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ヨハネによる福音書 17章20~26節 [ヨハネによる福音書]

<また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によって私を信じる人々のためにも、お願いします。(20節)>

「主イエスは、弟子たちだけでなく、弟子たちにより福音が伝えられて、主イエスを信じる者となった者のためにも祈られました。つまり、私たちのためにも祈って下さったのです。」と、横井牧師は書きだされる。

主イエスは「父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、全ての人を一つにして下さい。彼らも私の内にいるように・・(21節)」と、祈られる。「一つに」とは、霊的に、内面的に一つになる事であり、一つの目標を掲げ、それに向かって一致団結せよという事ではない。共にクリスチャンではあるが、出自、年齢、職業などの違いがありつつも、信仰的な一致を神に求められる。

信仰による一致、一人一人が主の十字架の贖いによってその罪を赦されたという体験を持つ。S牧師は「そこから生まれて来る一体性です。それがなかったら一致は生まれません。主イエスが愚かな罪深い私を愛し、そのために命を捨てて下さった事を知り、この方を信じるなら私たちの内に神の愛が生まれ、互いに考え方は違っても必ず一つになる事が出来るのです。」と話された。

教会の一致を見た時「そうすれば、世は、あなたが私をお遣わしになったことを信じるようになります。あなたが下さった栄光を、私は彼らに与えました。私たちが一つであるように、彼らも一つとなるためです。」と祈りを続けられる。 教会の人々の温かい愛の交わりを見る時、この世の人々はその中に主がおられる事を知るのですとS牧師は説かれた。

初めて教会に来られた方は、説教の内容は良く分からなくても、その場の雰囲気から、この世にはない何かを感じてほしいと祈っている。それだけの力が教会員にはない。先日は少し心を病んだ方が来られ教会員は夫々声をかけ、喜ばれたのだがもう来られなくなった。Rさんは自分が使った言葉が悪かったのかと反省していたが、この先は神さまが考えられますと牧師が言われた。

教会は主イエスを頭(カシラ)とする群れである、だからこの世の人々は教会を見るときこの世にないものをそこに見る事が出来る。教会には、命を捨てて私たちを愛して下さった愛と命が溢れている。教会は自分の利益を求めず、苦しめられても隣人の益になる事を求める群れである。一人ではできないが、その道を進まれた主イエスに従って、聖霊の恵みを頂きながら歩む群れである。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「自転車でパンかいにゆく春だって言われれば春みたいな野を抜け 高野岬」


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ヨハネによる福音書 17章1~19節 [ヨハネによる福音書]

<わたしはもはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えて下さった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。(11節)>

「主イエス・キリストは、弟子たちのために祈られます。『永遠の命とは、唯一の真の神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知る事です』と、言われています。『永遠の命』とは、『永遠なる神さまとの交わり』を意味します。」と、横井牧師は書きだされる。

「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすようになるために、子に栄光を与えて下さい(1節)」 この17章は「大祭司の祈り」と呼ばれている主イエスの執り成しの祈りですとS牧師は話し始められた。祈りの5節まではご自身のために祈り、6節からは地上に残していかなければならない弟子たちのために祈られる。

「子の栄光を…」と祈られるが、十字架はもっとも思い残酷な刑罰であった。それに掛けられる者にとっては苦悩、恥辱、敗北をあらわした。およそ「栄光」からはほど遠いものである。しかし主イエスの十字架による贖いの死は、人々に『永遠の命』をもたらすために不可欠なものであった。

次に弟子たちについては「彼らはあなたのものでしたが、あなたは私に与えて下さいました。(6節)」と祈られ、主は御子イエスを世に遣わされたように、弟子たちは主ご自身によって彼らを世に遣わされた者としてみられる。主は彼らのために「あなたのみ名によって彼らをお守りください。・・・悪いものから守ってくださるように」と祈られる。迫害が避けられない事を予告されながら。

