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エゼキエル書  36章1~15節 [エゼキエル書]

<わたしはお前たちの上に人々を、すなわち我が民イスラエルを歩ませる。彼らがお前を所有し、お前は彼らの嗣業となる。二度と彼らの子たちを失わせることはない。(12節)>

「イスラエルが嗣業としてきた土地、山々は、周辺諸国に蹂躙されました。けれども、神はその敵に対して『周囲の国々は自分の恥を負う』と、裁きを語られ、そしてイスラエルの山々に対して『お前たちは枝を出し、わが民イスラエルのために実を結ぶ。彼らが戻って来るのは間近である』と、回復の約束をして下さいました。」と、竹井牧師は書きだされる。

南ユダ王国に隣接するエドム王国が、イスラエルに対して罪を犯し、その被害を受けたイスラエルの土地に対して、神がその正義をもって報いられる。

ユダ王国は国が豊かになるにつれ、民は偶像崇拝に陥った。神との契約を守ることができないイスラエル。彼らは神の御前に生きる事から逃避し、イスラエルの生命維持装置ともいうべきものを破棄したという事であった。その結果として国は社会正義が失われ、国中に罪が蔓延した。神はそうしたイスラエルを一掃するため、バビロンを立てられた。それにエドムが便乗し、ユダ王国を攻め崩壊へと導いた。

しかし、その時エドムが行った、行き過ぎた殺人や土地の搾取は神のみ旨を大きく逸脱するものであった。そのため神は、神の裁きとして被害者救済と加害者に対する懲罰とを決定され、執行するというのが、エゼキエル書36章1~15節だ。

O牧師は「バビロンもエドムも神様から立てられて、ユダ王国に攻め入ったのです。神のみ言葉に忠実に従うことにおいて私たち人間は神の御前において正しいとされるのです。けれど、そのように神の御心を行う者とされた者が、次に自分の判断において、自分の考える正義を行うなら、それは神に対する罪であり、反逆行為となるのです。私たちの教会はどうでしょうか。」と、話された。

教会がみ言葉以外のキリスト教主義、キリスト教精神などに捉われ聞き従う。それは一見すると正しいように見えても、実は神に対する反逆となる。人間には人間ゆえの限界があると、続けられた。

エドム人はイスラエルの民を追い出し、彼らの土地を貪り、はしゃぎ、嘲って、神の土地を自分の所有とした。主は彼らの貪りを重ねて指摘される。そこは、主ご自身の土地であり、主がユダヤ人たちに与えられた約束の土地であるからだ。神はエドムを赦されなかった。

北イスラエルを壊滅させたアッシリア、ユダ王国を崩壊したバビロン、そしてエドムは今日、地図にはない。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「やさしい人は人を許せると書いてある<おばあちゃんのぽたぽた焼き>に 榎本ユミ」


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エゼキエル書  34章11~16節 [エゼキエル書]

<わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱った者を強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う。(16節)>

「傷つき散り散りにされ、弱ったイスラエルの民を神はそのままにしておかれません。『見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする』。悪しき牧者だったイスラエルの指導者に代わって神ご自身が民を探し出して下さり、真の牧者として養って下さるのです。」と、7月の「日毎の糧」を担当される大分、宇佐教会竹井真斉牧師は書きだされる。

イスラエルの民を牧さず自分自身ばかりを養う指導者たち、牧者である彼らに、預言し語るようにと主は命じられる。34章は、自分自身の利のために働き、国を滅ぼしてしまった彼らの偽りの統治に、主ご自身が介入される救いの言葉で始まる。

それは「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いを癒された。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。(マタイ9章)」に重なる。 悪しき牧者に養われる羊の群れは、自力でその悲惨な状態から脱出することは出来ず、草も水もない地で敵の餌食となるほかなかった。

マタイ、ルカ書の「迷い出た羊」、そしてヨハネ10章「良い羊飼い」 福音書に繰り返される牧者の姿である。民を牧する指導者(羊飼い)がその務めを果たさないと、被害を受けるのは民(羊)である。捕囚とされた者、捕囚を免れても戦死、飢餓、他国に逃亡した人々も少なくなかった。「わたしの群れは地の全面に散らされる(6節)」と、民を尋ね求め救い出す、神の救いへの意志と決意を示される。

「見よ、わたしは牧者たちに立ち向かう。わたしの群れを彼らの手から求め、彼らに群れを飼う事を止めさせる。牧者たちが、自分自身を養うことはもはやできない。わたしが彼らの口から群れを救い出し、彼らの餌食にさせないからだ。(10章)」

