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マタイによる福音書  25章31~46節 [マタイによる福音書]

<そこで王は右側にいる人たちに言う。「さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。」(33節)>

祈祷会は、日本キリスト教団出版局発行の「信仰生活ガイド『使徒信条』」を学ぶ。今日はその第7日<「使徒信条 7、かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」 ―私たちの罪を贖ってくださった救い主の審き>と題された、日本基督教団久万教会 小島誠志牧師の記事を読んだ。

「使徒信条の今日のこの告白はすべての人間を震撼させるものを持っています。人間が審かれるということが言われているからであります。人間の命、生き様は終われば消えていくというものではないのです。それは、問われます。神によって。」と、小島牧師は書きだされる。

人の視線からは、逃れる事も、身を隠す事もできるかもしれない。もし、自分の全てが人の視線にさらされているのだと思うと、生きてはいけないだろう。隠れている部分があるから何とか生きられる。人の目に触れない心のひだがあるから生きていけるのである。けれど、全能の神の目からは逃げ隠れできない。証拠は全て上がっている。まったく「まな板の鯉」だと小島牧師は記される。

そして続けて「しかし、この審きはそういう審きではないのです。人間のすべてを隈なく点検し断罪する、そういう審きではありません。私たちの罪を贖って下さった救い主の審きなのであります。」と言われ、Ⅰコリント4章「主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。その時、おのおのは神からおほめに与ります」を、不思議な言葉として示される。

終わりの時、審きの座に置かれた私が「おほめに与る」のである。それは、審きをなさる方が私の救い主で、私の罪の贖いのために十字架につかれた救い主は私の罪を問われない。それだけでなく、私が行った僅かな善に心を留めて下さり、その小さな志をほめてくださるのだと記される。

しかし、「王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、私にしてくれなかった事なのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命に与るのである。(マタイ4章)」 自分はこの山羊とされた人のひとりだろう。

小島牧師は「大事なことは主が『最も小さい』私たちにして下さった事を忘れない事であります。しっかりと受け止める事です。その時、私たちの足は『最も小さい者の一人』に自ずから向かいます。救い主が私たちにして下さった恵みに少しでも応えようと試みるのです。審き主はそれを見逃されることはありません、この罪人が『おほめに与る』のです。」と結ばれる。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「きら星と雲を引き連れ何となく幸せそうだ今日の満月 土井恵子」


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マタイによる福音書 18章21~35節 [マタイによる福音書]

<「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」 (25節)>

今日の祈祷会は『主の祈り』から「我らに罪を犯す者を、我らが許すごとく、我らの罪をゆるしたまえ。『私たちすべてを包み込む、神の赦しと慈しみ』」と題された、日本基督教団隠退教師 茂洋先生の記事を読んで感じたことを話し合った。

「私たちは、自分に罪を犯した人たちや負債を負う人たちを、本当に赦しているでしょうか。あるいは、少しでも赦した時に、それだから私の方が罪が少しは赦されたかと感じた途端、それは変だと思わないでしょうか。それとも、いつも完全に無抵抗的に赦さなければならないと思って、実際は不可能だと諦めてしまっているでしょうか。」と、茂牧師は書きだされる。

自分は不愉快なことを言われたり、されたりしたと思うと、その人から遠ざかるから「赦し難い人」はいない。そして「彼は頑固」だとか「自分勝手」だとか、自分の価値判断で相手に烙印を押して人を無意識のうちに選別している。そういう者も「人の罪を赦さない」行動なのだろうか。

茂牧師は「ここではっきりさせておかなければならないことは、この祈りの主文は『我らの罪をもゆるしたまえ』だということです。神の私たちへの赦しは、全く無条件的であることが基本です。神の赦しとは、祈っている人一人一人がどのような状況にあってもそのままで、神の赦しに、豊かに与っているということです。」と続けられる。

教会員のAさんは、先日自転車で転倒し、顔面を打ち前歯を折った。自転車の前かごのスマホが鳴ったので、それを取るためにハンドルから手を離したらしい。家族からも、友人からもその事を非難され、神さまが愚かな自分に罰を与えられたんだと落ち込んでしまっている。