「真理によって、彼らを聖なる者として下さい。あなたの御言葉は真理です。(17節)」と祈られる。主はご自身を十字架の死へと献げられる。弟子たちをこの世に派遣される主にとって彼らがその使命をどのように果たすかという事が大きな関心事であった。それで、御言葉(聖書)によって、彼らが良き働き人として霊的に整えられるようにと祈られた。

先日の礼拝に、20代の若者がふらりと顔を見せられた。YouTubeで学んだ事を次々と牧師に披露し質問をする彼に、K牧師は「聖書にその答えはあります。読んでごらんなさい」と、聖書を渡し、必ず最初の創世記から読んでくださいと、勧められていた。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「私の美容代よりトリミング高きワンコをお迎えに行く 高山葉月」


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ヨハネによる福音書 16章1~15節 [ヨハネによる福音書]

<しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせる。その方は自分から語るのではなく、聞いた事を語り、またこれから起こる事をあなた方に告げるからである。(13節)>

「主イエス・キリストは、弟子たちに対する訣別説教の中で、ご自身が弟子たちのもとを去って、父なる神様のみもとに帰られる事を語られました。主イエスが弟子たちのもとを離れることは、実は『あなたがたのためになる』ということです。」と、横井牧師は書きだされる。

この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知らされた主イエスは、愛する弟子を集めて、最後のメッセージをされる。この翌日、十字架に架けられて殺される。「人々が私を迫害したのであれば、あなたがたをも迫害する。」と迫害予告をされた主イエスは、弟子たちにこれらの事を話したのは、その時が来た時に、私のこの話をあなた方に思い出させるためであると話された。

「今、私は、私をお遣わしになった方のもとに行こうとしている(5節)」その言葉に、弟子たちはもう何も言えなかった。それは彼らにとって耳を塞ぎたい出来事であり、悲しみと絶望にただ俯いていたのだろう。しかし主イエスは「私が去って行くのは、あなた方のためになる。私が去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである(7節)」と言われる。

「弁護者」とは「聖霊」の事である。日本基督教団の信仰告白には「・・・父と子とともに崇められ礼拝せらるる聖霊は、信じる者を聖化し御心を行はしむ、この三位一体なる神の恩恵によるにあらざれば、罪に死にたる人、神の国に入る事を得ず。新旧約聖書は神の言にして、そのうちに語りたまう聖霊は主イエス・キリストを顕示し、信仰と生活との誤りなき審判者なり。・・・」とある。

主イエスの後に来られる聖霊は、罪について、義について、裁きについて世にその過ちを明らかにされる。最大の罪は、神を信じない事にあるとK牧師は説かれた。そして「本来、人間は神の形に創られ、神の栄光を現す者として造られたのに、その神から離れ、自分本位に生きるようになってしまうのです。聖書はそれを罪と言います。」と話された。

しかし、その方が来ると自分の罪が明らかになる。自分がいかに自分勝手であったか、またそのために神に反逆していたかがわかり、自分の罪を認めないわけにはいかないのです続けられた。

「ちち、みこ、みたまのひとりの主よ~♪」礼拝の最後はこの三位一体の頌栄を和す。頭で理解しようとするとわからないが、自分は聖霊の導きを頂いている事を今は確かに信じている。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「節分の鬼にも寂しき鬼のいて駅で傘持ち人を待つ鬼 真間梅子」

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ヨハネによる福音書  1章1~18節 [ヨハネによる福音書]

<言(コトバ)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた。(14節)>

待降節第3主日礼拝。「ヨハネの福音書は、90年頃主が復活され、弟子たちに聖霊が降ってから、60年を経て記されました。福音はユダヤ全土に宣べ伝えられ、3福音書はすでに教会の中で読み継がれていました。使徒の多くは殉教し、彼も90歳。福音宣教が広まり、教会も多く建て上げられ、かなり落ち着きを持ち始めた時、彼はこの書を書きました。」と、K牧師は話し出された。

主イエスが誰であるのか、その本質を3福音書には記されていないとヨハネは感じていた。それにはギリシャ語の「ロゴス」を用いて主イエスを描くのが適していると判断した。ヨハネ書は「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と始まる。主イエスは神の言であり、神ご自身である。宗教家でもなく、預言者でもない、神そのものであるから全く信頼に値するのであると記す。

