SSブログ
コリントの信徒への手紙Ⅱ ブログトップ
前の5件 | 次の5件

コリントの信徒への手紙Ⅱ  7章2~16節 [コリントの信徒への手紙Ⅱ]

<テトスは、あなた方一同が従順で、どんなに恐れおののいて歓迎してくれたかを思い起こして、ますますあなたがたに心を寄せています。わたしは、すべての点であなたがたを信頼できることを喜んでいます。(15.16節)>

「『心を開いて下さい』。パウロが献金をだまし取った、不義を行ったという疑念に対する反論として、パウロは自分たちの使徒としての働きにおける人の無力さによる苦しみと神の力強さについて語ります。」と、中道牧師は書きだされる。

7章1節の、「神から与えられた約束」という、約束の一つは「私はあなたがたを受け入れる」であり、そして「あなた方の父となる」、そして「あなた方は私の息子、娘となる」である。このような約束がすでに与えられているのだから、「霊肉の汚れ」から、自分を清めるようにとパウロは6章で勧めた。肉の汚れとは不品行の事であり、霊の汚れとは偶像礼拝の事だと考える。

「私たちに心を開いて下さい。私たちは誰にも不義を行わず、誰をも破滅させず、誰からもだまし取ったりしませんでした。(2節)」と、パウロはコリントの信徒に呼び掛ける。厳しい弾圧の中にあるエルサレムにある教会への献金を募った事が非難されていた。

パウロは、マケドニア州にいた時、コリント教会にあった問題の事で気が沈んでいた。そこで、コリントにテトスを派遣したのだが、彼からの連絡はなかったので、気落ちしていた。「しかし、気落ちした者を力づけて下さる神は、テトスの到着によって私たちを慰めて下さいました。(6節)」 パウロは気落ちを通して神を深く知る事が出来た。痛みは無駄に終わらず、慰めの神を深く知る事が出来た。

パウロが慰められた状態から喜びの状態になったのは、コリントに人々の彼に対する反応であった。彼らは、パウロが戒めた事、叱責したことに対して無関心ではなかった。彼らはそれを真剣に受け止めて、自分たちの罪に気付き、悔い改めたのであった。この事を知ってパウロは心底嬉しかった。

「悔い改め」の意味は、「思いを変える」という事で、進んでいる方向を転換することを意味する。だから、悔い改めるのは感情的な事柄よりも、むしろ意図的な事柄なのである。自分は余計なことを言って人を傷つけ、そのたびに悔いるのだが、気づけばまた繰り返している。神に対して悔いていないからだと指摘された。

「パウロが無力さの中に身を置きつつも神の力強さに気が付く事が出来たのは、神を信頼し心を開いたからです。」と中道牧師は結ばれる。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「集合の写真の口は一斉にはずししマスク握られてをり  首藤よしえ」


コメント(0) 
共通テーマ:

コリントの信徒への手紙Ⅱ  6章11節~7章1節 [コリントの信徒への手紙Ⅱ]

<神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われている通りです。「わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。そして、彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。(16節)>

「神様は神殿の一番奥の玉座にドーンと座っておられる動かない存在ではなく、私たちの間に住み、私たちの間を巡り歩く存在です。たとえあなたが遠く神殿の入り口にいたとしても、神さまの方があなたの元へとやって来て、共に時間を過ごして下さいます。」と、中道牧師は書きだされる。

パウロはコリントの信徒たちに、「信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛に繋がれてはなりません(14節)」と、忠告する。「正義と不法」「光と闇」「キリストとベリアル(悪魔)」「神の神殿と偶像」を、全く正反対なものとして述べてゆく。

しかし、それは罪人とも食卓を囲まれる主イエスとは正反対な考えではないだろうか。無宗教の人で立派な人はたくさんいるし、むしろクリスチャンであっても酷いことをする人はいる。このパウロのような考えでいると、キリスト教を知らない人に御言葉を宣べ伝えても誰も心を開いてくれないだろう。

S牧師は「その通りです。けれども、同時に神から離れて生きている人は、神の明確なメッセージを持たないという意味では霊的な暗闇の中にいて、サタンの悪い影響を受けやすいということをパウロは語っているのです。そういう人々に手を差し伸べ、光の下に来るようにと招くのです。しかし、その人々の闇の力、サタンの深みに、宣教するものが引きずりこまれる事もあるのです」と話された。

