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ローマの信徒への手紙  3章27~31節 [ローマの信徒への手紙]

<では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。(27節)>

待降節第2礼拝。「私たちは神が与えて下さった信仰によって救われています。示された神の義は『イエス・キリストを信じる事により、信じる者すべてに与えられ、そこには何の差別もありません。(22節)』 人々は律法を守り得ず、絶えず自らの罪によって歩む道を失いますが、主は導いて下さるのです。その事を信じる恵みの中に置かれている事を感謝します。」と、K牧師は話し出された。

毎週火曜日は近くのカトリック司祭館で行われるホームレスの炊き出しに参加しているが、隣人を助ける事は容易ではない。対象者は神が遣わされた人々だと頭では思うが、気づけば、いつも自分が優位に立って接している。偽善者にならないように思うが、どこかで自分の善行ポイントを加えている。

行いによって与えられる「誇り」は、どんなに謙遜に振舞っても、それは偽物でしかない。K牧師は「不要なプライドだと捨てようとしても、それをを捨てようと努力する事が自分の行いになってポイントがつくのです。人の誇りは信仰によってしか取り除かれないのです。」と、微笑まれた。

「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見出すだろうか(ルカ書18章)」と嘆かれた主イエスは、「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえを話された。祈るために二人の人が神殿に上った。ファリサイ派の人は立って「神様、私は・・・この徴税人のような者でない事を感謝します。」と、自分が律法を遵守している事を誇らしく語り、心の中で祈った。

徴税人は、遠くに立って、目を天にあげず、胸を打ち「神様、罪人の私を憐れんでください」と祈った。「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。誰でも高ぶる者は低くされ、遜る者は高められる(14節)」と、主イエスは言われた。「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見出すだろうか。」 主は今を生きる者に突き付けられる。

しかし、律法が全く無であるという事ではないと、K牧師は話された。「レントゲンやCTスキャンは病巣を発見しますが、それをもとに診断を下し治療をされるのは医師です。だから罪を明らかにするレントゲンは律法で、罪から、病から救われるのは医師の治療であり、神を信じる信仰です。」

「私の信仰を増して下さい」と言う使徒に主イエスは「からし種一つほどの信仰があれば、桑の木に海に根を下ろせと、言っても従うだろう(ルカ17章)」と、答えられた。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「機窓から見る列島はいきもので川という名の欠陥を持つ 音平まど」



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ローマの信徒への手紙  3章21~26節 [ローマの信徒への手紙]

<ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわちイエス・キリストを信じる事により、信じるものすべてに与えられる神の義です。そこには、何の差別もありません。(21~23節)>

昨日の礼拝から「待降節」に入る。自分は数十年前のクリスマスにキリスト教も、主イエスについても良く分からないまま受洗を申し出た。S牧師はそれをよくご存じの上で洗礼準備会は「信仰告白」を教材とされた。その後、長老会で出自や職業、出身校など問われる事なく洗礼を承認されキリスト教徒となった。ネットで読んだだけだけど、ユダヤ人になるための条件とは大違いである。

パウロは生粋のユダヤ人であったが、復活された主イエスに出会い「律法とは関係なく」と言えるまでのキリスト教徒となった。神の義が示され、神がその義を私たちのためにすべて用意されたのだとパウロは説いた。そして義による裁きも、すべて行って下さり、それを私たちは贈り物として受け入れるようにして下さった。その事を信じる事を通して神は私たちを「義」と見なして下さるのだと。

律法を破るとユダヤ人社会から追放されるとか、病気になったのは先祖が律法を犯す罪をしたせいだとか、とにかくイスラエルの多くの民は平均台を歩くようにびくびくと律法を守り、破った者を裁いていた。しかし、主イエスが世に与えられ、人々は義人を装う必要から解放された。神の愛を説かれる主イエスの恵みのみ言葉に誰もが救われた。

「み言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行う事ができる。(申命記30;14)」 4000年も前の御言葉だけど、今も生きて関わって下さる神を実感できる。

