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フィリピの信徒への手紙  2章1~18節 [フィリピの信徒への手紙]

<キリストは神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執しようと思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものとなられました。人間の姿で現れ、遜って、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。(6~8節)>

祈祷会は、日本キリスト教団出版局発行の「信仰生活ガイド『使徒信条』」を学ぶ。今日はその第4日<「使徒信条 4,十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり」 -死の闇にも輝くインマヌエルの光>と題された、日本基督教団東中野教会 浦上充牧師の記事を読んだ。

「イエス様は神の子でありながらも、人としてこの世に生まれ、地上を生き、友なき者の友となりました。そして愛する弟子に裏切られ、十字架の苦しみを受けて死なれたのです。これほど悲惨な最後はありません。しかし、聖書は、ここに神の究極の愛が示されているのだと語ります。」と、浦上牧師は書きだされる。

主イエスは私たちのために「神に呪われた者」となり、神の裁きの極限まで耐え忍ばれた。本来あの十字架に架からなければならなかったのは私たちであった。パウロは、罪が支払う報酬は死であると語っている。この罪のための苦しみは私たちが負うべきものであった。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになるのですか」という主イエスの十字架の叫びは、私たちのものであった。

日本基督教会、信仰問答問42「キリストの十字架の死は、あなたに、どんな関りがありますか」 答「キリストを信じる事によって、罪の悔い改めとゆるしとを与えられ、古い私はその邪悪な情欲とともに十字架につけられ、葬られて、今や私は復活のキリストのうちに生きる者とされています。」

聖書通読を始めたばかりだが、出エジプト後半から神の厳しさを実感する。レビ記、民数記、申命記と読み進むうち、全てを神のご命令通り行う事が出来る者がいるのだろうか。この基準でいけば誰もが罪人だというしかない。人々は神の愛よりも、裁きを恐れていたのだろう。その神の独り子主イエスが、私の罪を洗い流すために十字架に架かられ死んで葬られた。考えられない事であった。

信仰問答問44「『陰府にくだり』とは、どういうことですか。」答「キリストは、私たち罪人が落ちていく陰府にまで下って、私たちの代りに、徹底的に苦しんで下さった事を示しています。そこで、私たちは陰府の苦しみと不安から全く解放されているのです。」

という事だが、死んでからのことは分からない。地獄と陰府の違いも分からない。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「どの木にも花にも黒い影はあり傾きながら地を移りゆく 矢澤麻子」


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