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詩編  8章1~10節 [詩編]

<主よ、わたしたちの主よ。あなたの御名は、いかに力強く、全地に満ちていることでしょう。(2節)>

祈祷会は、「日本キリスト教団出版局発行の「信仰生活ガイド『使徒信条』」を学ぶ。今日はその第2日<「使徒信条 1,天地の作り主、全能の父なる神」 -わたしたちはどのような神につながっているのか>と題された、日本聖書神学校教授 柳下明子氏の記事を読んだ。

「西方の教会の歴史の中で大切にされてきた使徒信条ですが、現代にそれを告白するわたしたちは、この告白の冒頭から、大きな厄介に直面します。それは『我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず』、神に対してこのようにまず告白しているからです。地球の誕生や生命の起源について様々な事が解明されつつある現代において、この言葉を告白するとはどのような意味を持つのでしょうか。」と柳下教授は書き出される。

40代で生まれて初めて聖書を手にした。その冒頭が「初めに、神は天地を造られた」である。クリスチャンなら誰でもこれを信じているのだろうかと思って戸惑った。友人は余り深く考えないで先に進んだ方が良いと言ったので、読み進んだが不可解だった。不可解なまま受洗し歳を重ねた今、主がおこされた様々な奇跡、死からの復活など、不思議と違和感なく受け入れている自分がいる。

詩編8章でダビデは「人間は何者なのでしょう」「人の子は何ものなのでしょう」と自分の存在の不思議、自分の存在の不確かさを問いながら、自然界の原理に神の働きを見出して、そこに自分を結び付けることから確かな生きる基礎を見出している。自分は存在の意味も明らかでないほど小さく、大きな世界の中で不安に満ちた生を歩むものである。

わたしたちの不安に満ちたちっぽけな一つ一つの魂の歩みは、つまずき、途方に暮れて行き詰まる、それでも、大きな命の造り主、命の支え手に繋がっている。希望のない夜を過ごしたとしても、それでも朝が来て太陽が顔を出す。自分はその世界に生かされているという事実。神は天地の造り主、全能であるという事は、私には人生を預けて生きる事のできる存在があるという事を意味する。

柳下教授の記事を自分の理解の範囲でまとめた。次に「父なる神」について記される。旧約聖書の中で神について抱かれる「父」というイメージは、時代と共に変化していった。反抗や失敗を赦さない厳父であったが、王国崩壊、神殿壊滅、捕囚を経験した後、間違いを赦す父が与えられる。

そして主イエスによって「父」は、放蕩息子を迎える父のように、受け入れ抱擁して下さる父である。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「ていねいで物持ちの良き自分のこと今日は嫌ひになってしまへり 丸山真理子」


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