ユダヤの人々は、自分の罪を告白して動物を屠り、その血が流されるのを見て、罪から自分を救って下さる神を信じていた。その屠られた動物の姿は十字架の主イエスである。私たちの罪を背負って、罪を帳消しにする為、主イエスは血を流され陰府に下られた。そして三日目に復活して下さった。弟子たちはその福音を宣べ伝えるために使徒となって宣教にでかけていった。

誰もが罪を持ち、神の前には進めない。けれど、主イエスが執り成し続けて下さるので、神からの一方的な恵みに与ることができている。恵みとは受けるに値しないものを受ける事である。そして「義と認めて下さる」とは、「罪を一度も犯したことがないように見なされる」ということである。神が一方的に「義」と認められるのは、「主の十字架の贖いが土台となっています」とK牧師は話された。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「抑留の映画観る間もミサイルは撃ち合ひ止まず今年も暮るる 西山千鶴子」


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ローマの信徒への手紙  3章9~20節 [ローマの信徒への手紙]

<「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれもう役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。(10~12節)>

「神から自分たちは選ばれた民だというユダヤ人も、その彼らから異邦人と蔑まれている人々も、みんな平等に神の裁きの前に立つのだとパウロは語ります。そして、その流れの中で『ではどうなのか、私たちには優れた点があるのでしょうか』と、問いかけます。」と、K牧師は話し出された。

「優れた点は全くない」とパウロは否定する。3章冒頭で、御言葉を委ねられたという点においてはユダヤ人は優れていると語ったばかりなのに。ユダヤ人の特別の価値を認めているが、全ての人間は罪の下にあり、その事において全ての人間に優れた点はないのだと語る。自分が神に対して正直者なのかと問われれば、自信がないが「罪の下」にいる者だと教会で指摘されるのは面白くない。

「私たちは真面目に生きていますが、落ち込み、反省し、やり直しながらです。聖書がいう『罪』の本質というのは、人間が自分でどうにか出来るというものではないということです。反省して心入れ替えてやり直したらいい、そういう生易しいものではないのです。私たちは罪をコントロール出来ないのです。「罪の下」にいる私たちは、自分で自分の罪をどうにもできないのです。」とK牧師は話された。

「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない」 ユダヤ人は御言葉を委ねられていた。この時代、聖書学者はたくさんいて御言葉は研究され、皆その内容も熟知していた。しかし、本当の意味で神を求めている人はいないのだと、詩編14篇を示しパウロは嘆く。

詩編は「皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」と続くが、役に立たないとはどういう事だろうか。イエス・キリストの十字架、復活を抜きにした神との関係は「役に立たない、無益なもの」、虚しい存在でしかないと。私たちは言葉によって罪を犯し、その結果、破壊と悲惨があり、平和の道を歩めない。神への畏れがないと詩編は指摘する。

「主を畏れる事は知恵の初め」神を畏れる、神を神として敬う。そこから神と人間の関係が回復し、神の前で豊かに生きる。人間の幸せはそこから始まるという事を教えられながら、神を畏れる事が出来ない。神を畏れる者は、知恵のない、科学技術のレベルの低い者だと考えるようになる。自分が神になり、強いと思い、神などいらず全てがコントロール出来ると考える。

K牧師は「科学の発展を聖書は否定していません。でも神を畏れない者はその技術を正しくコントロール出来ないのです。終わりの見えない戦争を覚えて祈りましょう。」と結ばれた。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「秋晴れの林にあけびを捜しつつ高枝ばさみ抱えて歩く 石川洋光」
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ローマの信徒への手紙  3章1~8節 [ローマの信徒への手紙]

<彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。決してそうではない。人は全て偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。「あなたは言葉を述べる時、正しいとされ、裁きを受ける時、勝利を得られる」と書いてある通りです。 (29節)>

ユダヤ人たちは自分たちだけが神に選ばれた民、その神の選びの印が律法であり、割礼だと考えていた。これらのものを神から与えられていることを誇りとし、それによって自分たちは神の御心を知らされ、本当の知識と真理を弁えていると思い、それらを持たない異邦人を闇の中にいる者、無知な者として蔑んでいた。

しかし、パウロの教えは彼らの誇りや自負を徹底的に否定し、打ち砕くものであり、ユダヤ人たちを激しく怒らせることになった。彼らはパウロの教えは間違っていることを様々な方法で示そうとした。パウロは彼らが自分を批判して語っている事を取り上げたうえで、4節、6節には「決してそうではない」を繰り返す。

