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エゼキエル書  39章22~29節 [エゼキエル書]

<それゆえ、主なる神はこう言われる。今やわたしはヤコブの繁栄を回復し、イスラエルの全家をわが聖なる名のゆえに熱い思いをもって憐れむ。(25節)>

「バビロンの大軍勢に都が蹂躙され、人々は捕囚とされ、神の民はボロボロでした。それはすべてイスラエルの汚れと罪に対して、神が御顔を隠されたからでした。神の民にとって一番の危機は、大軍勢を誇る敵ではありません。もはや神が民を忘れ、御顔を隠してしまわれるそれが何よりもの危機です。」と、竹井牧師は書きだされる

S牧師は「38章の『マゴグ』は地名で、『ゴグ』は個人名とされて、ヨハネの黙示録にも登場します。エゼキエルは『ゴグ』を、パレスチナの北方民族としてイメージしているようです。エゼキエルは地上に実在の民族というよりは、神話的・終末的な存在として『ゴグ』を用いています。神に滅ぼされたゴグの軍勢は、その罪ゆえに野生動物の餌食となるなど、幻、黙示文学的に記されています。」と話された。

バビロニアによって祖国は滅ぼされ、ソロモン王が築いたエルサレム神殿は瓦礫となり、ユダ王国の大半の民が捕囚となってバビロンに連行された。この出来事はユダの人々にとって「神が顔を隠された」という出来事に他ならなかった。バビロニア帝国はあまりに強大で、軍事力、財力、国力もユダの敵ではなかった。主なる神ではなく、異教の神々を仰ぎ、自分を神としたイスラエルを神は敵の手に渡された。

しかし、王国壊滅、神殿崩壊、捕囚という「神が顔を隠される」悲惨な経験を通して「イスラエルの家はわたしが彼らの神、主であることを知るようになる。(23節)」と、主は言われる。

イスラエルの民にとって一番の危機は、周囲の軍事力ではなく「もはや神が我々を忘れ、御顔を隠された」という思いを持つ事である。カナンの土地は神の恵みの賜物であり、そこから離れれば、イスラエルの民は神の民とは言えず、どこにも関わりのない神とは無縁の者となるのである。彼らのアイデンティティは、ただ主なる神にあるのだから、それを失えば離散し、民として消滅するしか道はない。

エゼキエルはこの危機を乗り越えるために、捕囚の民に語りかけ励ましを与える。捕囚とされ長くバビロンにいるうちにバビロンに同化してしまおうとする誘惑を跳ね返すのは容易ではなかった。しかし、黙示という表現によって、民の心の深層に主なる神のヴィジョンを刻印し続けた。彼の試みは538年、キュロスの布告により実現し、人々は捕囚から解放され、520年エルサレム神殿再建に至る。

「この事によって『イスラエルの家は私が彼らの神、主であることを知るようになる(22節)』 罪深い者たちをも憐れみ、救いの中に招き入れて下さるのが、私たちの神です。」と、竹井牧師は結ばれる。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「村人の祈り集めし道祖神手向けの花なくいま街なかに 出岡学」


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