「万物は言によって成った。成ったもので、言によらず成ったものは何一つなかった。(3節)」は、創世記1章「神は言われた。『光あれ』こうして、光があった。」に通じている。主イエスは水をぶどう酒に変え、「ラザロよ、出て来なさい」と大声で叫び言葉によって彼を蘇らせた。主イエスは創造主である神にしか出来ない奇跡を次々と行われた。

「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。(4.5節)」 K牧師は「全てのものを造られた神は、人の命も造られました。人は単に肉体が生きる、また心豊かにというだけでなく、霊的に自分が生きている意味を知って生きるために造られています。でも、それは神に繋がる事によってはじめて可能なのです」と話された。

人々は主イエスを認める事が出来ず、この光を消そうとした。宗教指導者と、彼らによって扇動された人々は主イエスを十字架につけて殺した。彼らはこれで光を消す事が出来たと思ったが、3日目に主イエスは復活された。光を消すどころか、光はますます輝くようになった。

2千年前の人々は、神の存在を信じながらも、宗教指導者の説く神に翻弄され、律法を守り切れない自分の罪を嘆き、人を裁いてしまう状態で暗闇を歩いていた。そのような世に主イエスは、馬小屋で生まれて、飼い葉おけで安らかに眠っておられた。クリスマスの喜びを、全ての人に伝えたい。

ガザにも、イスラエルの国にも、戦場のメリークリスマスはない。彼らは私たちと同じ主なる神を信じる者であるが、主イエスを知らない。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「駅前の小さなそば屋はおばちゃんがおばあちゃんになりどんぶり運ぶ 野口一海」


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ヨハネによる福音書  11章25~27節 [ヨハネによる福音書]

<イエスは言われた。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると私は信じています。」 (25~27節)>

祈祷会は、日本キリスト教団出版局発行の「信仰生活ガイド『使徒信条』」を学ぶ。今日はその第12回目<「使徒信条12「身体のよみがえり、永遠の生命」 ―究極の希望のもとに、地上の生命を生きる―と題された、日本基督教団狛江教会の岩田昌路牧師の記事を読んだ。

「教会は、使徒信条の最後において『我は・・・身体のよみがえり、永遠の生命を信ず』と、告白します。教会の見つめる希望はどの様なものであるかを、要約して表す言葉です。この言葉に結び付いている、私の経験をまず語らせて頂こうと思います。」と岩田牧師は語り出される。

牧師となって初めて葬りの式を執り行い、極度の緊張で火葬場に向かわれた事。ご遺体が火葬炉へ移され扉が閉じられた時、「主イエスの語られた一つのみ言葉が心の中に立ち上がって来ました」と語られる。それは前掲したヨハネ書11章である。「私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」兄ラザロの死を悲しむマルタに、私に、主が問われているのです。

マルタの声に合わせるように、彼はその信仰によって復活の命を目指しながら、神の御許に召されていきました。死はすべての終わりではない。死んでも生きるという約束を成就するため、主イエスは十字架に死なれ、死の墓から復活され、死に勝利された。私たちもまたその恵みに与っている。

聖書は究極の希望として、主イエス・キリストが再び来られる終わりの日について告げる。終わりの日とは、神の国の完成が成就する日の事である。教会は終わりの日を待ち望み「御国が来ますように」「主よ、来て下さい」と祈り続けている。

「神は豊かな憐れみにより、私たちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなた方のために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者として下さいました。(ペトロ書Ⅰ)」

「希望は生きている」のです。岩田牧師は「主イエス・キリストの復活によって保障される希望は、どのような時にも決して輝きを失う事がありません。教会は主イエス・キリストに結ばれ、罪を赦され、永遠の命を約束された神の子らの集いです。すでに、私たちは地上にあって死への勝利を確信し、永遠の生命に生き始めているのです。」と、結ばれた。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「人ごとのように聞きおり子供らが話し合っているわが後始末 今井眞知子」


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