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コリントの信徒への手紙Ⅱ  11章1~15節 [コリントの信徒への手紙Ⅱ]

<だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装う事など、たいしたことではありません。彼らは、自分たちの業に応じた最後を遂げるでしょう。 (15節)>

「『悪』と聞くと私たちは不安を感じる事があります。そこには強い力があるからです。悪の力によって多くの人が困難に見舞われ、苦しみを味わう事があります。そして、その力の前でなすすべがないとまで思わせるものです。けれども、そんな悪ですら、神の義を装わなければ人を欺く事が出来ないのです。」と、中道牧師は書きだされる。

パウロは、自分のことを花嫁の父になぞらえる。花嫁はコリント教会の信徒たち、花婿とはイエス・キリストの事。当時のユダヤ社会では、父親は嫁ぐ前の娘の純潔を守る義務があり、彼女を汚れた者より守らなければならなかった。ここでパウロにとって汚れた者とは、コリントに教会に来た指導者の事である。「エバが蛇の悪だくみで・・・」と、彼らをアダムとエバをだました蛇にたとえる。

それは彼らが別のイエス、異なる福音を宣べ伝えても、「あなた方が、我慢して受け入れているからだ」と強く訴えた。彼らがキリスト教カルトのように、異端的な教えを述べていたら、パウロもその事を具体的に指摘するだろうし、またコリントの人々も彼らの話に耳を傾ける事は無かったろうと思うが。

S牧師は「彼らは教理的に曲がったことを教えたわけではなく、むしろパウロが問題にしたのは彼らの行動が主イエスの歩みを反映していなかったことにあります。彼らは主イエスのように柔和で謙虚で真っ直ぐな歩みをしていませんでした。自分の優秀さを喧伝するものではないと指摘します。彼らの教える内容ではなく、彼らの生き方そのものをパウロは見ているのです。」と話された。

「あの大使徒たちと比べて、私は少しも引けは取らないと思う(5節)」 12使徒の代表格はペトロ。パウロ自身は生前の主イエスに会った事がないが、しかし、パウロは「自分は復活のキリストから直々に宣教のために召されたのだから間違いなく使徒なのだ」と主張していた。指導者たちもそれならと自分を使徒だとしていたのだろう、パウロはそれを皮肉って彼らを「あの大使徒たち」と呼んだ。

7節以降は、パウロが無報酬で福音宣教をしている事が問題とされた事について記される。主イエスは福音を宣べ伝える者はその宣教の働きから生活の糧を得るべきだと命じられておられた。けれども、パウロはその権利を「主の働き人として用いない。経済的負担をかけない。それが誇りであり、誰もそれを奪うことは出来ない」と語った。どうして、それほど固辞したのだろうかわからない。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「生牡蠣に檸檬をしぼるときの眼でねじり切る記憶というものを 大森静佳」


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