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サムエル記下 12章15~25節 [サムエル記]

<ダビデは妻バト・シェバを慰め、彼女の所に行って床を共にした。バト・シェバは男の子を産み、ダビデはその子をソロモンと名付けた。主はその子を愛され、預言者ナタンを通してその事を示されたので、主のゆえにその子をエディドヤ(主に愛された者)とも名付けた。 (24.25節)>

「ダビデは弱ってゆく子供に対して、断食と祈りをもって命を願いました。しかし祈りは届かず、子供は死にました。このことは、ダビデ王家が永遠に続くという神との約束が絶たれてもおかしくない出来事でした。」と、本竜牧師は書き出される。

「主はウリヤの妻が産んだダビデの子を打たれ、その子は弱っていった。(15節)」 ダビデはみ言葉通りの事が現実となったとすぐに分かった。ダビデは断食して引きこもり、一晩中地にひれ伏して夜を過ごした。子どもは自分の罪のせいで苦しみ、その母もまた苦しんでいる。ダビデは自分を責めた。ひれ伏したまま主に祈り続けるダビデ、彼を起き上がらせようとしても、彼自身がそれを拒んだ。

七日目にその子は死んだ。その事を知ると王はどうなる事かと思うと、家臣たちは伝えることが恐ろしくて言えなかった。家臣たちが囁き合っている様子にダビデが「あの子は死んだのか」と言うと彼らは「お亡くなりになりました」と、答えた。するとダビデは「起き上がり、身を洗って香油を塗り、衣を替え、主の家に行って礼拝した。王宮に戻ると、命じて食べ物を用意させ、食事した。(20節)」

家臣たちが「どうされたのですか」と問うと、「彼は言った。『子がまだ生きている間は、主が私を憐れみ、子を生かして下さるかもしれないと思ったからこそ、断食して泣いたのだ。だが死んでしまった。断食した所で何になろう。あの子を呼び寄せようか。私はいずれあの子の所に行く。しかし、あの子が私のもとに帰って来ることはない』(22.23節)」

S牧師は「ダビデは子供を救ってほしくて、もしかしたら主は罪深い自分を憐れんでわが子を助けて下さるかもしれないと、涙を流し断食し、地に伏して必死に祈りました。 しかし、これは自分が蒔いた種であって、報いを受けるのが当然だとも思っていたのです。彼は『神を侮る罪』を犯してこの報いを受けていますので、同じ間違いを犯してはならないのです。

ですから神を侮り軽んじることなく、神のなさる事を信じ抜こうと決めていたのではないでしょうか。この子の生死は神のご判断に委ねようと。神が命の主権者です。ダビデも必死に祈りながらも『あなたの御心ならば』と祈っていたのだと思います。」と話された。

Jさんは次女が大学に合格し「やっぱり、祈り続けて良かったわ」と話していた。彼女は祈りを取り違えている。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「これでいいと思ひ切るときバスを待つわたしにバスは正しく来たり  小林真代」


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