言われてみれば、日本の伝統的な文化に感心するがそれが偶像崇拝であったり、性差別であったりしている事に気づかずにいる。クリスチャンになったからそれらの文化を否定するのではなく「クリスチャンになるという事は、神の王国の民という新しい国籍を得たのです。この新しい国籍に生きるため、古い生き方の中で改めるべきものは改める、そういう姿勢も大切です。」とS牧師は話された。

パウロは16節から、神はこう言われたと、聖書からのみ言葉を引用する。それらはみな、神の民イスラエルへの約束であるが、パウロはこうした約束が全てイエス・キリストにおいて実現したと示す。神はイスラエルの罪を裁き、彼らを世界中に離散させたが、彼らの罪を赦し、呼び集め新しい契約を結ばれた。パウロは聖書からの六箇所を引用し、教会誕生も神の約束が主イエスによって成就したのだと。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「誰も口をきかない部屋に誰よりも昔からいるパキラが枯れた はなきりんかげろう」


コメント(0) 
共通テーマ:

コリントの信徒への手紙Ⅱ  4章1~18節 [コリントの信徒への手紙Ⅱ]

<「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、私たちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えて下さいました。(6節)>

「今日においても、私たちの周りには考え方や心に覆いをかけてしまうような人の気持ちや声という『この世の神』の力が強く働く事があります。ただ、パウロはその力によって福音が人の心に入り込む余地がなくなるとは言っていません。」と、中道牧師は書きだされる。

パウロが、コリントを離れエフェソに向かって宣教をしている間、コリントにはエルサレムから派遣された人々が信徒たちを指導していた。それは、ユダヤ教の色が濃い教えであり、パウロの宣教に心打たれユダヤ教から回心した信徒たちであったのに、彼らは易々と受け入れた。それで彼らは「パウロが語る福音には覆いがかかっていて受け入れ難い」と非難した。

「私たちの福音に覆いが掛かっているとするならば、それは滅びの道を辿る人々に対して覆われているのです。この世の神が、信じようとしないこの人々の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。(3.4節)」と、パウロは記し、神の言葉を受け入れやすい言葉に変えて伝道するようなことはしないとはっきり断言した。

K牧師は「私たちが語るべきは十字架につかれたキリスト、私たちのために死んで下さったキリストのみです。キリストは十字架を負われ、絶望のうめきをあげられ闇の陰府に降られました。私たちもその十字架を負って、パウロにならって福音を隣人に告げてゆくのです。」と、話された。

パウロの外見は貧相で語り口もあまりスマートでなかったのかもしれない。それさえも人々はパウロを「素焼きの土の器だ」と皮肉ったのだろう。それに対してパウロは「あなた方は私を見て、この土の器に何の価値もないと思っているだろうが、しかし私が土の器だからこそ、神の栄光が現わされるのだ」と言った。この確信が、批判され、苦しめられ、苦難しても、パウロは伝道に落胆する事がなかった。

「私たちは、いつもイエスの死をまとっています。イエスの命がこの体に現れるために。私たちは生きている間、絶えずイエスのために死に曝されています。死ぬはずのこの身にイエスの命があらわれるために(10.11節)」

そして「私たちは見えるものでなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」と、パウロは4章を結ぶ。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「手花火のような雨音聞いている明日の約束断りしのち 松本志李」


コメント(0) 
共通テーマ:

コリントの信徒への手紙Ⅱ  3章1~18節 [コリントの信徒への手紙Ⅱ]

<もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。私たちの資格は神にあるのです。(5節)>

「パウロが自身の宣教の歩みにおいて福音を語り続けているのは、今や律法を超える栄光に満ち溢れる新しい契約に仕える資格を神が与えられたからだと言います。」と、信徒の友「日毎の糧2」を講解される鳥取・境港教会中道祐太牧師は書きだされる。