その事を報告されたK牧師は「あなたの罪を神は先だって赦されています。自分を責めないで赦すのです。歯が折れただけで済んだのです。神の守りに置かれている事を覚えて下さい。頭を打ったり、手足の骨が折れなかった事に感謝しましょう。と彼女に伝えました。」と、話された。

1万タラントンの負債を負う家来を、憐れに思い帳消しにされた主君(神)。それなのに彼は仲間に貸した100デナリオンの返済を求め、それが不可能と知ると仲間を投獄した。その事を知った主君は返済するまでと、彼を労役人に引き渡した。自分への神の赦しは先だって頂いている、その事を覚えなければならない。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「猫の名と息子の名前間違えて君はあたふたテレビをつける  田中律子」


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マタイによる福音書 4章1~11節 [マタイによる福音書]

<さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして40日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来てイエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」 (1~3節)>

今日の祈祷会は『主の祈り』から「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。『切実な祈り、飢えと戦争より私たちを守ってください。』」と題された、日本基督教団隠退牧師 太田愛人先生の記事を読んで感じたことを話し合った。

「主の祈りは前半の神への祈りと、後半の人間に関する祈りとに分けられます。その人間に関する祈りの最初に『日用の糧を、今日も与えたまえ』と祈ることは、人間の切実な祈りとして受け止められます。なぜならばイエス自身が飢えの体験を持っており、弟子たちもまたイエスに従う時、飢えを体験したからです。」と、太田牧師は書きだされ、マタイ書4章を取り上げられる。

誘惑するサタンに主イエスは「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」と退けられる。

人間の姿を持った神の子イエスは、このように飢え渇きを自ら体験し、愛の業の最初にパンの問題を取り上げられた。また、その生涯の終わり近くに弟子たちに「お前たちは、わたしが飢えていた時に食べさせ、のどが渇いていた時に飲ませ(25章35節)」と、語られる。主イエスも弟子達も飢えが日常的であり、人々から食卓に招かれると、ファリサイ派の批判を気にすることなく招きに応じられた。

カインとアベルの争いは食に関わっていたし、エサウとヤコブもそうであった。アブラハムのエジプト滞在もヤコブの子らがエジプトに赴くのも凶作のためであった。飢えは個人や部族の異動ばかりでなく民族の移動も引き起こして行った。出エジプトでは神から奇跡のマナを頂き、民は「余ることなく・・・足りない事なく、それぞれが必要な分を集め。」飢えることなく旅を続けることができた。

飢渇の原因として昔は主に自然災害による凶作であったが、20世紀には戦争が引き起こす飢えにより多くの人々が死に至った。日露戦争は凶作を招き、銃後では農民が飢え、戦士は弾丸ではなく飢餓によって命を失った。二度の世界大戦での世界中の飢餓は戦後も長く続いた。

「日毎の糧」の祈りは、飢えと飽食に対する警告の意味を持ちます。戦争末期や敗戦の飢えで苦しんだ者は戦争放棄こそ飢えからの脱出であることを体験したはずです。それゆえ地球上で、武器ではなくパンを与え合う事をこそ祈り求め、実現すべきです。と太田牧師は結ばれる。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「枝先に体ふるわせ声を出す鶯を見る朝の山道  入部英明」


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マタイによる福音書 26章36~46節 [マタイによる福音書]

<「少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。『父よ、できる事なら、この杯をわたしから過ぎ去らせて下さい。しかし、わたしの願い通りではなく、御心のままに』 」(39節)>

今日の祈祷会は『主の祈り』から「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ『成し遂げられた御心』を知って祈る。」と題された、日本基督教団 高幡教会、岡村恒牧師の記事を読んで感じたことを話し合った。

岡村牧師は「困難な課題に直面した時、恐れや不安の中で『神様、本当にこれがあなたの御心ですか』と私たちは問いかけます。悲惨な事件や事故、戦争や不条理な出来事に心傷つき、深い悲しみの中で、『御心を教えてください』と祈ります。私たちは主の祈りの中で『御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ』と祈るたびに、神の『御心』とは何かと繰り返し問います。」と、書き出される。

そして「本当に神の御心が行われているのだと信じる事が困難な現実があります。そこで私たちはしばしば、神の御心を尋ね求めているつもりで、ただ自分が納得できる答えだけを求め、悲惨の責任者として神を糾弾してしまうのです。」と続けられた。