S牧師は「イスラエルの滅亡、捕囚、民の離散の原因は『イスラエルの牧者』とされた国の指導者の怠慢と欲望の罪にありますが、その結果もたらされた神の民の悲惨を、神はそのまま見捨てる事はなかったのです。16節において強い意志を示される神こそ、その悲惨な民の現実を変える唯一の揺るぎないお方です。私たちもまた、大牧者である神の支配と導きの中に入れられている事を覚えます。その時、大きな安らぎと平安が私たちを包むのです。」と、話された。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「壊されていく町の名としてつぎつぎに知らない街の名おぼえてゆく  若山雅代」


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エゼキエル書  33章10~20節 [エゼキエル書]

<彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きる事を喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。(11節)>

「主だった人々がバビロンに連れて行かれ、ソロモンの時代に築かれた神殿は破壊され、都エルサレムが陥落した。そのところで神は、絶望のただ中に置かれているイスラエルの民に向かって、『立ち帰れ』と言われるのです。神は、背きの極みにいる民さえも、心の底から憐れまれ、その罪ゆえの死を惜しまれるのです。」と、鍋谷牧師は書きだされる。

少し自分の頭を整理すると、北イスラエル陥落が紀元前722年、エレミヤの召命は627年、エゼキエルは593年、エルサレムの完全陥落は587年。エレミヤとエゼキエルの預言は滅びに突き進むイスラエルの民族に向けられたものであった。エルサレムを包囲したバビロンは598年ユダの有力者を捕虜としてバビロンに連行した。その中に祭司の家系であったエゼキエルがいた。その時にはエリミヤはユダに止まっていた。

エゼキエルが捕囚の民となってから10年目、また預言者として召されてから4年目、彼は突然最愛の妻を亡くすという悲劇を経験する。その時主の言葉が臨んだ「人の子よ、私はあなたの目の喜びを、一撃をもってあなたから取り去る。あなたは嘆いてはならない。涙を流してはならない(24章)」

エゼキエルは泣く事すらできなかった。感情が心の中に閉じ込められ、本当に深刻な状態に陥った。彼は妻が死んだ翌日、神の言葉を仲間に告げる。「主なる神はこう言われる。私は私の聖所を汚す。それはお前たちの誇る砦であり、目の喜び、心の慕うものであった。お前たちが残してきた息子、娘たちは、剣によって滅びる」と言うと、その後は心を閉じてしまった。

たった今、最愛の妻を失ったエゼキエルの悲劇が、捕囚の民全体に襲い掛かるというものであった。エルサレムにある最も神聖な神殿、ソロモンによって立てられた神殿が破壊され、彼らがエルサレムに残してきた家族が剣で殺されるという主の言葉を告げた。それを聞いた人々は、聞きたくない信じたくない話をするエゼキエルを嫌った。彼自身も、口が利けない状態、深い沈黙の状態に陥った。

しかし、エルサレム陥落が告げられた時、彼は再び主の言葉を告げる者となると主は言われる。彼が妻を失い、また言葉を失ってから2年後、バビロン捕囚が始まってから12年後に、知らせが届いた。

「預言者エゼキエルは、見張りの者としてあらためて召し出されます。裁きの言葉を語る際にも、語り手としての責任を問われますが、救いの言葉を語る際にも、同じく責任を問われるのです。」と鍋谷牧師は結ばれる。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「102.7デシベルの騒音をけふは嘉手納で聴いてみるべし  与儀典子」


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エゼキエル書  33章1~9節 [エゼキエル書]

<「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたがわたしの口から言葉を聞いたなら、わたしの警告を彼らに伝えねばならない。(7節)>

「エゼキエルはエルサレムが陥落する前後の時代を生きた預言者です。神がエゼキエルを通して告げる言葉は、一方では厳しい裁きであり、一方では救いの約束です。神はエルサレムが陥落したところで救いの約束を語り始めます。絶望でしかない状況で、神は希望を語られるのです。」と、鍋谷牧師は書きだされる。

コロナのため、人の集まりが危ぶまれ教会でも礼拝の自粛が求められた。それでも、不安な中にいる人にこそ、救いの言葉をと精一杯苦心した。やっと再開した聖餐式も細心の注意を払い、杯は使い捨てのプラスチック、パンの代わりのウエハースは個包装になった。しかし、コロナからやや解放された今、片付けが楽なそれらを元に戻せなくなり、教会も地球温暖化に加担している状態だ。

