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ガラテヤの信徒への手紙  2章11~21節 [ガラテヤの信徒への手紙]

<わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。(21節)>

「イエスは神の恵みを、共に食事をとるという事を通して示してこられました。それもその当時、罪人として、また小さく見られていた人たちとの食事を通して。異邦人宣教を進めていく中で律法の限界が明白になりました。だからこそパウロもイエスのように、変わりゆく時代に人に寄り添い、神の恵みを分かち合ったのです。」と、中道牧師は書きだされる。

「さて、ケファ(ペトロ)がアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので(11節)」と、書き出される。ペトロはアンティオキア教会に来た当初は割礼を受けていない異邦人キリスト者と食事を共にしていたのに、それに反対の人たちがやって来ると、ペトロは彼らに忖度し、割礼を受けていない異邦人と食事を共にすることを避けた。するとアンティオキア教会の人々もそれを同調するようになった。

そこでパウロは「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活する事を強要するのですか(14節)」と言った。そして「私たちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません(15節)」と言った。異邦人への差別、ユダヤの特権意識、回心する前のパウロはそういう思いを抱いていた。

「けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義として頂くためでした。なぜなら、律法の実行によっては、誰一人として義とされないからです。(16節)」

パウロのこの言葉は、差別的な態度をとっていたユダヤ人キリスト者たちにとって衝撃的であった。なぜなら、それは彼らが今まで築き上げてきたユダヤ人としての自負や誇りを覆すものであったからだ。

O牧師は「私たちはキリストを知る事がなければ、キリストを信じる者へと変えられる事は無かったのです。そして自分が罪人であり、その罪から救って下さる救い主が必要であることも知らなかったのです。そのような者が、神の御前において、罪人ではなく義と認められ、裁きの前で無罪判決が与えられたという事です。主はその独り子を尊い対価として支払って下さったのです。」と説かれた。

「私たちも神の恵みを、キリストの死を無意味なものにしてはいけません。神の恵みを額縁に飾って眺めるのではなく、・・・キリストが示されたように神の恵みを分かち合っていくのです。」と中道牧師は結ばれる。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「ギーギーと鳴いてコゲラは樹をつつく未来はいつもそこにあるから 梅津浩子」


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