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コリントの信徒への手紙Ⅱ  1章15節~2章4節 [コリントの信徒への手紙Ⅱ]

<わたしたちはあなたがたの信仰を支配するつもりはなく、むしろ、あなた方の喜びのために協力するものです。あなた方は信仰に基づいてしっかり立っているからです。(24節)>

「使徒パウロは、自身が建てた教会に複数年滞在することはまれで、複数の教会を巡回しながら福音宣教に励みました。それゆえに、課題はパウロが去った後の教会形成にありました。実際にコリント教会はパウロが去った後にいくつもの深刻な問題が生じました。」と、阿部牧師は書きだされる。

コリント書Ⅰ16章でパウロは、コリント教会への再訪問を計画していたが、それが適わなくなった。それはコリント教会内に彼に対する反感が募り、彼の来訪を喜ばなくなった事。それと、パウロがエフェソで投獄されるという出来事が起こったためであった。その時の複数の手紙がコリントⅡとして編集された。

パウロは50年頃、ガラテヤ教会を立て、その後マケドニアで伝道、さらにコリントに教会を立てた。その後、エフェソで開拓伝道を始める。コリントⅠを記したのはその頃で、そこに、エルサレム教会への献金を募るため、近々コリント教会を訪問したいと記している。その事によってパウロへの誤解が生まれた。それを受けて書かれたのが今日読む「和解の手紙」である。

「私はあなたがたがもう一度恵みを受けるようにと、まずあなたがたのところへ行く計画をたてました。」と記し、そしてコリントを経由してマケドニアに赴き、それからコリントに戻り、エルサレムへ送り出してもらおうと計画していた。しかしこれは軽率な計画だったのか、私が計画するのは人間的な考えによる事なのか、と記し「私にとって『然り、然り』が同時に『否、否』となるのでしょうか」と問いかけた。

「はい」が同時に「いいえ」となる。パウロの言葉は矛盾だらけ、信用ならないとパウロに反感を持つ人々は中傷し、他の人々に同意を求めていた。パウロはこれを放置したままコリントの人々に会うことは出来なかった。それは、パウロが宣べ伝えたイエス・キリストの福音に及ぶものであったからだ。

「私たちが、あなた方の間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、『然り』と同時に『否』となったようなお方ではありません。この方においては『然り』だけが実現したのです。神の、約束は、ことごとくこの方において『然り』となったからです。・・・私たちとあなた方とをキリストに固く結びつけ、私たちに油を注いで下さったのは、神です。(15~21節」と記した。

O牧師は「それで、私たちは御言葉にヘブライ語ではその通りですとなります『アーメン』を唱えるのです。私たちがそう神様に応える事が出来るのは『聖霊』が与えられているからです。」と話された。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「自慢話ばかりの人と別れ来てセロリときゅうりをピクルスにする 縣敦子」


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