「彼は剣が国に向かって臨むのを見ると、角笛を吹きならして民に警告する。角笛を聞いた者が、聞いていながら警告を受け入れず、剣が彼に臨んで彼を殺したなら、血の責任は彼自身にある(3.4節)」自然災害が後を断たず、地球温暖化を警告する多くの人の声を聞くが、味わっている便利さを教会でも放棄することは難しい。

O牧師は「私たちは地の塩、世の光でありますから、便利さを優先するこの世に神の裁きが来ることを、告げる働きを担っています。私たち一人一人が主に選ばれた見張り人なのです。大衆に向かって、あるいは権力者に警告の言葉を言わなくても、こうして私たちが毎日曜日に集まって礼拝を献げているということは、この世に対する警告のしるしでもあるわけです。」と、話された。

語らなければならない、警告し、戒め、注意しなければならない。しかし、これほど難しいことはない。先日の礼拝に初めて来られた男性に、教会に来て頂いたことを感謝し「教会のお近くですか」とお尋ねしたら「なんでそんなことを聞くのか」と言われ、不愉快な思いをさせてしまったらしい。そんな簡単なやり取りでも失敗する。

しかし、それでしり込みしてはおられない。イスラエルの人々はバビロンで捕囚となってしまったのは、先祖が神に背いたので、その罰が我々に当たったのだ。「この神の呪いの因果から抜け出せない」と、他の神々に走り偶像崇拝にふけった。

過去の原因探しではなく、一人一人が罪を悔い改めて主の前に立ち、このエゼキエル書を通して主が「あなたは、今をどう生きるのか」と問われる。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「ねむたくて祖母はわたしを見てくれず昼過ぎの窓越しの面会  田宮智美」


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エゼキエル書  32章17~32節 [エゼキエル書]

<まことに、わたしは生ける者の地に恐れを置いた。ファラオとそのすべての軍勢は、割礼のない者の間に、剣で殺された者と共に横たわると、主なる神は言われる。(32節)>

「イスラエルにとってエジプトは常に、目の前の強国であり続けました。時には敵対関係となり、時には他の強国に対抗するための援助を期待する相手となりました。このエジプトを通して告げられる託宣は、だからこそ、非常に厳しい言葉が続くのです。」と、鍋谷牧師は書きだされる。

「ファラオに対する嘆きの歌」と題された32章が「第12年の12月1日に、主の言葉がわたしに臨んだ」と書き出されるところから、時は紀元前585年3月3日で、エルサレムはすでに陥落(587年)していた。エジプトは7世紀半ばアッシリアによって征服され、今また周辺諸国によって脅かされていた。

17節、前の預言の2週間後主の言葉がエゼキエルに臨む。「お前は誰よりも美しいと思っていたのか。」と主は言われ、彼らは剣で殺された者の間に倒れる。エジプトは剣に渡され、エジプトとその軍勢はすべて運び去られる。陰府に下された強者の勇士たちが、エジプトとその同盟の国に語る。割礼のない者、剣で殺された者たちは下って来て我らと共にここに横たわるだろうと。すでにエジプトは取り返しのつかないところに来ていた。

残虐な方法で諸国の民を殺してきたアッシリアの墓は穴の最も深い所にあり、墓の周りには仲間たちがいる。エラムはペルシャにあった国で現在のイラン。アブラハムの時代から存在していたが、バビロンの王によって倒れた。メシュクとトバルはトルコの北東、黒海の南部の人々で、彼らはアッシリアと共にその地域を暴れまわった歴史を持つ。

主は彼らが生前人々に恐怖を与えたこと、それゆえ剣で刺し殺された事を強調される。主は苦しみを与える者には報いとして苦しみを与えられる。ユダヤ人にとって「割礼」はアブラハム、モーセの主との契約を通して、割礼が契約の民になった事のしるしとなった。けれども、パウロは「心に割礼を受けていなければ、その人は陰府に下る。心の割礼とは聖霊によって新しく生まれる事だ」と、説いている。

人々を恐怖に陥れてきた「全ての君主」たちは、今、辱められ、割礼のない者、剣で殺され、深い「穴に下る者と共に恥を負う。」 彼らの穴に、ファラオとそのすべての軍勢は彼らと共に横たわると、主なる神は言われる。(32節)」 主の警告は続く。

有頂天、傲慢は誰もが持つ罪であり、道徳的に戒められるものである。でも、ここでの主の警告は道徳ではなく、「主からの恵みと愛を、お前はどう用いているのか」という主の呼びかけらしい。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「台風に裂かれしままの大銀杏ひこばえ出ずる二年を経て  星野綾香」


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