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箴言 25章11~28節 [箴言]

<時宜にかなって語られる言葉は、銀細工につけられた金のりんご。(11節)>

「私たちはなかなか舌を制御する事が出来ません。特に隣人との関係において口から出る言葉が、時に相手を悲しませる事があります。一方で自らがそのような言葉によって傷つけられる事があります。大切なのは時宜にかなう言葉を語る事です。」と、木村牧師は書きだされる。

25章1節は「これらもまた、ソロモンの箴言である。ユダの王ヒゼキヤのもとにある人々が筆写した。」と始まる。ヒゼキヤはソロモンの時代から約300年後に人々の信仰を覚醒した王である。彼は神の前に誠実に祈り、叫ぶことによってアッシリアの攻撃からエルサレムを守った。それは当時の人々の想定外の奇跡であった。その偉大な王のもとで箴言の言葉が現在の形に編集された。

蜂蜜を見つけたら、欲しいだけ食べてもいいが、食べ過ぎて吐き出す事がないように、「友人の家に足を運ぶのはまれにせよ(16節)」 友人があなたに飽きてあなたを嫌うことがないように。蜂蜜を見つけた喜びと、心が通い合う友人を得た喜びが並行して記される。吐いてしまうほど食べ過ぎた蜂蜜、親しい交わり、それが依存的な関係になることの危うさが並べられる。

人それぞれ入り込まれたくない領域を持つので、人間関係には適度な距離感が大切だ。その距離感は人によって異なり、自分にとって物足りない距離が相手にとって近づき過ぎだという事もある。O牧師は「私たちが神を求めるのは、神にしか満たす事のできない心の渇きを持つからではないでしょうか。その渇きは無限で、神によってしか満たされないのです。」と話された。

「寒い日に衣を脱がせる者。ソーダの上に酢を注ぐ者、苦しむ心に向かって歌を歌う者(20節)」 O牧師は「時々、私たちは心悩ませている人に『いつも喜んでいなさい』と話したり、愛する人を失った人に向かって『神は万事を益として下さる』などと、励ましのつもりでいう事があります。その言葉が、傷口に塩を塗り、ソーダに酢を注ぐような過ちを犯します」と、話された。

「あなたを憎む者が飢えているならパンを与えよ(21節)」 S牧師は「敵を愛せよというのは、好きになる事だと思うのは誤解です。相手から憎まれているのに、その人を好きになり親しみを覚える事が出来たら、神の形に創造された者としての人格が麻痺しているといえます。怒りを感じなくなったら、私たちは人に踏みつけられ、振り回されるままになってしまいます。彼らに好意を持てないから、彼らは『あなたの敵』と呼ばれている事を忘れてはなりません。」と話された。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「炎天の新宿西口スニーカーの中で少し蒸れてる指先 黒沢梓」


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