特別な民であることを認めたうえで、「まず、彼らは神の言葉を委ねられたのです。」と記す。その事がユダヤ人に与えられた特別な恵みであることを記す。

ユダヤ人は神からの語りかけを受け、導かれていた。彼らは委ねられたみ言葉に応答する責任がある。にも拘らずユダヤ人はそれを特権として、自分たちは他の民族より優れていると錯覚し、異邦人を蔑み裁き、与えられたみ言葉を自分の所有物のようにしていた。神は彼らを信頼してみ言葉を委ね、彼らがみ言葉に生きる事によって、神の栄光が示される事を望んでおられたのに。

ユダヤ人は、確かにパウロのいうとおりだが、ユダヤの歴史は神の言葉に不誠実な事実の連続であった。しかし、ユダヤを神がご自分の民とされた事は無効にはなっていないはずだ。約束を破られる神ではないので、我々が異邦人と同じという事はないと、強烈な特権意識、身勝手な主張を続ける。

神に選ばれた者たちの中に不誠実な者がいたとしても、それによって神の選びの約束が無になってしまう事はない。神は真実な方であり、ご自分のなさった約束をどこまでも誠実に守り実行される。その契約の恵みがユダヤ人の罪によって破棄されてしまう事はないとパウロは言った。

K牧師は、赦しの前には何より悔い改めが必要ですと話され、詩編51篇ダビデの詩を読まれた。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「会議室広くて暗し窓全て開け放ちたり議題進まず 北乃まこと」


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ローマの信徒への手紙  2章17~29節 [ローマの信徒への手紙]

<内面がユダヤ人であるものこそユダヤ人であり、文字でなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉は人からではなく、神から来るのです。(29節)>

「ユダヤ人は、自分たちは神に選ばれた民であって、選ばれていない異邦人とは違う。自分たちは神の御心を知り、神にどう仕えたらよいかが分かっているので、自分たちは罪人ではない。神の前に正しい者なのだという自負、誇りを強く持っていました。」と、K牧師は話し出された。

ユダヤ人は、律法の中に知識と真理とが具体的に示されていると考え、自分たちは盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負し、異邦人に対して優越感を持っていた。そこでパウロは「それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。『盗むな』と説きながら、盗むのですか。」と厳しく追及した。

彼らは律法を与えられている事を、自分たちは神に選ばれた民であることの「印」であると考えていた。「神を誇りとし(1節)」、神に選ばれた民であることを誇りとし、神を知らず、律法を与えられていないとして異邦人を軽蔑する。それは、神を自分たちが持つ所有物の一つのようにみなし、神を自身の誇りの種にしていることに他ならない。

「あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている。(24節)」 律法を知る者の生き方を通して異邦人は神を崇めているだろうか。むしろ「盗むな」と説いて盗む、「姦淫するな」と教え姦淫を行う、律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮る、あなた方ユダヤ人の信仰を通して異邦人たちは「神はそういう人なのだ」と思っているのではないかと、パウロは指摘する。

割礼はユダヤ人と異邦人を区別するものであった。男子は自分が神の民ユダヤ人であることを体に刻み付け特別な民とされていると思っていた。その彼らに「割礼も律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じ」だとパウロは言った。律法や割礼だけで自分たちは特別だと思い、異邦人を見下す彼らに、あなた方も神の前に罪人だとパウロは断言した。

7節でパウロは「あなたはユダヤ人と名乗り」と単数で語り、25節も「あなたが受けた割礼」となっている。パウロはこの手紙を読む者に「これは、あなたのことだ」と語る。この手紙が記された頃、ローマ教会の人々の中には、ユダヤ人もいたが、むしろ異邦人の方が多かった。その教会に対して、パウロはユダヤ人の罪を「あなた」という言葉を使って指摘するのだとK牧師は話された。

そして「これはキリストを信じて、教会に連なる『あなた』への忠告ではないでしょうか。」と言われた。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「ブレーキを幾度踏めど止まらざる夢をまた見ぬ水面が迫り 村上和子」


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