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箴言 26章1~12節 [箴言]

<愚か者にはその無知にふさわしい答えをするな、あなたが彼に似た者とならぬために。(4節)>

「この4節の御言葉は、この世を生き抜くための一つの大切な教えです。なぜなら、現代も誹謗中傷など隣人を貶める言葉が特に匿名性の下であふれているからです。それらの言葉一つ一つに応答する事は、結果的に自らも愚か者となってしまう危険性があります。」と、木村牧師は書きだされる。

今日の個所のキーワードは「愚か者」。その対応に4節ではするなと言い、5節では「愚か者にはその無知にふさわしい答えをせよ。彼が自分を賢者だと思い込まぬために。」と、答えるようにと促す。どのように考えるのだろうか。

4節5節は両方とも「愚か者」についての知恵に基づきつつ、全く矛盾した警告が語られる。S牧師は「私たちに何を教えているのでしょうか。それは現実問題の対応について、絶対的に『これだ』という永遠に不動の固定した基準というものは、ないのだという事でしょう。否むしろ、一つの方便や確信を絶対化してはならない、すべきではないという事なのではないでしょうか。」と話された。

現実問題に対して誤りのない絶対的な答えを持っているとする者は、他からの評価を喜ぶ。そしてそれは思い上がりとなり、自分を自分の目に「賢い者」とする。確かな答えを持っておられるのは、主なる神であって人間ではないという事を知らなければならない。

「自分を賢者と思い込んでいる者を見たか。彼よりは愚か者の方がまだ希望が持てる。(12節)」は、思い上がる人に対する厳しい警告である。自分の知識、知恵、経験、力、確信にたより、謙虚さを欠く者は「愚か者」以上に始末におえないという事である。

処女マリアからお生まれになった主イエス、墓に葬られたのに蘇られた主イエス、この出来事について、自分は受洗したものの心は信じていなかった。それでも、礼拝を守り、聖霊の導きを頂き今は心から信じる者になっている。その事を信じるからキリスト教なのだと確信している。

O牧師は「確信は信仰者にとって必要で、大切なことです。しかし、その確信が絶対化しないよう目覚めていなければなりません。信仰者は相対化の用意のある開かれた確信、揺らぎ、疑う、躊躇う事もある確信、何よりも自分の限界を弁えた謙虚な確信を持ちたいものです。閉じられた確信からは自己絶対化が生まれ、それは盲信、狂信となり、暴力的な破滅へ向かいます。」と話された。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「日常に戻りゆくまち提灯は既に下ろされ骨組みばかり 竹井佐知子」


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