コリント教会はパウロの二回目の伝道旅行で生まれた。神はパウロの当初の意図に反して彼を、多神教の神々が住むギリシャの地での異邦人伝道に導かれた。彼はギリシャで最初はユダヤ人に伝道していたが、彼らから強い反発を受けた。そこで、コリントでは積極的に異邦人伝道を始めた。それは、主が幻の中で「恐れるな。語り続けよ。黙っているな(使徒言行録18章)」と告げられたからである。

しかし、ユダヤ人からクリスチャンになった人々は、パウロが十字架に架けられる前の主イエスから直接教えを受けていない事を理由に、ペトロやヨハネのような使徒とは比較にならない新参者だと蔑む者も出てきた。さらに、パウロが使徒であると証明する文書を求めた。

「私たちの推薦状はあなた方自身です。それは私たちの心に書かれており、全ての人々から知られ、読まれています。あなた方は、キリストが私たちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。(2.3節)」

O牧師は「私たちは自分の罪を知ると、神さまなしには生きていけないという思いが湧きます。それこそ、あなた自身が『キリストの手紙』なのだと言えます。十字架に架けられた主イエスを主と告白し、その父なる神を礼拝していること自体が、神の救いの御業を証しているのです。」と説かれた。

「神は私たちに新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えて下さいました。文字は殺しますが、霊は生かします(6節)」 十戒が記された石板を受けたモーセの顔は、その栄光に輝いた。そうであるなら、霊に仕える者の務めは「なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか(8節)」と記す。パウロが自らをモーセと比較したことに人々は、パウロは神を冒涜したと糾弾した。

モーセの書の朗読をユダヤ人たちは顔に覆いをかけて聞いた。その覆いによって、御言葉が人の心に傲慢や自己嫌悪を生んでいった。その無意味な覆いを主は取りのけられる。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「凍り付く猶予もなくて川はただ川の姿のまま海に着く 空岡邦昴」


コメント(0) 
共通テーマ:

コリントの信徒への手紙Ⅱ  2章5~17節 [コリントの信徒への手紙Ⅱ]

<救いの道を辿る者にとっても、滅びの道を辿る者にとっても、私たちはキリストによって神に献げられる良い香りです。(15節)>

「詳細は語られませんが、教会を混乱に陥らせた人物の存在とその人物に対する教会の具体的な対応があった事がうかがえます。」と、阿部牧師は書きだされる。

教会を混乱に貶めた者は厳正に処罰しなければならない。それなしには悔い改めは生じないからである。しかし、悔い改めれば許さなければならない。罪を憎むのであって、人を憎むものではないのだから。「むしろ、あなたがたはその人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して力づけるべきです。そこで、ぜひともその人を愛するようにして下さい。(7.8節)」とパウロは述べる

パウロは彼に反感をもつ人々から距離を置く事にした。そして、彼らを赦して慰めるようにというパウロの教えに信徒たちが「万事について従順であるかどうかを試すために」以前手紙を記し、その和解の使者として手紙をテトスに託し、コリント教会に派遣した。

パウロは福音宣教のためトロアス(マケドニアの主要な港町)に行った時、コリントに派遣したテトスに会えず、コリント教会の様子を聞く事が出来なかった。その不安を抱いたままマケドニア州に出発した。

「マケドニアに着いた時、私たちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです。しかし、気落ちした者を力づけて下さる神は、テトスの到着によって私たちを慰めて下さいます。(7章5.6節)」 テトスからコリント教会が「パウロに申し訳なかった」と語っている事を告げられ、パウロは喜びに満たされた。

パウロはコリント教会との和解が与えられたと、キリストの勝利の行進を賛歌する。ローマの凱旋行軍では、最初に戦争捕虜、次に香炉を振りまく祭司が続き、最後に将軍と兵士が続く。香炉から漂う香りは勝者に対しては命の香りであったが、処刑が待っている捕虜にとっては死の香りであった。

「滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。…私たちは多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。(16.17節)」

「主イエスに生きる時、自ずとキリストの香りを放つのです。」と阿部牧師は結ばれる。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「ひとつ部屋に呆けたる妻と暮らす日々哀しいような楽しいような 前田典昭」



コメント(0) 
共通テーマ:
前の5件 | 次の5件 コリントの信徒への手紙Ⅱ ブログトップ