敬う』と説明されています。ただ、聖書ではその意味にもっと深みがあります。」と、伊藤牧師は書きだされる。

「知恵ある女は家庭を築く。無知な女は自分の手でそれをこわす。主を畏れる人はまっすぐ歩む。(1節)」14章の書き出しは、やや、今の時代に受け入れがたい表現だが、主を畏れる者と不遜な者の人生、知恵ある者の謙虚さと無知な者の傲慢などのように、良い事と、悪いことを比べ読者に二者択一を問う。そして繰り返し「神を畏れよ、神に従順であれ」と説き続ける。

遊び散らかしたまま眠ってしまった子どものおもちゃを片付けながら「いつもこんなにきれいだといいのに」と何度も思った。「牛がいなければ飼い葉桶は清潔・・・(4節)」の個所でその事を思い出した。家中に明るさをもたらしてくれる子の存在、懸命に畑を耕してくれた牛を忘れては本末転倒である。傲慢な者は神の御声を聞こうとしないから学べず、謙遜な者は真の知恵が学べる。

「思慮深い人は自分の知恵によって道を見分ける。(8節)」無知な者は失敗を相手のせいにして攻め合う。「魂の苦しみを知るのは自分の心、その喜びにも他人はあずからない。(10節)」自分の喜び苦しみを本当に理解できるのは自分である。人生は順調な中で災難に遭遇する事もあるし、笑顔の裏に嘆きが待ち受け、喜びが一瞬で悲しみに変わるときもある。

未熟な者は何事も易々と信じるが、知恵ある人は熟慮して道を見分ける。知恵ある人は神を畏れて悪を避け、愚か者は懲りずに悪を重ねる。悪だくみする者は憎まれ、浅はかな者は愚行を続け、熟慮する者は知識を尊重する。「友を侮ることは罪。貧しい人を憐れむことは幸い。罪を耕す者は必ず迷い、善を耕す人は慈しみとまことを得る。(21.22節)」

報われる苦労もあり、知恵ある人は裕福になるが、愚かな者は欠乏をもたらし、無知な冠が与えられる。「国が強大であれば王は栄光を得る。民が絶えれば君主は滅びる(28節)」バビロン捕囚で滅びを経験した国ならではの警句である。

聖書の「畏れる」とは、神がこの世界を造られた事を信じ、自分の命もまた神のものであること、神によって生かされていると信じ、神に感謝と信頼を寄せる事だと思います。」と伊藤牧師は記される。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「五歳児にそれはこまったねと言えばそんなにこまってないと応える 村田弘子」


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