幼い頃、夏の地蔵盆には極楽と地獄の絵が地蔵尊の横に掲げられ、母が「嘘をついたりすると死んだらこっちに行くことになるよ」と、閻魔大王に舌を抜かれ、釜茹でされ針の山を行く地獄絵を指差して脅した。「くもの糸」を絵本で読んで極楽はこうなっているのかと思ったが、子供には退屈な場所に思えた。最近「最後の審判」の絵を見たが、死後の世界をどうしても信じることはできない。

だからここで主イエスが教えて下さる「主の祈り」は死んでからの事ではないと思う。「復活された主イエスは今も生きておられます。主がやがて再び地の上に立たれる日、つまり御国が到来する日には、神以外の一切の者がその力を失い、神のご支配が完成します。その日を待ち望みながら、この祈りを祈っているのです。」と、岡村牧師は死後の事でなく、生きる話なのだと説かれる。

「父よ、できる事なら、この杯を私から過ぎ去らせて下さい。しかし、私の願い通りではなく、御心のままに」 主イエスはご自分のお気持ち、神への信頼、全てを口にして祈られた。その上で「御心のままに」と、ただ御心を求めて、私たちのために祈り抜かれた。そして祈り終えた主イエスはたった一人で十字架へと歩まれ、「成し遂げられた」と言って十字架上で息を引き取られた。

「成し遂げられた」主の「救いの御業」は、人間の理解を遥かに超えるものであった。弟子たちは主イエスの死と復活による救いの御業を信じて生き始める。そして、今日まで聖霊が働き続けている教会では、あの日成し遂げられた神の御心がその姿を現している。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「鳥がよく鳴く霊園ににんげんの声は時々聞こえなくなる  白水ま衣」


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マタイによる福音書 6章5~15節 [マタイによる福音書]

<「だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えて下さい。わたしたちの負い目を赦して下さい、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救って下さい』(9~13節)」>

十戒の学びを終えて、水曜日の祈祷会は『主の祈り』を学ぶ事になった。最初は「主の祈り」とは(1)「私たちの祈りの主、復活の主」と題して、日本基督教団 茨木教会田邊由紀夫牧師の記事を読んで感じたことを話し合った。

田邊牧師は最初に神学大学の説教で、弟子たちに主は「こう祈りなさい」と言われた「主の祈り」は、口伝えで主の祈りに続いて弟子たちは復唱したのではないかと教えられ、その場で同じように先生の「主の祈り」を生徒が一句一句復唱したと記される。「それ以来、私は努めて主イエスが教えて下さっている声を思い描きながら、主の祈りを唱えるようになりました。」と記される。

伝道者となってある日、重病の友人のために祈っていた教会員が友人からの便りを見せた。それには、祈られている事への感謝と共に「祈りを知らない自分はどう祈ったらよいのか」と記されていた。そこで、2人で彼女の病室を訪ね「しばらくお話をし、聖書を読み、短い説き明かしをして祈りを献げました。すると、彼女は私の祈りの言葉をそっくり真似てついてくるのです。」と記される。

彼女の素直さに心打たれる。牧師の祈りを真似る彼女の祈りは力強くなっていく。そこで、これはイエス様が教えて下さった祈りで、と言って「主の祈り」の一句一句をメモしながら簡単に説明して渡された。会うたびに彼女は主の祈りを祈り、病の激痛に耐えるため、メモを握りしめ祈り続けた。「死の諸力に真っ向から対抗して、主の祈りが祈られていったのです。『天にまします我らの父よ』と。」

自分は結婚してからクリスチャンの友人に恵まれ「主の祈り」も、十字架の事も、主の復活の事も聞いていた。しかし「それはあなたの世界でしょ」と、何かが拒み心には全く入らなかった。あの時の友人が、そんな私のために信仰が与えられますようにと祈り続けて下さっていた事に感謝している。家族はノンクリスチャンだし教会の伝道も思うようにはいかない。しかし「我らの父よ」と祈り続けねば。

「主が教えてくださったこの『主の祈り』は、決して空しく消えてしまうものではないのです。復活の主が確かに受け取って下さり、父なる神に確かに届けて下さるのです。」と、田邊牧師は説かれる。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「虻の飛ぶ躑躅の茂みに風がある三時にひとり早退すれば 江種泰榮」


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