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コリントの信徒への手紙Ⅱ  11章16~33節 [コリントの信徒への手紙Ⅱ]

<多くの者が肉に従って誇っているので、わたしも誇る事にしよう。(18節)>

「偽使徒たちは自分たちの優位性を示すために、自分の信仰を誇っていました。けれども、パウロは誇る者を『愚か者』と呼びました。なぜなら、彼らが主によらない信仰・信念を持ち、主ではなく、自身を誇り、主や人のために歩んでいなかったからです。」と、中道牧師は書きだされる。

「もう一度言います。誰も私を愚か者と思わないでほしい。(16節)」と書き出され、パウロは新しい宣教者たちに影響され、彼の事を疑い始めたコリント教会の一部の信徒たちに警告する。それは、パウロが絶えず苦難に遭っているのは、危険を回避する知恵に欠けているというものであった。

しかし、パウロは自らが受けた苦難に積極的な意味を見出していた。それは主イエスの生き方に倣う事「キリストの死をこの身に帯び」であり、誇るべき事であった。パウロは続けて「私を愚か者と思うなら、私を愚か者とみなすがよい」という。パウロがここで言う「愚か者」とは、宣教師たちの事を指す。彼らが愚かにも、自分の出自、実績を誇るなら、自分も愚か者になろうと言った。

パウロは、これから話す事は、主によって話すのではなく、愚か者の自慢話だと前置きする。「多くの者が肉に従って誇る」とあるのは、彼ら宣教師の事で、「肉によって」は、悪い意味合いがあり「世の中の基準に従って」とか「この世的な」という意味になる。19節から21節までパウロは痛烈な皮肉でコリントの信徒たちを叱責する。

22節で、パウロは自分は、ヘブル人でありイスラエル人だというが、ヘブル人とは、ヘブライ語が話せる人、イスラエル人とは神の契約の民であることを彼は強調したのである。とK牧師は話されたけれど、じゃあユダヤ人はどうなの。現代のイスラエル国民はどうなの。と聞きたかったけれど、複雑そうで止めた。

「キリストに仕える者なのか、気が変になったように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。(23節)」 そして、その証として労苦は彼らより多くと続ける。宣教実績を上げるのではなく、パウロは自分の苦難を綴り、その事を誇る。それは、主イエスの生き方に倣う事であり、主イエスのように生きている事の証であり、大いに誇ることであった。しかし、酷い目に遭っていたんだと改めて思う。

主イエスがユダヤ当局とローマ帝国によって犯罪者として処刑された事から、パウロがその人物を王として宣教するのはユダヤ人にとっては冒涜であり、ローマにとっては社会の安定を乱す騒乱罪だとみなされていた。パウロが異邦人伝道をしていた事もユダヤやローマにとっては看過できなかった。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「行間を埋め行くように降り止まぬ雨音聞こゆ味噌を溶きつつ 石橋泰奈」


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