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コリントの信徒への手紙Ⅱ  8章16節~9章5節 [コリントの信徒への手紙Ⅱ]

<だから、あなた方の愛の証と、あなた方の事で私たちが抱いている誇りの証しとを、諸教会の前で彼らに見せて下さい。(8章24節)>

「私たちが神から頂いている恵みや祝福の数々は、心の奥底に秘めておいて一人で楽しむものではありません。『自分たちの熱意を現わす』とは、内から自然とあふれ出て来るものです。」と、中道牧師は書きだされる。

パウロが8.9章で繰り返し使う言葉が「恵み」で、与えるところに神の豊かな恵みが溢れるとコリントの人々に話す。でも、ささげる者がその献金を教会の運営費のように見なし、教会の会員費のようにみなしたら、それは神の御心にはそぐわない。「私は神の恵みによって信仰を通して救われました。」その恵みの豊かさが、献げること、与えるところに溢れるのだと説いていく。

この時、パウロが滞在していたマケドニアの諸教会では、コリントの教会の献金に対する熱心さをパウロから知らされた人々は、それに感動し献金に励んだ。パウロがテトスたちをコリントに派遣したのは、「あなた方の事で私たちが抱いていた誇りが、無意味なものにならないためです。」と言った。もし、マケドニアの人々と一緒にコリントを訪問し、献金の準備が出来ていなければ、恥をかいてしまうと。

今日は駅前でこの度の能登地震のためにと募金箱を持つ婦人たちがいた。米国の映画などでは、ホームレスらしき人にポケットのコインを彼の帽子に投げ入れたりする場面がある。スマートだなぁと感心するが、おいそれと真似できない。この団体は何と繋がっているのかとか、便乗しているのではないかと疑ってしまう。

「そこで、この兄弟たちに頼んで一足先にそちらに行って、以前あなた方が約束した通り贈り物の用意をしてもらう事が必要だと思いました。渋りながらではなく、惜しまず差し出したものとして用意してもらうためです。(5節)」

「『贈り物』神は祝福の神であります。神の一方的な行為、恵みに与って献げるのです。それに、対照的なのが『惜しみながらする』、直訳すると『貪欲。このお金は私のものなのに、どうして与えないといけないの』と思ったり、その報いを求めたりすることです。」と、O牧師は話された。

自分は神の子、だから手にした報酬も、財産も全て神のもの。それは分かるが難しい。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「白菜をざくざく笊に盛り上げて満足そうな妻の横顔 千名民時」


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