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サムエル記下 12章1~15節 [サムエル記]

<ダビデはナタンに言った。「わたしは主に罪を犯した。」 ナタンはダビデに言った。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。しかし、このようなことをして主が甚だしく軽んじたのだから、生まれてくる子は必ず死ぬ。(13節)>

「誰も気づかないとダビデは思っていました。主が見ている事を忘れ、預言者ナタンが語る、豊かな男が貧しい男から小羊を奪い客に振舞う「たとえ話」も他人事としてしか聞かず、豊かな男の行為を怒ります。」と、本竜牧師は書き出される。

11章の最後は「ダビデのした事は主の御心に適わなかった」と結ばれ、12章は「主はナタンをダビデのもとに遣わされた。」と始まる。7章で預言者ナタンは神の永遠の契約をダビデに告げ、祝福に満ちた言葉を語り伝えていた。しかし、今度は厳しい諭しと裁きの言葉を語る。語るべき言葉が与えられた時、臆せずに真実を語るのは預言者の大切な役割である。

ナタンは王ダビデを前にして、神に立ち返るようにと罪を自覚させようとした。そのために語ったのはたとえ話「豊かな男と貧しい男」の話であった。O牧師は「たとえ話の効能は、語り手と聞き手が、事実をみ言葉によって一緒に照らされながら、罪に気付いていくところに信仰を共にする働きがあると思います。ナタンの厳しい言葉の背後には、立ち返りを待つ神の愛が知らされます。」と話された。

ダビデはナタンのたとえ話から「豊かな男はあなただ」と決定的に指摘され「わたしは主に罪を犯した」と告白する。

O牧師は「このたとえ話が示すダビデの罪とはどれほどの罪だったのでしょうか。『貧しい男』は誰でしょうか。もちろんダビデのバト・シェバへの歪んだ欲望ですが、それだけではないようです。貧しい男がどれほどこの小羊を愛していたかが語られます。『小羊を養い』という語は、普通は家畜に用いられる言葉ではありません。けれど、豊かな男は『持っていた』つまり、所有物としてしかみていません。豊かな男は貧しい男が大切にしていた『愛』を、物同然に扱ったのでした。」と、話された。

貧しい男ウリヤは、バト・シェバを奪われ、自分の命も奪われた。将軍ヨアブはダビデの企みの片棒を担がされ罪に加担した。バト・シェバは王に抗えず、従いウリヤとの結婚生活は破綻する。豊かな男ダビデが、関わる人々の愛を物のように扱った結果であった。たとえ話を通してその事が告げられる。

「その事に気付いたダビデは罪の赦しを神に乞います。王の権力による驕りから、主への信仰に立ち返った事、それこそが悔い改めなのです。」と本竜牧師は結ばれる。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「バス停に待ちゐるバスはこの街の顔してのっそり定刻に出る  三好くに子」


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